「再生可能エネルギー」について大義と公儀 (20110725)
「公儀」についてウイキペディアを引用する。
“豊臣政権末期の政情不安定期に公権力を漠然と公儀と呼ぶ慣習が生まれ、江戸時代に入ると統一政権で諸領主権力間の唯一の利害調整機関となった江戸幕府を指して公儀と呼ぶようになった。ただし地方では藩を指して公儀と呼ぶ習慣も残り、幕府のことを「公儀の公儀」と認めて特に大公儀(おおこうぎ)とも呼ぶようになったのは寛永期以後と言われている。”
再生可能エネルギーについて「大義」はどこにあるか?「主君」を「国民」に、「臣民」を「国会議員・政府官僚」に置き換えれば、答えは自ずと明らかである。経産官僚古賀氏が指摘するように、現在の発電・送電・配電を電力会社が独占している現状では競争の原理が働かず、企業がいくら安価な電力を生み出しても消費者にその恩恵がない。
その一方で、電力会社には官僚が天下りし、政官業の癒着構造を作って、一般消費者には縁遠い一種の「村社会」を構成し、お互いに「甘い汁」を吸い合っている。
それが「大義」」に反することは明らかである。一方、「甘い汁」を吸い合う「村社会」は、「公儀」の側として公権力を利かせている。計画停電は一体何だったのか?「節電」キャンペーンは一体何のためであるのか?
国民は「公儀」の為すがままに従わざるを得ないような状況が起きている。しかし「公儀」により何らかの利益を得ているかもしれない一部のマスコミや労働組合は、表向き「国民」の側に立っているように見せかけながら、実は「公儀」の側についている。
「長いものに巻かれる」という諺がある。人は社会の中で生き抜くため長いものに巻かれた方が「自存」できる。一般国民はどうすればその「長いもの」を手にすることができるだろうか?
答えは「イワシの大群」である。イワシはどれかいち早く方向を変えれば、ほかのイワシは間一髪を入れず一斉にその方向に転換する。そして群れが恰も巨大な生き物のように見せかけ、イワシを狙う大きな魚の餌食となる数を局限している。
同じことを一般国民もやればよい。「国民投票法」を作り、その法律によって国の大事を決めることについて国民の意思を問えばよい。
ただし、この法律によってこの国が誤った方向に行かぬように、国民投票にかける前に「賢者」たちによる事前討論・討論の公開・予備調査など幾段かの手順を踏んで、「某国」や「某ジャーアナリズム」や「某学者・論者」などによるマインドコントロールを未然に防止する仕組みを作っておく必要がある。「民主主義とは少しの良識者による合意で進める仕組み」であることもまた、真実であると思う。
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