2009年12月7日月曜日

坂の上の雲(20091207)

 インターネットで路線検索する場合、googoleで検索する場合と gooで検索する場合について比べてみた。男はgoogleを使い慣れているせいか、googleの方が良いと思う。これは好きか嫌いのかの問題かもしれないが・・・。

 女房は長年肩が凝っていて自分では気がつかなかったが、美容院に行った時美容師が肩を揉んでくれて、「凝っていますね」と良く言われていたらしい。先日長男の嫁の勧めで川口の針灸院に行って治療しても貰ったら一発で治ってしまった。女房は友だちにそのことを話したら、今度はその友だちを連れて明日その鍼灸院に行くことになった。長男の嫁がまた一緒に行ってくれるという。

 男は女房に川口まで一番短い時間で行く方法をインターネットで調べて欲しいと頼まれたので、いろいろ調べてみた。女房は湘南新宿ラインとか埼京線が一番早いのではないかと考えている。しかし男が調べてみると東海道線を使って新橋で京浜東北線に乗り換えるのが一番早いことが判った。そのことを女房に伝えたが女房は「そうかなあ」と疑っている。Googleが良いのは、検索すると一緒に地図が出ることである。男は女房にその画面上の地図を見せながら説明したら女房はようやく納得した。明日はお天気が良さそうなので、女三人、初顔合わせもあるが結構楽しくやることであろう。

 これを書いていると女房が、「お父さん、『坂の上の雲』が始まるよ」と知らせて来た。男はパソコンを休止モードにして居間に行きソッファに二人並んでそのテレビドラマを観た。場面の一つに予備門で勉強している秋山真之と正岡子規が下宿で勉強に励んでいる場面があった。男は高校の頃寮生活をしていたが、その頃英語の試験勉強をした時のことを思い出し女房に話した。「夏の蒸し暑い夜、ブリキのバケツに水を入れてその中に足を突っ込んでね、上半身裸で背中に水で冷やしたタオルをかけて裸電球の下で英語の勉強をしたよ。」女房は「そお?エアコンなんか無かった時代だものね。」と言った。

 あの頃寮では一部屋2名だったが毎晩点呼があって、最上級生が寮長で点呼に回ってきていた。点呼の時は皆部屋の前の廊下に並んで点呼を受けた。寮は木造二階建てで多分旧軍の兵舎だったのだろうと思う。食事は粗末なものでおかずは昆布の佃煮とか沢庵だった。汁は寮生が「レントゲン」と言っていた中にわかめが一切れ入っている程度の透き通った醤油汁だった。夜食堂でコッペパンを売っていた。一個10円だった。仕送りも十分でないので時々同級生から借金をしてそのコッペパンを買ったものである。食事の内容が悪いと言って、上級生が皆を集めて指揮して学校の事務室に談判に行ったことがあった。

 学校では体育の時間に剣道や柔道があった。剣道着や防具や柔道着は体育館の脇部屋に吊るしてあるものを使っていた。従って非常に汗臭いものであったが若い盛りであまり苦にはならなかった。帽子の頭はわざと汚して油を塗っててかてか光らせ、いつも高下駄を履いていた。夏休みに帰郷する時でも高下駄を履いていた。

 明治の初めの頃はもっと貧しく、『坂の上の雲』では、その様子を表現しているが、貧しさは戦後の頃以上であっただろうと思う。明治の初期も戦後も貧しさゆえに未来への希望があった。皆貧しくても暗い顔はしていなかった。今の人たちはぬるま湯の中で育っていて逞しさが足りないように思う。政治家たちも同じだと思う。普天間基地の問題を大きくしてしまったのもその延長線上にあるように思う。