2009年12月11日金曜日

やましき沈黙(20091211)

旧帝国海軍元将校たちによる400時間に及ぶ反省会のことについて、男は以前このブログに書いたことがある(2009816日日曜日「長崎への原爆投下(20090816)」)が、これに関連した内容で、128日の夜10からNHK番組で『“日米開戦”を語る、海軍はなぜ過ったのか』が放映された。男はこの番組を録画してあったので再生して観た。この番組は反省会を記録したビデオテープを見ながら戦前生まれの作家二人と旧海軍の歴史の研究に関わっている戦後生まれの方が対談し、この貴重な反省の記録を現在にどう活かすかという問題を視聴者になげかける内容であった。
8月に放映された『日本海軍400時間の証言』の反響は大きかったようで、特に30代、40代の人たちから今の組織の中の人々の行動は当時の海軍と言う組織の中の人々の行動と全く変わっていないことに驚いたというような感想が述べられたということである。男は、時代が変わっても日本人の行動様式はそう変わってはいないのだと思う。いつの時代でも先見の明があって時代を先取りし突出した行動を取ろうとする者は疎んぜられ、左遷されたり殺されたりする。突出した行動を取る者でも、真に強い者は生き残り王者となることができる。そのような人物は何百年に一人ぐらいしか出ないと思う。
日本では先の無謀な大戦で軍人・軍属の戦死者230万人、民間人の戦没者80万人、合計310万人という恐ろしいほど膨大な数の犠牲者を出した。近隣のアジア諸国における犠牲者の総数はもっと多いと言う。『日本海軍400時間の証言』から判ったことは、310万人もの犠牲者を出した戦争を起こしたにもかかわらず戦争の口火を切ったのは海軍という組織であって特定個人ではないということである。つまり責任の所在がはっきりしないということである。この状況は今でもあてはまりそうである。
民主党はマニュフェストを掲げて政権を取った。マニュフェストの実行は国民との契約の履行であるという論理を正しいものであるとしている。その契約の履行のため前政権が景気対策として打ち出した事業の一部を削った。前政権は先ず企業活動を盛んにして雇用を増やすことにより景気を向上させる方策を取っていた。これに対して現政権は個人の消費を増やすことにより景気を向上させる方策を取っている。前政権の政策は弱者切り捨てであると非難し、現政権は国民の目線で弱者の暮らしを保護する政策を実行するとしている。男は国家社会主義的な現政権に危ういものを感じる。
日米同盟の軽視、財政規律を無視した大量国債の発行、外国人参政権の推進などの政策により重大な問題が起きたとき、その問題を起こしたのは民主党という組織であり、民主党に政権を委ねた国民であり、警鐘を鳴らさなかったジャーナリズムやマスメディアであって、政治家である自分たちではない、と内閣総理大臣や閣僚たちは言うのであろうか?
鳩山氏は「もしマニュフェストに書いてあることが実行できなかった場合、責任をとる」と言ったが、日本をめちゃめちゃにしてしまった後、どのような責任を取るのであろうか?東条英機はA級戦犯として裁かれ、最後まで天皇を護って刑死した。徹底した組織行動をした海軍は一人もA級戦犯の刑死者を出さなかった。民主党も旧海軍と同じような行動パターンをとるだろうと男は予想する。民主党内には右派の議員も多い。しかし党の結束のため旧海軍と同じように「やましき沈黙」をするだろう。(関連記事:「YouTube20090819)」、「非核三原則(20090817)」、「長崎への原爆投下(20090816)」)

2009年12月10日木曜日

老楽は唯至善を行うにあり(20091210)

 題名の言葉は、西行(俗名:佐藤義清(さとう のりきよ、憲清、則清、範清とも書く。)1118 - 1190年、平安末期から鎌倉初期にかけての武士・僧侶・歌人。)が遺した詩の一節である。西行は生前;

  ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (山家集)
という歌を作っており、その歌のとおり陰暦の2月である如月(きさらぎ)の満月に近い日(陰暦216日)、釈尊涅槃の日に73歳で没したといわれている。ちなみに陰暦で月齢14日を小望月(にもちづき)と言う。

 西行の『至善』という作詩は以下の訓読のとおりである。このブログの831日の記事「至善(20090831)」に書いているが再掲する。

 晴れに非ず 雨に非ず 睡蓮の天
  山に非ず 林に非ず 在家の仙
  一日を一生として 興究(きょうきわま)りなし
  老楽は唯至善を行うにあり

 この詩の意味を、男は以下のとおり解釈した。もともとこの詩には解釈が付されているわけではないので、男は自分の仏教に対する考え方に基づき解釈しているものである。従って今後解釈を改めるかもしれない。この詩は男が主宰している詩吟の会のテキストの来年月の吟題である。男は近いうちブログ『吟詠』にこの詩の吟詠をアップロードする。

  池の睡蓮は天候に関係なく時期がくれば咲いている。
自分は山中に住む仙人でもなく、林の中に庵を構えている僧でもなく、
在家の身でありながら不老不死の術を心得ている仙人のようである。
(明日白骨になるかもしれないわが身は生老病死の四苦から
        絶対に逃れる  ことはできず、怨みや憎みに会う苦、愛する人と
        別離する苦、求める  ことが
得られない苦、要するに生きている
        間中苦から逃れることはできず、逃れようとして求める一時的
        快楽も結局は苦を作る身である。)
そのように達観すれば、一日が一生のように今この時生きている自分の日々は、面白おかしいことばかりである。
  従って、老人の楽しみは、唯一つ、自分が最も善いと信じることを行うこと
    であり、自分はその楽しみの中にあるのである。

 男は久しぶり声を出してこの詩を吟じ、録音し、再生して自分の吟を聴いてみた。全身に精気が漲っていないせいか、年のせいか自分の声にかつてのような‘張り’‘艶’がない。しかし「至善を行う」ことに越したことはないと思う。声を出して詠うことは精気を漲らせるよい方法なので、男は日中の時間を決めて毎日詠うことにした。



2009年12月9日水曜日

普天間基地問題(20091209)

 鳩山総理大臣もいよいよ最も困難な決断を迫られることになった。事業仕訳などに見られるような改革を実行するためには参議院で多数与党とならなければならない。政官業の癒着を断ち切るという国民の期待を背負ってその期待に応えるため、民主党は敢えて考え方の違う社民党を与党の一員として組み入れ、連立を組まなければならなかったのだろうと男は好意的に解釈したい。どういう決断になるのか男は大いなる関心をもっている。

 社民党はどちらかと言えば反国家的政党であると男は思う。殆どの日本人が知らない「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀館」という名称が正式である「南京大虐殺記念館」は、社民党の前身である日本社会党の田辺誠という人物が総評から3000万円の金を得てその建設資金としたものである。中国はこれを反日教育の場にしている。戦争だから無法なことが実際に起こったのは間違いないが、事実が曲げられ、誇張され、宣伝されている。

