2012年6月24日日曜日


万葉集に学ぶ「君待つと 我が恋ひ居れば 我が屋戸の 簾動かし・・」(20120624)

 額田王は大海人皇子(後の天武天皇)の最初の妻となり、十市皇女を生んだ。その皇女は壬申の乱の当事者・大友皇子(第三九代弘文天皇)の妃となった。壬申の乱では額田王や十市皇女はつらい立場に立たされた。その額田王が天智天皇を偲んで詠った歌が萬葉集巻第四の四八八番に「額田王、近江天皇を偲びて作れる歌一首」と題する次の歌である。これは後世の仮託であるという説がある。
  
  君待つと 我が恋ひ居(を)れば 我が屋戸(やど)の 簾(すだれ)動かし 秋の風吹く

 額田王の子・十市皇女は夫・大友皇子(弘文天皇)が壬申の乱で自殺後父である壬申の乱の一方の当事者・天武天皇のもとに身を寄せ、天武天皇から草壁皇子を皇太子としたことを報告するため伊勢神宮に派遣されている。後に天武天皇皇女・大伯皇女(おほくのひめみこ)が伊勢斎宮となって伊勢に群行したとき同行したという説もある。

大伯皇女の弟・大津皇子は謀反の罪で第四一代持統天皇から死を賜っている。持統天皇は天武天皇の皇后であった。持統天皇は第三八代天智天皇の女(むすめ)・菟野皇女(うののひめみこ)である。生母は大化の改新のときの右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の娘である。

第四〇代天武天皇が崩(かむあが)りされた後、大津皇子が皇太子・草壁皇子(後の第四二代文武天皇)を「謀反(かたぶけ)む」とした国家反逆という最も重い罪を犯したのである。大津皇子は朝廷に内緒で伊勢に赴き姉の斎宮・大伯皇女に会っている。そのことが謀反に問われた原因の一つであったのかもしれない。

 壬申の乱が起きる前、次のようなことがあった。『日本書紀』(岩波文庫)によれば、天智八年(678年)「夏五月(なつさつき)の戊寅(つちのえとら)の朔(ついたち)壬午(みずのえうまのひ)に天皇(すめらみこと)、山科野(やましなの)に縦猟(かり)したまふ。大皇弟(ひつぎのみこ)・藤原内大臣(ふじわらのうちのまえつきみ)及(およ)び群臣(まへつきみたち)、皆(みな)悉(ことごとく)に従(みとも)につかへまつる」とある。

この時のことを書いているのであろうか、談山神社編・梅田出版『大和多武峯紀行』によれば、“『藤氏家伝』によれば、近江大津の湖畔に立てられた浜楼で、天智天皇は群臣を集めて酒宴を開いた。宴の盛りに突如、皇大弟の大海人皇子(のちの天武天皇)が槍をとって板敷をつらぬいた。天皇は激怒して、ただちに殺そうとした。その中に立ち入り、ことを収めたのが鎌足公だった。その事件から大海人皇子の公に対する見方が変わった。それまでは兄天皇に最も密着した老獪(ろうかい)な人物と思っていたからだ。やがて壬申の乱が勃発(ぼっぱつ)した。皇子は吉野から東国に向かった。その時、鎌足公さえ存命なら、このような内乱はなかったろうし、じしんもこんな不幸はなかったはずだ、と思った”とある。

大海人皇子は兄・天智天皇が崩御される前、天智天皇の皇后・倭姫王(やまとのひめおおきみ)を次の天皇にし、大友皇子を太政大臣として「諸政(もろもろのまつりごと)を奉宣(のたま)はしむ。臣(やつかれ)は請願(こ)ふ、天皇の奉為(おほみため)に、出家(いへで)して脩道(おこなひ)せむ」と申し出、許されて天皇から袈裟など賜い吉野に下っている。壬申の乱はその後起きている。

 なお、同書には額田王について”鏡女王は、近江国野洲群郡鏡里の鏡王の女(むすめ)といい、その妹が額田王と考えられている”とその本には書かれている。

2012年6月23日土曜日


万葉集に学ぶ「あかねさす 紫野逝き 標野行き 野守は見ずや・・」(20120623)

 天智七年(667年)五月五日(さつきのいつかのひ)に、天皇(すめらみこと)、蒲生野(かまふの)に従猟(かり)したまふ。時(とき)に、大皇弟(ひつぎのみこ)・諸王(おほきみたち)・内臣(うちつまへつきみ)及(およ)び群臣(まへつきみたち)、皆(みな)悉(ことごと)くに従(おほみとも)なり。

