2011年7月22日金曜日

自ら助けるものが助けられる (20110722)

 福沢諭吉は「天は自ら助くる者を助く」と言った。「自ら助く」とはまさしく「自存」行動である。

 現今、「市民活動」と称して、「社会の弱者」だけを救おうとする運動がある。そのイデオロギーはいろいろである。一般には「反国家的」活動の側面が大きいようである。「自ら助ける」努力が足りない者が「声を大」にする手段として、「市民活動」という「市民」を冠した活動に加わっているように見える。

 確かに「自ら助く」力の弱い者は、「社会の弱者」になりやすい。障害者、母子家庭・父子家庭の親、学童・幼児・乳幼児、高齢者などは、法律によって社会的保護の対象になっている。そのこと自体はここで取り上げる問題の対象外である。

 問題は、人として「自ら生き残る」必死な努力をしているか、ということである。自分を卑しみ、他人を羨み・妬み、自分がこういう状態にあるのは自分のせいではなく、社会のせいであると、少なくとも心の片隅で思っている人たちが多すぎはしないか、ということである。

 一部の政党は、そのような人たちに視線を向け、そのような人たちの声を代弁し、そのような人たちのため、国の富を分配するように活動している。その目的自体は問題ない。 問題は、そのような政党が、国の防衛のための兵力増強や軍事同盟について、イデオロギー的に反対していることである。それらの政党が、「外国人参政権」や「夫婦別称」を主張し、意識的にせよ無意識的にせよ、国の精神的強固さを壊そうとしていることである。

 国も人もその構造は変わらない。国にも人の頭脳と同じ政府があり、人の五感と同じ情報収集の機能があり、人の血管や神経と同じ運輸・交通・通信網がある。人の手足と、それを動かす頭脳と、その動かし方の能力と、その能力を高め、拡大する道具や器具である武器などに相当するものが国にもある。軍や警察などがそれに相当する。

ただし「腕」を意味するarmと、「武装した力」を意味するarmed forcesarmとは語源が違うので、「腕力=武力」と短絡的に考えてならない。日本人は昔から「武」を忌み嫌うところがあった。「武」はたとえば人に襲いかかる野獣の爪を出した腕とは違う。「武」は人間にしかない文化の所産である。忌み嫌うのは女性的、情緒的である。

私が言いたいのは、人も国も「自存」のため、つまりは「自ら生き抜くこと」のため、真剣になるべきであるということである。自らを助けようとしないものは、結局助けられないのである。この世のあらゆる生き物、野辺に咲く名も知らぬ小さな草さえも、万物皆それぞれ分子の活動があって、環境に適合したものだけが生き残っているのである。その活動のエネルギーの小さいものでもそれが環境に適合している場合は、今日まで命を繋いできている。従い自分の不幸を人のせい、社会のせいにする者は結局救われない。

国も同じである。憲法前文にあるような「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」いるだけでは、われらの「安全」と「生存」は絶対に保障されないのである。

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