 社民党だけで草案を作ったわけではないと思うが、村山談話は「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」と言って、「日本は侵略国家である」という誤った認識を中国に持たせてしまった。

 男は戦後生まれのある有名な論客が書いた本を斜め読みした。日米関係に関する現政権の考え方はこの書物に書かれていることを実行しようとしているように男は思う。男が一つだけ懸念しているのは、外交と安全保障に関する国家として意思決定がなされるとき、当然のことながら日本の歴史や文化に対する非常に強い誇り、一言でいえば愛国心を基礎においてそれが行われるべきであると考えるが、果たして今の60代、70代の人たちはその基礎がしっかりしているのだろうか、ということである。

 男は30代、40代の人たちの方が、その基礎をしっかり持っているように思う。それはそのような世代は日本が戦後復興して豊かになり欧米の文化に無意識のうちに溶け込む一方で、その文化とは異質な日本の文化や歴史を振り返るようになったからだと思う。60代、70代の人たちは、「日本がアジア諸国に侵略し、悪いことをした」と言われれば、「ああ、そうか、日本は悪いことをしたのだ」と思う程度だろう。一方30代、40代の人たちは、「本当にそうであったのか? 自虐的になるのはおかしいのではないか。」と思うだろう。

 民主党は肌合いが全く違う社民党とは手を切って、自民党や公明党などと是々非々の協調関係を作るべきであると男は思う。先の選挙で民主党に大敗した自民党にも、普天間基地問題をこじらせた責任がある。先の選挙の時、鳩山氏は「自民党に頑張って頂きたい」と言っていた。もし自民党がもう少し多く議席を取っていれば状況はここまで悪化しなかっただろう。多くの国民は国債の大量増発や普天間基地問題について大きな不安感を抱いていると思う。国がめちゃめちゃになってしまうのではないかと心配していると思う。

 中国の影響を懸念する東南アジアの人たちは、日米安保に亀裂が生じることを恐れている。日本人のDNAには超古代東南アジアから日本列島に渡ってきた人々のDNAも含まれている。漢民族の中国大陸では縄文人は駆逐されてしまった。日本列島では縄文人は大陸や南方から渡ってきた人々と共存し、混血し、日本人の起源となった。日本とアメリカの間には、アメリカとイギリスの関係に次ぐ深い信頼関係がある。ペリーの艦隊が来航して以来、日本とアメリカとの間にはアジアの他国には見られない深い絆で結ばれているのだ。

2009年12月8日火曜日

年賀状(20091208)

 今年また年賀状の季節がやってきた。男は毎年300枚近く年賀状を出し、300枚近く年賀状を貰っていた。年賀状はパソコンで作り、写真をはめ込んだりしていた。文字も筆字に似たフォントを使い、なるべく手造り風を心がけていた。そして印刷したものに何か一言書いたり自筆で署名したりしていた。しかし、どんなに工夫しても形式的な温かみのない年賀状になってしまうことは否めない。男も来年は73歳になる。来年1月に丁度満100歳になる方から男と女房の戒名を頂くことになっているが、それをいつまで眺め続けられるかもわからない。心の籠っていない形式的な年賀状からおさらばするべきであると考えるようになった。そこで今年は通常の年賀はがきを100枚、色つき10枚、絵付きを10枚の合計120枚しかしか買わなかった。

 絵付きの年賀はがきはクリスマスカード代わりに表は日本語、裏は英語で書いて封筒に入れ、アメリカの友人に送った。英文には「くじの番号は控えてあります。もしくじが当たった知らせます。楽しみにしてね。」と書き加えた。そう、相手がアメリカ人と言っても何も向こうの風習に従うことはない。第一綺麗なカードを買うと何百円かかかる。あほらしい。年賀はがきだと155円である。横浜の風景が印刷されている。このほうが良い。先方も喜ぶだろう。表書きを達者な筆字にしたら一層良かったかもしれないが、男は字が下手であるのでそれは止めた。今後筆字の練習をしなければと思う。

 今度も活字印刷の年賀状が沢山来るだろう。男は買ってある120枚の年賀はがきのうち数10枚を女房の分とし、残りを仕方なく今度もパソコンで作る。パソコンで作る方が伝えたいことを良く伝えられるメリットはある。印刷の年賀状の無味乾燥さを少しでも和らげるため、余白の部分に心をこめて何か書こうと思う。そのためにも出す枚数が少ない方が良い。初めに出す相手を厳選し、その他には敢えて礼を失し、義理を欠こうと思う。そして頂いた年賀状のうち、特に年賀状を送っておくべき相手だった場合のみ松の内に失礼を詫びて丁寧な年賀状を出したいと思う。しかし今度は田舎に3日までいて、ここに帰ってくるのは4日の夜になる。時期を外れた年賀状なんか一層失礼である。早々寒中見舞いを書いて、失礼を詫びた方が良い。男は今年からそうすることに決めた。

 今日は月曜日(このブログの日付は一日後)、お天気は良いが北風が吹き気温は低い。女房は川口に出かけている。昨日、女房は体調がすぐれず元気が無かった。今朝は元気を取り戻していた。誰かに会うため出かけるということは心を浮き立たせるものがある。シャワーを浴び化粧をし、着て行くものをあれこれ選んで身なりを整え、持ち物を選んだりしていると心が躍る。男は女房に言った。「お前が元気でないと俺は生きてゆけないんだからね」と。女房にとって男に尽くしていることが男に認められ、男に頼られていることが生きる喜びであるのだ。サンディエゴの男の友達である男と同じ年のスエーデン人は、電話で男に「hug」と言い、女房に彼女からの「hug」を伝えてくれという。日本人は人前で相手を抱きしめることはあまりしないが、欧米人はそれをよくやる。男は出かけ前の女房をしっかりhugしてやった。「hug」は愛情を示す最も良い方法である。

 今日は女房が居ないのでパソコンで年賀状を作ったり、古本屋に行って菊池寛の『恩讐の彼方に』という本が売っていないか探したりしようと思う。この本は男が主宰している詩吟の会のイベントの準備のため必要である。このことについては後日書くことにする。

2009年12月7日月曜日

坂の上の雲(20091207)

 インターネットで路線検索する場合、googoleで検索する場合と gooで検索する場合について比べてみた。男はgoogleを使い慣れているせいか、googleの方が良いと思う。これは好きか嫌いのかの問題かもしれないが・・・。

