2009年12月3日木曜日

時に‘元’気を失う(20091203)

 「身体屈強・精神堅固なる者も時に気力衰弱せる時無き者はなし。かかる時古の賢者の書きたる物に親しみ、瞑想し、ひと時の間諸々の事をば煩悩の彼方に置き遣ればやがて気力回復し、身体に精気漲るようになるなり。」

 これは今男が思いつくままに書いたものである。男は10年前ぐらいまで時々合気道の道場に通っていた。その頃稽古が終わった後は気力が充実し、自分よりは若い仲間と居酒屋で談笑し、帰宅して意気軒昂であった。

 男は以前故植芝吉祥丸先生が書かれた『合気道開祖 植芝盛平伝』などの書物を購入し、精読はせずのまま書棚の奥に眠らせていた。これを今朝取り出し開いてみた。それには「純化された生命力の象徴としての‘気’と宇宙の‘気’とが混然一体となって無心無我なるがゆえに自在に立ち居ふるまう」というようなことが書かれている。

 男は「元気」とはそのような自分の「気」と宇宙の「気」とが一体となったような「気」だと思う。「元気がなくなる」というのは、自分がこの世に「生かされていること」を忘れ、「この世で果たすべき役割」見失うことだと思う。しかし、「生かされていること」や「この世で果たすべき役割」を自覚できている人でも時にそのことを忘れ、‘元’気を失うことがあると男は思う。

 男はそのことを今朝感じ、女房に一言、二言ぶつぶつ言った後、書棚から上記の本や、夢窓国師の『夢中問答集』や新渡戸稲造の『武士道』などを取り出しページをめくり、過去に読んでページを折り曲げ目印を付けておいたところを読みなおし赤線を引いて付箋やマークを付けたりした。そして高さ20cmの踏み台と足の裏のつぼを刺激する器具を使って足の裏のつぼを刺激する運動(関連記事:「居間で行う非常に楽な運動(20090901)」)をしたり、13kgの鉄アレイを両手に持って筋肉トレーニングをしたりしたら元気が出た。

 男に「座右の書」があるとすれば、今、それは夢窓国師の『夢中問答集』である。男の家の書棚にはまだ殆ど読まずに置いてある道元の『正法眼蔵』などもある。何かの折に買って殆ど読まずに書棚に長年月放置したままになっている書物でも、何かの折に読むことがあるので、本と言うものは欲しい時に買っておくべきであるとつくづく思う。

 その『夢中問答集』の中に度々出て来る言葉に「霊光(くしきひかり)という言葉がある。「古人云はく、人各々霊光を具す。円覚経に大光明蔵三昧と説けるも一切衆生本具の霊光なり。」と夢窓国師は説いている。男にも霊光は出ているのだ。男は自分の女房の霊光は自分の霊光に勝るものであると感じている。

 ところで左翼思想の毒された学者の中には「聖徳太子は実在していなかった」と本に書き、その本を読んだ者がその説を信じている者もいる。政治家の中にもそのような者がいないとは限らない。夢窓国師は「我が国の聖徳太子はすべての政(まつりごと)を行いながら・・(途中略)・・十七箇条の憲法の始めに上下の和睦を説き、厚く三宝を敬えをお載せになったのも政治を行うのは仏法のためだということである。・・(途中略)・・七百年後の現在に至るまで、誰でも太子の遺業を仰がぬ者はいない」と言っている。仏法は当時の国家の精神とするものであった。1400年後の今の政治家たちは今の日本国家の精神のことを考えてくれているだろうか?「国民の目線」と言うが「国家の目線」を考えているだろうか?(関連記事:「小説・騎馬民族征服説『倭王の末裔』(20091202)」)