 以上のことは、『日本書紀』(岩波文庫、初版1995年3月16日発行)に出ている。同様の行事は推古天皇十九年(611年)五月五日に初めて催されたようである。その時の場所は、菟田野(現在の奈良県宇陀郡榛原町足立付近)であったが、今回は滋賀県蒲生郡安土町南端付近の野である。

この行事はシナ(漢土)における端午の節句の風習にならった「薬猟(くすりがり)であり、鹿茸(ろくじょう)(鹿の袋角)をとったり薬草を摘んだりする猟であり、古代我が国における野遊びや草摘みなどの習俗を持ち合わせた性格のものであろうと想像されている。

この行事には、天智天皇、天智天皇同母弟の大海人皇子、律令制の諸王、中臣鎌足ほか諸大臣等が同行している。当然大海人皇子の最初の妻(宮人(めしをみな))である額田王ほか後宮の女官たちや大勢の下級官人たちも一緒であったであろう。その華やかさが想像される。なお、天智天皇はこの年の春正月(はるむつき)の丙戌(ひのえいぬ)の朔(ついたち)戊子(つちのえねのひ)に即位された。それまでは皇太子のまま非常に多難な時期の政治を担ってこられた。内大臣鎌足は天皇の信任非常に厚く、よく天皇を輔弼された。

万葉集巻第一に「天皇、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)する時に、額田王の作れる歌」と題する二〇番に

あかねさす 紫野逝(ゆ)き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る

と、「天皇が私に向かって袖を振っているわよ」という歌を、自分を最初に愛してくれた男性である大海人皇子に贈った。大海人皇子は「皇太子の和ふる御歌 明日香の宮に天の知らしめしし天皇、諡を天武天皇といふ」と題する二一番に

    むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人嬬(づま)ゆえに 我がひめやも

 と答えている。大海人皇子も額田王もなんとも頬笑ましい大人の恋の情景を演じている。

2012年6月22日金曜日


万葉集に学ぶ「熟田津に 舟乗りせむと 月まてば 潮もかなひぬ・・」(20120622)

 第三五代皇極天皇、再即位されて第三七代斉明天皇は、第三十代敏達天皇の曾孫(ひひこ)であり、第三四代舒明天皇の異母弟の・茅淳王の女(むすめ)であった。その母(いろは)は第二九代欽明天皇の孫・吉備姫王(きびつひめのおおきみ)であった。舒明天皇の母は第三〇代敏達天皇の皇女である。また舒明天皇の異母弟・茅淳王の母の名は大俣王という。第三四代舒明天皇の皇后は舒明天皇が崩(かむあが)られた後、第三五代皇極天皇となられた。その同母弟(いろど)が第三六代孝徳天皇である。

その孝徳天皇が崩(かむあが)られた後、第三五代皇極天皇退位後上皇となっておられた皇極上皇が今度は第三七第斉明天皇として再即位された。そこには上皇の御子である葛城皇子(かずらきのみこ)(通称、中大兄皇子)を皇太子とし、ゆくゆくは中大兄皇子に皇位を譲るお気持ちがあった。

古代、皇統維持のために女性の天皇は存在したが女系の天皇は皆無である。このことが大変重要である。女系になれば神武天皇の血統は完全に途絶える。日本国家としての損失は計り知れないものがある。もしそのようなことになれば、日本の国は亡びてしまうことだろう。

その斉明天皇になられた方・天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしのひめ)と尊称される宝皇女は、初め第三二代用明天皇の適(みあひ)して一子・漢皇子を生(あ)しましたがその漢皇子は夭折され、その用明天皇が崩(かむあが)られた後、舒明天皇に適(みあひ)して二(ふたはしら)の男(ひこみこ)・一(ひとはしら)の女(ひめみこ)を生(あ)しましている。

その舒明天皇も崩(かむあが)られてしまった。その二の男は後に天智天皇となられる中大兄皇子と、天武天皇となられる大海人皇子である。天智天皇と天武天皇は同母の兄弟である。天智天皇については万葉集でその名が出ている皇太子・大海人皇子の妻である額田王と間で三角関係とも思わせるような有名な歌の贈答「あかねさす 紫野逝(ゆ)き標野(しめ)行き 野守は見ずや・・」がある。

この中大兄皇子が斉明天皇の皇太子時代、隣国の新羅は我が国に離反し、シナ(唐)と組んで友邦百済を滅亡させようとした。このとき百済は新羅からの侵略を防ぎ、シナは一旦手を引いている。そのとき百済は唐人捕虜100人余りを我が国に献(たてまつ)っている。彼らは今の岐阜県に居住していた。尖閣・沖縄などもそうであるが、シナは相手が強ければ手を引くのである。弱いとみれば「第一列島線・核心的利益確保」として他国の領土を奪い取ろうとする。シナのやり方は昔も今も変わりはないのである。