 女房は長年肩が凝っていて自分では気がつかなかったが、美容院に行った時美容師が肩を揉んでくれて、「凝っていますね」と良く言われていたらしい。先日長男の嫁の勧めで川口の針灸院に行って治療しても貰ったら一発で治ってしまった。女房は友だちにそのことを話したら、今度はその友だちを連れて明日その鍼灸院に行くことになった。長男の嫁がまた一緒に行ってくれるという。

 男は女房に川口まで一番短い時間で行く方法をインターネットで調べて欲しいと頼まれたので、いろいろ調べてみた。女房は湘南新宿ラインとか埼京線が一番早いのではないかと考えている。しかし男が調べてみると東海道線を使って新橋で京浜東北線に乗り換えるのが一番早いことが判った。そのことを女房に伝えたが女房は「そうかなあ」と疑っている。Googleが良いのは、検索すると一緒に地図が出ることである。男は女房にその画面上の地図を見せながら説明したら女房はようやく納得した。明日はお天気が良さそうなので、女三人、初顔合わせもあるが結構楽しくやることであろう。

 これを書いていると女房が、「お父さん、『坂の上の雲』が始まるよ」と知らせて来た。男はパソコンを休止モードにして居間に行きソッファに二人並んでそのテレビドラマを観た。場面の一つに予備門で勉強している秋山真之と正岡子規が下宿で勉強に励んでいる場面があった。男は高校の頃寮生活をしていたが、その頃英語の試験勉強をした時のことを思い出し女房に話した。「夏の蒸し暑い夜、ブリキのバケツに水を入れてその中に足を突っ込んでね、上半身裸で背中に水で冷やしたタオルをかけて裸電球の下で英語の勉強をしたよ。」女房は「そお?エアコンなんか無かった時代だものね。」と言った。

 あの頃寮では一部屋2名だったが毎晩点呼があって、最上級生が寮長で点呼に回ってきていた。点呼の時は皆部屋の前の廊下に並んで点呼を受けた。寮は木造二階建てで多分旧軍の兵舎だったのだろうと思う。食事は粗末なものでおかずは昆布の佃煮とか沢庵だった。汁は寮生が「レントゲン」と言っていた中にわかめが一切れ入っている程度の透き通った醤油汁だった。夜食堂でコッペパンを売っていた。一個10円だった。仕送りも十分でないので時々同級生から借金をしてそのコッペパンを買ったものである。食事の内容が悪いと言って、上級生が皆を集めて指揮して学校の事務室に談判に行ったことがあった。

 学校では体育の時間に剣道や柔道があった。剣道着や防具や柔道着は体育館の脇部屋に吊るしてあるものを使っていた。従って非常に汗臭いものであったが若い盛りであまり苦にはならなかった。帽子の頭はわざと汚して油を塗っててかてか光らせ、いつも高下駄を履いていた。夏休みに帰郷する時でも高下駄を履いていた。

 明治の初めの頃はもっと貧しく、『坂の上の雲』では、その様子を表現しているが、貧しさは戦後の頃以上であっただろうと思う。明治の初期も戦後も貧しさゆえに未来への希望があった。皆貧しくても暗い顔はしていなかった。今の人たちはぬるま湯の中で育っていて逞しさが足りないように思う。政治家たちも同じだと思う。普天間基地の問題を大きくしてしまったのもその延長線上にあるように思う。

2009年12月6日日曜日

向こう三軒両隣のお付き合い(20091206)

 近年、都会地の特に集合住宅では、お互いプライバシーを尊重し合うのか、関わるのが面倒なのか、エレベータの中で顔を見合せても会話を交わさない人たちが多いようである。しかし男が暮らすこのマンションは僅か26世帯プラス会社の寮として2戸の小さなコミュニティであるのでお互いよく会話を交わしている管理組合の役員は3人で毎年交代するが26世帯中3世帯がオーナーではないのですぐ巡ってくる。

 このマンションには自治会はないので管理組合の役員が町内会から届けられる広報などの配布など自治会の機能も行っている。会社の寮には東南アジアの国から来ている技術研修生も生活している。男は日本語が上手にできない彼らにゴミの出し方などいろいろ教えたりしたことがある。最近は彼らも日本語が上手になった。しかし近く国に帰ると言う。

 このような小さい集合住宅だと住民がまとまりやすい。男が理事長であったときパティオみたいな駐車場で芋煮会をしたことがあった。また子供たちに楽しんでもらおうと、男が務めていた会社の敷地内の落ち葉を集めて持って帰り、近くの河原で落ち葉を燃やして芋を焼いたことがある。なにかのイベントをすればコミュニティはまとまる。

 10年に一度の割合で行われるマンションの大修理が男のマンションで行われている。今回は窓の枠のシールも交換するため全戸網戸を外した。ご主人が亡くなったりして自分ではできない網戸の取り外し等は修理業者が手伝ってやってくれる。男は網戸の網を全部自分で張り換えた。黒色の網にしたら前方が透き通ったように見えるようになった。これでまた10年ぐらい使うことになる。その時男は80数歳になっている。生きているかどうか、元気かどうか、まあ健康に気を付けていつまでも元気でいたいとは思う。

 男がこのマンションに引っ越してきたのは男が50になる前のことであった。今あれから2度目の大修理をしているところである。これももうすぐ終わる。住民は皆年をとったとつくづく思う。

 今夜近所の方からまた釣ったばかりのサバやイサキや干物を頂いた。魚をさばく作業は男より女房の方が上手である。女房が自分でさばくというので、男は女房に言われて干物を一匹づつサランラップに包む作業をし、それらを口が閉まる大きいビニール袋に入れて冷凍庫にしまった。冷凍庫の中は冷凍食品で一杯になった。おかずには当分不自由はしない。

 男の所には田舎からしょっちゅう何か送ってくる。今日は大分のカボスが一箱送られてきた。自分の家の庭先でとれたもので農薬は全くかかっていない安全なものである。男は早速近所の方に少しおすそ分けした。カボスの汁は焼き魚や味噌汁にかけると味が引き立つ。

 あっちこっちから年末の贈り物に対するお礼の電話がひっきりなしにかかってくる。今年は果物専門店で奈良県産の富士柿を詰めたものを贈った。これはとても喜ばれている。贈ったものがどんな味がするのか確かめるため、男の家にも届けさせた。確かにこれは豪華で、ほのかな甘さと上品な味がする。妹などは弾んだ声で、「柿は二日酔いに利くので嬉しい」という。男は親しい友人や先生、お世話になった方々に毎年贈っているのであるが、先方からもいろいろ珍しいもの美味しいものを贈ってくる。贈ったり贈られたりしてお互い喜びあう。形ばかりの心がこもっていないものを贈るのはケチと思われ、うわべだけの礼を言われる。馬鹿らしいことである。

 しかし、このようなお付き合いは女房が真心を尽くしてよくやってくれているから出来ていることである。男は女房のお陰で幸せな人生を送っていると、心からそう思っている。

2009年12月5日土曜日

師走の小春日和のひととき(20091205)

 このブログを始めたときタイトルの日付を一日前にしておけばよかったがそうしなかったため、「今日」と書くと明日の日付のアップロードとなる。
今日は久しぶりの小春日和、県立三つ池公園まで電車とバスと徒歩で行く。公園の裏手の住宅が並んでいる高台にある入口から入る。この公園は昔農業用の池だったところを整備して公園になったものである。
以下、Wikipediaより引用。

 名前のとおり、園内には三つの池(上の池、中の池、下の池)がある。園内には35品種1000本を超える桜が植えられており、日本さくら名所100選の一つに選定されている。ソメイヨシノが7割を占め、春には花見客で賑わう。また、神奈川県が選定した「かながわの探鳥地50選」にも選ばれており、林間の小鳥や池の水鳥も多くの種類が見られる。
 園内には軟式野球場やプール、テニスコートなどが整備されているほか、tvkの送信塔もある。(注:これは狭い道を隔てた丘陵地にある。)
 園内にある3つの池は、江戸時代の1787年(天明7年)に、農業用水のため池として浚渫・整備された。その後、1941年(昭和16年)には都市計画緑地(防災大緑地)に指定され、1950年(昭和25年)から失業対策として周辺の公園整備に着手した。1954年(昭和29年)に県立公園に指定され、1957年(昭和32年)には神奈川県立の都市公園に指定された。

 男と女房はこの公園に時々遊びに来る。来るたびによく見かけるのは、飛んでくる野鳥をカメラに収めようと待ち構えている人たちである。赤い実が沢山成っている低い木の方にカメラを向けている人たちに女房が「どんな鳥が飛んでくるのですか?」と聞く。中年のひげを生やした男性が「めじろですよ」と答えてくれた。カメラ好きな人たちは小鳥たちの一瞬の表情を撮ろうとして仲間と談笑しながら何時間も待ち構えている。

 公園の一角にパークセンターという公園の管理を行う建物があり、中で休憩したり展示物を見たりすることができる。花の写真や野鳥を撮った写真などが展示されている。カワセミが嘴に何か小魚を加えて羽ばたいている写真があった。この写真が撮れるまで随分長い期間何度も足を運び、辛抱強く待ち続けたことであろう。素晴らしい写真である。

 今日はラッキーであった。紅葉、銀杏の黄色、落葉がとても綺麗であった。風景がとても綺麗であった。男も女房も今日は歩くことが目的であったのでカメラを持って来なかった。その代わり画素数が多い携帯電話機を持っているので、それで写真を撮った。フォトモードにして撮ればその場で再生して撮った結果を確かめることができる。男も女房も良い写真があれば後で処理しようと考え、同じ所をデジカメモードでも撮っておいた。

 水面にはカルガモやキンクロなどが飛んできている。三つの池は起伏に富んだ丘陵に囲まれた低地にある。水辺と木々と花と自然の里山の雰囲気のコンビネーションがとても良い。男と女房は恋人同士のようにして森の中をゆっくり歩き、枯葉の散る音、地面一杯に降り積もっている枯葉を踏む音、小鳥たちの囀り、風景を楽しんだ。男も女房もこのような平和な幸せな素晴らしいひと時がまた来年もあるとは限らないのだ、と思いながら・・・。

2009年12月4日金曜日

同盟とは何か(20091204)

 男はある友人から以下の詩を頂いた。これは男の友人がサンディエゴに住む友人から送られてきたものを男に再送してきたものである。作詞者はアメリカ海兵隊のある兵士である。

 アメリカはアフガニスタンへの兵力を3万人増強するという。現地の指揮官の要求は4万人だったようである。目的はテロ活動組織の破壊であり、アメリカは同盟国に協力を要請している。日本はアメリカの同盟国である。

 同盟関係の双務性について、男は漠然としか理解できていない。しかしインド洋からの撤退、普天間基地問題の解決の日米合意の軽視はどう考えても双務的ではなく、「核の傘に入れてネ、お金出すからあたしを守ってネ」と言っているような、旦那(アメリカ)と妾(日本)のような情けない関係だと思う。
 
 男は日本の古代史から現代史にいたるまで勉強しているところであるが、日本の特質について一つだけ、「多分そうではないかな」と思うところがある。現在のヨーロッパ人やアジア人などが世界各地に拡がってゆく前に、縄文人が比較的早い段階で世界各地に広がってゆき、その後大陸では新たにやってきた人々に駆逐されてしまったらしいが、この島国の日本列島ではそういうことはなく縄文人と共生・混血し、原日本人となったそうである。ただ、アイヌ人と沖縄人、特にアイヌ人は縄文人の特色を多く残しているということである。それでも遺伝学的には縄文人とは全く違うらしい。今沖縄のある洞窟で縄文人の骨が出てこないか学術調査が行われているらしい。

 この島国には長江中・下流域や南方から漁労・航海を得意とする人々がやってきて海岸伝いに沖縄・鹿児島南部から日本各地に広がり、また長江中・下流域から稲作文化を持つ人々が、朝鮮半島から狩猟・稲作・畑作文化を持つ人々がやってきて原日本人と共生・混血し、今の日本人になったのだと男は思う。そのような日本人であるため、日本人は古代から海外に進出することに積極的である。特に北九州の人々、北九州にルーツがある人々にその傾向が強いのではないかと思う。続日本紀にも「海行かば水漬く屍」と書かれている。

 天智天皇が皇太子であったころことの是非・原因・理由・状況などはさておいて、倭国(当時の日本)は「強大な唐国(当時の中国)と朝鮮半島の統一支配を狙った新羅との連合国と戦った。豊臣秀吉は明国(当時の中国)の支配を狙って朝鮮に出兵した。そして、明治時代(当時の中国)やロシアと戦った。昭和時代にはアメリカと戦った。今アメリカが支配している太平洋の島々はかつて日本の統治下にあった。

 このように日本人は古代から進取の精神構造を持っている。それは日本人の血の中に深く刻み込まれている遺伝子のせいではないかと男は思う。今、平和な日本であるが、もし北朝鮮が暴発し、日本の国に危害を及ぼした場合、日本人の眠りは覚め再び強大な軍事国家になってゆく可能性はある。

 東アジア共同体の中にアメリカやインドがいる限り、日本は中国そしていずれ統一される朝鮮と上手くやって行けるだろう。日本がアメリカの核の傘でしっかり守られている限り日本人はいつまでも平和で、東アジアの中で発言力を維持できるのだ。お互いに国益を追求しあう国際社会の中で友愛は通じず、熾烈なゲームに勝たない限り国益は守られないと男は思う。