斉明七年(661年)春正月(はるむつき)、斉明天皇は百済救援のため朝廷をあげて九州に出向した。船団は出港し、瀬戸内海の小豆島北方の海域に至り、愛媛県松山市沖辺りに至り、道後温泉で泊まった。其処から出て博多に向かった。

道後温泉のある港から出発するとき額田王が作ったとされる歌が次に示す萬葉集巻第一、八番の歌である。しかし山上憶良の注書きにあるようにこの歌は斉明天皇御製である。船団は月明とともに潮位など出港に好都合となるそのような時刻を待っていたのである。

熟田津に 舟乗りせむと 月まてば 潮もかなひぬ 今は漕(こ)ぎいでな

斉明天皇はこの年の五月、福岡県朝倉郡朝倉町山田辺りにあった宮・朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにはのみや)に遷り居、秋七月に崩(かむあが)られた。皇太子・中大兄皇子は直ぐには即位せず(即位は七年後)、百済を救おうとして朝鮮半島に大軍を派遣したがシナ(唐)と新羅の連合軍に大敗してしまった。その結果400年ほど前の神功皇后による三韓征伐以来確保されていた朝鮮半島南部における日本の権益を一切失ってしまった。敗戦により百済から引き揚げて来た王族・貴族ほか一般庶民等大量の避難民の受け入れや、国家体制の強化、築城や通信連絡手段の整備(狼煙)など国境警備の強化など奮闘され、未曾有の国難を乗り切るため大変なご苦労をされた。

その陰には命をかけて皇統を守り、国造りのため真心と熱情を傾けた中臣鎌子連(後の鎌足)や佐伯連などがいた。なお佐伯氏とともに古代から天皇の親衛隊であった大伴氏は藤原氏と親族である。鎌足のご生母が大伴氏の出である。

政治がマスコミに扇動され、洗脳された一般大衆の愚かな判断により動かされるようであれば国は亡びる。蘇我宗家であった入鹿一族のように私利私欲のため国家権力を握ろうとする者が政治を牛耳るようになれば国は亡びる。深慮遠謀・陰謀によりそのような状況を作り出して日本を弱体させようとしている国々は現に存在している。

2012年6月21日木曜日


万葉集に学ぶ「石見の海 角の浦回を 浦なしと 人こそ見らめ・・」(20120621)

 万葉集(正しくは「萬葉集」)をただ単に抒情的に読み味わうだけならば、緊張感はなく心は休まる。しかし、万葉集には大津皇子の謀反事件の関係者の歌も収められている。皇位継承に絡む事件の当事者の歌を読むと、当事者の心が想像されて何か悲しい気持ちになる。特に伊勢神宮の斎宮であった姉・大伯皇女とその弟である皇太子・大津皇子、また大津皇子の妃であった山辺皇女の心中を想像するといたたまれなくなる。

 その点、柿本朝臣人麻呂が石見で妻にしていた女性と別れるときの歌などは、「その女性はこれが今生の別れだと思い、涙にくれながら人麻呂が遠くに去って行く姿を見送ったのであろう」と想像する程度で、悲しい気持ちにはならない。また、文武両道に秀でていた大津皇子と石川郎女(いしかわのいらつめ)との間の歌の贈答などは大津事件前のことであり、読んでいて肩が凝るようなことはない。また天智天皇とその同母弟(いろど)(同じ母の弟君のこと)で後に天武天皇となられる皇太子・大海人皇子が同じ女性・額田王を巡る歌などは三角関係を想像させるが、当時の情景が想像されて頬笑ましくもある。

 人麻呂には4人の妻がいたようである。当時妻たちはお互い離れた場所に住んでいたから、誰が正妻で誰が側室或いは妾か判然としない。当時の律令の規定によると男子は15歳、女子は13歳で結婚を許されたという。それも数えの年齢であるから、女子は小学校6年生、男子は中学校2年生になれば結婚することができたのである。それも今で言う「出来ちゃった婚」に近いものであったらしい。情交が先行していたようである。当時はそのように男女関係が自由であったらしい。

 その人麻呂が国司として赴任した石見の国で娶った女性が「石見の妻」である。巻第二、一三一番の歌に「柿本朝臣人麻呂、石見国より妻を別れて上り来る時の歌二首」と題する歌がある。「或本の歌」という言葉でちょっと内容が異なる複数の歌が萬葉集には出ている。人麻呂がその妻と別れて都に帰るとき石見の妻は人麻呂の姿が見えなくなるまで見送っていた。その女性はどんな気持ちであっただろうか?