 下の詩は、そのようなゲームとして、外交の手段として戦地に送られたアメリカ海兵隊の一兵士が、自分が命をかけて戦う理由を述べた詩である。「平和のために」戦わなければならない現実が、本当はお互い友愛の精神で付き合いたい国際社会の中に厳然としてあるのだ。

 インド洋ではジャパン・ネイヴィーの兵士たちが使命感をもって頑張っているのだ!この日本は「平和、平和」と叫べば平和が維持できると考えている連中に振り回されている。日の丸の国旗に敬意を表しない連中に振り回されている。

 外国人の参政権が法律的に可能になることを秘かに待っている人たちがいるだろう。北朝鮮がもし崩壊したら、何十万、何百万という飢えた人たちが日本の沿岸に押し寄せてくるだろう。日本はそのとき国をあげて、在日の人たちも懸命になって、その人たちを収容する船を動員し、膨大な数の仮設住宅を作り、国際的に高い評価を受けるだろう。皆外国人として居留し、いつの日にか故郷の国に帰ることを願うだろう。そして日本の地方議員や国会議員を出し、居留民族としての利益を求めるようになるだろう。

 しかし、2000年の歴史をもつ万葉集や源氏物語などの素晴らしい文学、漢文の訓読、ひらがなやカタカナの文字、天皇、神社、伝統、文化などに見る素晴らしい日本の国の精神や日本の国の形は変わってしまうことだろう。

 前書きが長くなったが、以下にアメリカ海兵隊の兵士が作った詩を転記する。男はこの詩を全日本人に読んでもらいたいと思う。男はこの詩の中で特に感動した部分を太字・斜字にしておいた。

New Christmas Poem

TWAS THE NIGHT BEFORE CHRISTMAS,
HE LIVED ALL ALONE,
IN A ONE BEDROOM HOUSE MADE OF
PLASTER AND STONE.

I HAD COME DOWN THE CHIMNEY
WITH PRESENTS TO GIVE,
AND TO SEE JUST WHO
IN THIS HOME DID LIVE.

I LOOKED ALL ABOUT,
A STRANGE SIGHT I DID SEE,
NO TINSEL, NO PRESENTS,
NOT EVEN A TREE.

NO STOCKING BY MANTLE,
JUST BOOTS FILLED WITH SAND,
ON THE WALL HUNG PICTURES
OF FAR DISTANT LANDS.

WITH MEDALS AND BADGES,
AWARDS OF ALL KINDS,
A SOBER THOUGHT
CAME THROUGH MY MIND.

FOR THIS HOUSE WAS DIFFERENT,
IT WAS DARK AND DREARY,
I FOUND THE HOME OF A SOLDIER,
ONCE I COULD SEE CLEARLY.

THE SOLDIER LAY SLEEPING,
SILENT, ALONE,
CURLED UP ON THE FLOOR
IN THIS ONE BEDROOM HOME.

THE FACE WAS SO GENTLE,
THE ROOM IN SUCH DISORDER,
NOT HOW I PICTURED
A UNITED STATES SOLDIER.
WAS THIS THE HERO
OF WHOM I'D JUST READ?
CURLED UP ON A PONCHO,
THE FLOOR FOR A BED?

I REALIZED THE FAMILIES
THAT I SAW THIS NIGHT,
OWED THEIR LIVES TO THESE SOLDIERS
WHO WERE WILLING TO FIGHT.

SOON ROUND THE WORLD,
THE CHILDREN WOULD PLAY,
AND GROWNUPS WOULD CELEBRATE
A BRIGHT CHRISTMAS DAY.

THEY ALL ENJOYED FREEDOM
EACH MONTH OF THE YEAR,
BECAUSE OF THE SOLDIERS,
LIKE THE ONE LYING HERE.

I COULDN'T HELP WONDER
HOW MANY LAY ALONE,
ON A COLD CHRISTMAS EVE
IN A LAND FAR FROM HOME.

THE VERY THOUGHT
BROUGHT A TEAR TO MY EYE,
I DROPPED TO MY KNEES
AND STARTED TO CRY.

THE SOLDIER AWAKENED
AND I HEARD A ROUGH VOICE,
'SANTA DON'T CRY,
THIS LIFE IS MY CHOICE;

I FIGHT FOR FREEDOM,
I DON'T ASK FOR MORE,
MY LIFE IS MY GOD,
MY! COUNTRY, MY CORPS.'

THE SOLDIER ROLLED OVER
AND DRIFTED TO SLEEP,
I COULDN'T CONTROL IT,
I CONTINUED TO WEEP.

I KEPT WATCH FOR HOURS,
SO SILENT AND STILL
AND WE BOTH SHIVERED
FROM THE COLD NIGHT'S CHILL.

I DIDN'T WANT TO LEAVE
ON THAT COLD, DARK, NIGHT,
THIS GUARDIAN OF HONOR
SO WILLING TO FIGHT.

THEN THE SOLDIER ROLLED OVER,
WITH A VOICE SOFT AND PURE,
WHISPERED, 'CARRY ON SANTA,
IT'S CHRISTMAS DAY, ALL IS SECURE.'

ONE LOOK AT MY WATCH,
AND I KNEW HE WAS RIGHT.
'MERRY CHRISTMAS MY FRIEND,!
AND TO ALL A GOOD NIGHT.'

This poem was written by a Marine

2009年12月3日木曜日

時に‘元’気を失う(20091203)

 「身体屈強・精神堅固なる者も時に気力衰弱せる時無き者はなし。かかる時古の賢者の書きたる物に親しみ、瞑想し、ひと時の間諸々の事をば煩悩の彼方に置き遣ればやがて気力回復し、身体に精気漲るようになるなり。」

 これは今男が思いつくままに書いたものである。男は10年前ぐらいまで時々合気道の道場に通っていた。その頃稽古が終わった後は気力が充実し、自分よりは若い仲間と居酒屋で談笑し、帰宅して意気軒昂であった。

 男は以前故植芝吉祥丸先生が書かれた『合気道開祖 植芝盛平伝』などの書物を購入し、精読はせずのまま書棚の奥に眠らせていた。これを今朝取り出し開いてみた。それには「純化された生命力の象徴としての‘気’と宇宙の‘気’とが混然一体となって無心無我なるがゆえに自在に立ち居ふるまう」というようなことが書かれている。

 男は「元気」とはそのような自分の「気」と宇宙の「気」とが一体となったような「気」だと思う。「元気がなくなる」というのは、自分がこの世に「生かされていること」を忘れ、「この世で果たすべき役割」見失うことだと思う。しかし、「生かされていること」や「この世で果たすべき役割」を自覚できている人でも時にそのことを忘れ、‘元’気を失うことがあると男は思う。

 男はそのことを今朝感じ、女房に一言、二言ぶつぶつ言った後、書棚から上記の本や、夢窓国師の『夢中問答集』や新渡戸稲造の『武士道』などを取り出しページをめくり、過去に読んでページを折り曲げ目印を付けておいたところを読みなおし赤線を引いて付箋やマークを付けたりした。そして高さ20cmの踏み台と足の裏のつぼを刺激する器具を使って足の裏のつぼを刺激する運動(関連記事:「居間で行う非常に楽な運動(20090901)」)をしたり、13kgの鉄アレイを両手に持って筋肉トレーニングをしたりしたら元気が出た。

 男に「座右の書」があるとすれば、今、それは夢窓国師の『夢中問答集』である。男の家の書棚にはまだ殆ど読まずに置いてある道元の『正法眼蔵』などもある。何かの折に買って殆ど読まずに書棚に長年月放置したままになっている書物でも、何かの折に読むことがあるので、本と言うものは欲しい時に買っておくべきであるとつくづく思う。

 その『夢中問答集』の中に度々出て来る言葉に「霊光(くしきひかり)という言葉がある。「古人云はく、人各々霊光を具す。円覚経に大光明蔵三昧と説けるも一切衆生本具の霊光なり。」と夢窓国師は説いている。男にも霊光は出ているのだ。男は自分の女房の霊光は自分の霊光に勝るものであると感じている。

 ところで左翼思想の毒された学者の中には「聖徳太子は実在していなかった」と本に書き、その本を読んだ者がその説を信じている者もいる。政治家の中にもそのような者がいないとは限らない。夢窓国師は「我が国の聖徳太子はすべての政(まつりごと)を行いながら・・(途中略)・・十七箇条の憲法の始めに上下の和睦を説き、厚く三宝を敬えをお載せになったのも政治を行うのは仏法のためだということである。・・(途中略)・・七百年後の現在に至るまで、誰でも太子の遺業を仰がぬ者はいない」と言っている。仏法は当時の国家の精神とするものであった。1400年後の今の政治家たちは今の日本国家の精神のことを考えてくれているだろうか?「国民の目線」と言うが「国家の目線」を考えているだろうか?(関連記事:「小説・騎馬民族征服説『倭王の末裔』(20091202)」)

2009年12月2日水曜日

小説・騎馬民族征服説『倭王の末裔』(20091202)

 タイトルの本は、豊田有恒という人が書いた本の題名である。男はこの本をまだ読み終わっていないが、著者は古代の日本人の呼称である‘倭人’について、これは朝鮮半島南部にいて後に日本を征服した騎馬民族及び彼らが日本を征服する以前から日本にいた人々の総称であり、朝鮮半島からやってきた騎馬民族が在来の倭国に代わって新しい倭国を建設したとする立場をとっているようである。

 一方、『日本列島の大王たち』の著者・吉田武彦(関連記事:「日本人の起源とヤマト王権(20091107)」以降)は、日本は騎馬民族に征服されたのではなく逆に北九州の大王が朝鮮半島の南部を支配していたと言っている。その根拠を銅鐸の分布など考古学の成果や中国の史料などに置いている。そして「江上波夫氏の騎馬民族説は、津田史学の双肩の上に立脚している」と言っている。吉田武彦は、邪馬台国は博多湾岸の領域にあったとしている。また神武天皇の東征は事実であるとし、ヤマト王権が成立する以前の歴史は北九州の大王の歴史を日本書紀の中に取り込んで作られたものであるとしている。

 男は「自分は何処からきたのか」ということを知りたくていろいろな本を斜め読みしながら大方のところを探っているにすぎないが、邪馬台国の所在地は奈良盆地であり、神武天皇は北九州の大王の分家筋であり、朝鮮半島南部一帯に北九州の大王の領地があり、そこに倭人が住んでいて隣国の百済と組んで朝鮮半島北部に侵入したと考えている。

 日本は朝鮮半島の北部から韓人を征服して南下し、北九州にやってきた騎馬民族に征服されて成立した国であるという立場を取る人は多いかもしれない。あるいは単純に天皇家の祖先は朝鮮半島から来た人にあり、実際古事記や日本書紀には天皇家の母方の祖先が新羅の王族であることが書かれているので「多分そうに違いない」と思っている人も多いと男は思う。この記事のタイトルの著者・豊田有恒は文化功労章も下賜されたという江上波夫の騎馬民族渡来征服説をもとに小説を書き、多くの日本人に影響を与えたと思う。

 政治家たちは暇な老人である男のように「自分は何処から来たのか」考えもせず、自分たちのルーツは大陸や南方からやってきたという程度にしか考えていないであろう。政治家で大学の理工系学部出身者は物事を合理的にしか考えようとしないであろうし、文系出身者の中には左翼的思想の教授につながる思考に盲目的になっているかもしれない。

 そのような状況の延長線上に外国人への国政・地方行政への参加権利付与の動きがあると男は考える。男は戦前のような皇国史観に立つものではないが、人が自分自身の心の中を省みるように、国家がそれ自身の心、いうなれば民族の集合的精神・集合的思想・集合的思考様式・集合的感情などを省みることをしないならば、その国家は滅びるであろうと思う。日本の国籍を有しないものに参政権を与えるならば、日本に大陸から移住してきた人々が何百万人、何千万人となったとき、かれらは日本国籍を有しないまま日本国の国益よりも自分たちの利益になることだけに関心をもち、その利益の実現のために大きな発言力をもつことになるだろう。

 「日本人は外国人に参政権を与えるという度量をもたなければならない」という言葉は多くのお人よし的な日本人には合理的に感じられるだろう。男は、日本の将来を憂える

(関連:「永住外国人の参政権(20090823)」、「再び外国人参政権について(20091126)」)

2009年12月1日火曜日

新幹線の予約(20091201)

 男の田舎の家は福岡空港から高速バスで1時間ちょっとのところにある。羽田と福岡間の航空運賃は新幹線に比べかなり安い。福岡空港から九州各地に高速バスが出ていて例えば宮崎に行くのも1時間半くらいで行くことができる。

 男は田舎に帰るときはいつもANAを利用している。インターネットで申し込めば楽に切符を手に入れることができる。切符と言ってもSkipで、ゲートでANAのマイレージカードをかざすだけである。座席指定もできるから早めに申し込めば運賃も安く、自分の好きな場所に座席を取ることができる。

 航空運賃は年末年始など帰省客が多い時期は高くなる。新幹線で帰るほうが格段に安い。そこで男は年末に田舎に帰るとき新幹線を使うことにしている。男はJR東海道などのカード会員になっていて1か月前の10時以降インターネットで申し込むと切符を買うことができるので、29日の朝、新横浜を出る列車を申し込んだ。帰りは予め指定する列車を決めておき、申し込みのボタン(パソコン画面上)を押すだけの状態にしておいて、123日の10時にそのボタンを押すことにした。というのは、年末年始は早い者勝ちで、もたもたしていると希望する列車が満席になってしまうかれである。

 実は以前は年末年始の休みの間、子たちが家族を連れて我が家にやってきていたが、九州の田舎に独り暮らしの老母がいて男と女房が年末年始の休みの間九州に帰ると皆が我が家に集まることができず、折角の休みの期間、家族の集いができない状況になっているのが問題である。老母は「休みが明けてから帰ってくれたらよい」と言ってくれているが、91歳の老母を独りだけにさせるのは近所の手前も良くない。

 そこで一応29日の切符は確保したが一日後の30日の切符を確保できないか当たってみることにした。折角大阪から子や孫たちがやって来るのに一日でも多く一緒に過ごすようにしたいと思ったからである。10時になったらすぐ申し込もうと思っていたがほかのことをやっていてつい時間を忘れ、10時半ごろインターネットで手続きをした。しかし既に遅し、13時以前の時間帯では切符が取れなかった。朝早い時間ならあったがこの齢になって時間を気にしながらあわただしく動くのは億劫である。そうでなくても田舎に帰り老母の面倒を診るということは疲れることである。

 後でわかったことであるがJR東海のインターネットで切符を取る仕組みでは「予約」という制度はなくいきなり「購入」する仕組みで、購入後取り消せば700円ほど手数料が取られる仕組みとなっている。その点ANAでは予約と購入は別になっている。JR東海の仕組みは一言で言うならば‘ガメツイ’。キャンセル料で少しでも多く稼ごうという魂胆である。

 田舎の家が農家で大きな家を爺と婆が百姓をしながら守っているところでは、都会で暮らす子や孫たちが田舎に帰るのを楽しみにし、じいとばあも皆が帰ってくれば疲れるけれど嬉しいというような家族は少なくはないが驚くほど多いというほどでもない、と男は思う。本当はそういう家族が多い社会ほど平和で心が豊かな社会だと思う。日本は決して豊かな国ではない。スーパーでその日の食料を買うにもあれこれ思案し、安い粗末なものを買っている人は少なくない。不況で失職し生活保護を受けるようになった働き盛りの年代の人たちも多い。男のように年末に子たちが帰ってくることと自分たちが田舎に帰ることが重なることで悩むというのは贅沢過ぎると男は思う。

2009年11月30日月曜日

ETV特集「日本と朝鮮半島2000年」(20091130)

  師走は当て字らしい。一説に僧侶の先生がお経をあげるためあちこち走りまわることを意味するらしいが、四季が果てる月を意味するという説もあるようである。男は先生(=師範)が走り回る意味だろうと思っていた。ともかく明後日から12月である。年賀状を書いたり、英語のクリスマスカードを書いたり、田舎に帰る準備をしたり、特に男は詩吟の会を主宰しているので来年のテキストを準備したり、昨日書いたように吟詠の実力を試す審査を行うのでその準備もしなければならない。このところ出かけてばかりいて折角撮ってきた写真もろくに整理していなかったの、その整理もしなければならない。

 今日は、女房はさいたま市に住む親友と原三渓が遺したものを観るため三渓園に出かけた。昨日男は女房のその親友に女房が見せるための写真を20枚余りプリントしてやっていた。その親友は六義園や小石川植物園の美しい写真を見て「来年は是非一緒に連れて行って」と頼まれたそうである。女房がそのように友だちと行動するときは男は家にいて集中して作業を行うことが出来る。昼食は昨日の夕食の残りのすきやき鍋に残りご飯をぶち込んで温めるだけで、簡単に済ませて時間を確保した。

 夜、男がどうしても観たいテレビ番組が二つあった。一つはNHKテレビドラマ『坂の上の雲』である。もう一つはETV特集『日本と朝鮮半島2000年』である。それを観終わって作業の後始末を終えてこの記事を書いているのでもう午前零時を回ってしまった。

 映像は人をして精神の高揚を導く作用がある。ヒットラーは国民の洗脳のため映画を積極的に利用したという。勿論戦前の日本でも戦意高揚のため同じようなことをしていたが・・。

 NHKドラマ『坂の上の雲」』は列強に追いつき追い越し日本の国体を守るため特にかつての中下級士族の子弟が頑張って国を導いて行った様子が描かれている。現在の日本にはその時代のような国家と国民が一体となって非常に激しいエネルギーを燃焼させているという状況にはない。平和ボケしたなよなよした男も多い。豊かな時代は世界のどの国でもそのような状況なるのかもしれない。しかし日本には憲法で規定された軍隊がないということがそういう状況を作り出していると男は思う。

 ETV特集『日本と朝鮮半島2000年』では、豊臣秀吉は悪者扱いである。男はかつて韓国に旅行したことがあったが、彼の国では豊臣秀吉と伊藤博文は嫌われ者である。しかし男はそういう観方は一方的ではないかと思う。当時の中国、明国の皇帝に当時の朝鮮の王は朝貢し、国としては冊封の国であったのだ。明と朝鮮の連合があってわが国に脅威を与えてなかっただろうか。時期的には中国の皇帝がモンゴル人であったとき1274年と1281年に当時の中国・元国が朝鮮と組んで日本に来襲している。それから約300年後の1592年から1598年にかけて日本は朝鮮に侵攻している。NHKでは豊臣秀吉の時代だけを切り取って番組を構成している。なにかインヴェイダーのような者の意図があって、日本と大陸との間の関係の長い歴史全体を観ることを敢えて省いているのではないかと勘繰りたくなる。

 日本は、男はこれは527年の岩井の乱以前までの数世紀の間は、日本というよりは九州であると考えるが、朝鮮半島の南部に権益を有していた。しかし663年、当時の中国・唐国と朝鮮・新羅の連合が百済を攻め、百済を守ろうとした日本は41千人の兵と1000隻に及ぶ戦船を送り込んだが白村江で陸と海から挟み撃ちされ大敗した。大陸と日本との緊張関係は今でも変わっていないのだ。(関連:「663年朝鮮半島白村江の戦い(20091003)
http://hibikorejitaku.blogspot.tw/2009/10/663-20091003-21-10-1-17-1335-663-669-33.html )

2009年11月29日日曜日

詩吟サークル(20091129)

 男は10年前東京都内のある区のセンターで「詩吟を楽しむ会」という詩吟サークルを立ち上げ、現在もそのサークル活動を続けている。立ち上げのとき参加してくれた方々は今も辞めずにそのサークルで活動を続けてくれている。活動は毎月2回、第2、第4土曜日の夜行っていて、その地域の活動団体として区に登録されている。公共の施設を利用するのでサークルのメンバーは5人以上であること、さらにその区の住民が半数以上その中にいなければならないという制約がある。地域活動といっても対外的な活動を行っているわけではない。区の住民の相互交流による地域のコミュニティの形成に寄与する活動が求められている。しかし過去に数回、区内のあるデイサービス施設を訪問したことはある。

 この詩吟サークルについて5年前、区の広報で案内したことがある。その時その広報を見て参加してくれた年配の男性が今も一緒に活動を続けている。その後広報はしていなかったが一月前たまたま区のセンターにきた婦人が掲示板に書かれているこの詩吟サークルの存在を知り、メンバーに加わってくれた。このことがあって男は今後一層力を入れようと思うようになった。

 区のセンターでは登録されている諸団体の活動の状況を広報するため毎年10月に発表会を行っているが、男はその発表会に「詩吟を楽しむ会」として来年から参加することにし、メンバーの皆に諮った。菊池寛の『恩讐の彼方に』を題材とした漢詩『青の洞門』をテーマにして朗読と吟詠と、できれば踊りも入れた構成で10名以上のメンバー全員が参加する発表会にしようと考えている。皆この提案に乗り気である。

 男が主宰するこの「詩吟を楽しむ会」では、吟詠の実力を評価して「認定証」を発行することにしている。この認定証は流統・会派として運営されている一般の組織で発行されている「許証」のようなものである。この認定のための審査のため一定の基準を定め、審査会には男の友人に来て頂いて第三者として吟詠力を評価してもらうようにしている。去年は10名ほどのメンバー全員それぞれのレベルに挑戦して認定証が付与された。

 認定証には男とその友人がそれぞれ押印する。「許す」という大仰なものではなくA4判のちょっと厚めの紙切れ一枚に男がパソコンで作った「○○を認定します」と印刷したものに男と第三者として評価してくれる友人が自分の印を押すだけのものである。一般に稽古事で何某かの伝位を貰うとき儀式を行い、伝位に応じて予め決められているお金を払い、立派な証状を貰って一層有難味が増すようになっている。しかし「詩吟を楽しむ会」では自分の実力に応じて認定されるだけである。費用は用紙代など実費程度しかかからない。

 一派に稽古事において流派ごと「許す」と言って与えられる「許証」に「皆伝師範」とか「準師範」とかいう伝位が記載されている立派な証状を貰うと、それ見る人をして「ほう!」と感心されるだろう。しかし柔道や剣道などの武術の証状と違って、詩吟において「師範」と書かれていても人に必ずしも教える実力があるわけではないのが実情である。その点男が主宰している会では実力がなければ「準師範」や「師範」の資格は与えられない。男が主宰している「詩吟を楽しむ会」では、デイサービスや老人会などで詩吟を披露するとき自ら楽器を奏でて詠うことが出来なければそれらの資格は与えられないのである。

 男は「詩吟を楽しむ会」として来年初めて参加する発表会に向けた練習、そしてその発表を行うことにより、メンバーの実力が一層向上することを期待している。

2009年11月28日土曜日

六義園と小石川植物園の散策(20091128)

 今朝女房は「今日は天気が良いので六義円と小石川植物園に行ってみたい」と言う。男は片付けておきたい仕事があったが別に急ぐこともないことなので急きょ外出の準備をし、女房と一緒にそこに行くことにした。そういうことが出来るのは有り難いことである。駅を10時過ぎに出発するその列車には仕事に出かけるらしい人たちもまだ多く乗っていた。

 六義園は第五代将軍徳川綱吉の信任厚かった川越藩主柳沢吉保が作ったもので明治維新後岩崎弥太郎が買い取り後に公園として整備されたものである。JR駒込駅を降りてすぐ近くのところにその公園はある。男と女房は、今年はいろいろな事情で京都の紅葉を観に行くことができなかったが六義園に来てみて京都に行かずともこの六義園で十二分紅葉と風景を堪能することができた。横浜の三渓園を遺した原三渓といい、六義園や清澄公園を遺した岩崎弥太郎といい、明治の大富豪たちは後世に本当に良いものを遺して下さったと思う。

 六義園は夜ライトアップするので小石川植物園を初めに観て、その後六義園に来た方が良かったかもしれないが、そうするとこの間清澄公園に行った時のように家に帰り着くのが遅くなってしまう。女房は男が深夜までパソコンに向かっていなければならなくなることを心配して順序を逆にし、六義園を先に観ることにしてくれたのである。

 男と女房は56年前だったと思うが休みの日に急に思い立って京都の紅葉を観るため新幹線で京都の日帰り旅行をしたことがあった。その時は大原まで足を伸ばした。京都の紅葉は主に寺院の庭の紅葉である。しかしこの六義園の紅葉は大きな庭園の中の紅葉である。池、岩、流れ、小みち、橋、東屋、灯篭、樹木、緑、紅葉などがある趣をもって配置されている風景はとても優雅で美しかった。その庭園を一歩外に出れば超近代の街であるが、庭園の中には美しい日本の姿があった。

 この庭園は徳川幕府の大老の庭園として造られているものなので、庭園の中は非常に心が癒される雰囲気がある。男と女房はこの庭園の中をゆっくり楽しみながら全て隈なく回った。平日のためその公園を訪れた人の数も多くなかった。しかし紅葉としては今日・明日がベストであると思う。紅葉にせよ桜にせよ最も良い時期は限られている。天気が良く、穏やかな日和で、庭園の中を歩く人の数も多くなく、風景が大変素晴らしいという時期に巡り合えるということは余りない幸運なことである。

 男と女房は六義園を堪能したあと小石川植物園まで歩いて行った。この植物園は東京大学の研究施設である。入場料は高齢者でも割引は無い。園内には芝生はない。地面は自然の状態で落ち葉が積もっている。その中への立ち入り制限などはない。全く自然の森の風景がそこにある。一角に日本庭園もある。時間帯のせいもあってか入園者の数も少なく男と女房はその自然の雰囲気を心行くまで堪能した。男は女房に冗談で「あの世に逝ったら二人で東大に入ろう」と言ったら女房は「お父さんももし母親が生きていたら別の道を歩んでいたと思う」とぽつりと言った。男の母親は男が10歳のとき世を去っている。

 この植物園を出て地下鉄茗荷谷駅までまた歩いた。ちょっと道に迷い中学3年生か高校1年生ぐらいの女子生徒が3人立ち話をしているところに寄って駅までの道を聞いた。その中の一人が「気が付かずすみませんでした」と言って丁寧に道を教えてくれて、「お気をつけて」と付け加えた。女房はその気働きと心遣いに大変感心していた。男は「あの子たちはきっと良い家庭の子だよ」と女房に言いながら何だか嬉しい気持ちになった。