 石見(いはみ)の海 角(つの)の浦回(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも いさなとり 海辺をさして 和多豆(にきたつ)の 荒磯(あらそ)の上に か青なる 玉藻沖つ藻 朝はふる 風こそ寄(よ)せめ 夕はふる 浪こそ来寄れ 浪のむた か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を つゆしもの 置きてし来れば この道の 八十隅(やそくま)ごとに 万(よろず)たび かへり見すれど いや遠に 里は放(さか)りぬ いや高に 山も越え来ぬ なつくさの 思ひしなえて 偲ふらむ 妹が門見む なびけこの山

   反歌二首
一三二 石見のや 高角山の 木の際(ま)より 我が振る袖を 妹みつらむか
一三三 ささの葉は み山も清(さや)に 乱(さや)けども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば

2012年6月20日水曜日


万葉集に学ぶ「うつせみと 思ひし時に 取り持ちて 我が二人見し・・」(20120620)

 過日男は5歳も年長の友人と10数年ぶりに再会した。その友人は奥様を昨年がんで亡くされた方である。また昨日男は昨年奥様を亡くした竹馬の友に青森旅行の土産などを手紙を添えて宅急便で送った。この年になると友人が死んだとか奥様を亡くしたとか、動脈瘤の手術を受けたとかいう話を聞くことが多い。男の竹馬の友への贈り物の堤の中には、男の女房がその友のためわざわざ買い求めてきた今時流行のしゃれたステテコが一枚入っている。それはしゃれた袋の中に入っている。それは、妻を亡くし、知的障害の息子と二人で暮らしている男の竹馬の友の日々暮らしを思いやってのことである。

 萬葉集巻第二に「柿本朝臣人麻呂、妻の死にし後に、泣血哀慟(きふけつあいどう)して作れる歌二首幷に短歌」というのがある。その二首目の歌を以下に転写する。

二一〇 
うつせみと 思ひし時に 一に云う「うつそみと 思ひし」 取り持ちて 我が二人見し 走り出の 堤に立てる つきの木の こちごちの枝の 春の葉の しげきがごとく 思へりし 妹にはあれど 頼めりし 児らにはあれど 世間(よのなか)を 背(そむ)きしえねば かぎろひの もゆる荒野に しろたへの 天領巾(あまひれ)隠り とりじもの 朝立ちいまして いりひなす 隠りにしかば 我妹子が 形見に置ける みどり子の 乞ひ泣くごとに 取り与ふる ものしなければ をとこじもの わきばさみ持ち 我妹子と 二人我が寝し まくらづく つま屋のうちに 昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ おほとりの 羽易(はがひ)の山に 我が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根さくみて なづみ来し 良けくもぞなき うつせみと 思ひし妹が たまかぎる ほのかにだにも 見えなく思へば

    短歌二首
二一一 去年(こぞ)見てし 秋の月夜は 照らせども 相見し妹は いや年離(ざか)る
二一二 ふすまぢを 引手の山に 妹を置きて 山路を行けば 生けりともなし

2012年6月19日火曜日


万葉集に学ぶ「恋ふること 慰めかねて 出でて行けば・・」(20120619)

 柿本朝臣人麻呂の時代である天智・天武朝に、やまと言葉という表現方法が確立されたという。それまでは言葉の表現の方法が統一されていず、地方では方言が使われていたため行政上不便な面が多かったのかもしれない。そのやまと言葉で表現した歌を漢字で表現するとき「略体歌」という助詞や助動詞を文字化しない特殊な表現の歌が万葉集に収められている。やまと言葉が通用すれば助詞や助動詞を文字化しなくても、それを読む相手には理解できたのであろう。未だ「神競者 麿待無」について定訓を得ていない人麻呂の「「天漢 安川原 定而 神競者 麿待無」という日本最古の七夕の歌もそうなのであろう。

 大伴宿禰家持が万葉集に収録した柿本朝臣人麻呂の集は非常に多い。「萬葉集巻第十一」などは、これを何度も朗読すればいつしか自分も短歌を作ることが上手になりそうである。ただしこれは恋の歌ばかりなので年寄りとしてはちょっと気が引ける。詩吟でも謡曲でも声を出すということは健康維持上よいことである。いくら若くても気持ちが年寄りのようであれば、その若者はすでに年寄りと同じことである。その巻十一の二四一四番に次の歌がある。

 恋ふること 慰めかねて 出でて行けば 山を川をも 知らずに来にけり

 この原文は略体で「恋事 意追不得 出行者 山川 不知来」である。

 古い時代では、日本語の発音に合わせて漢字があてはめられていた。仁徳天皇の皇后が天皇を思って作らせたという歌が山上憶良臣の類聚歌集に載せてあると注書きのある巻二、八五番の歌の訓読は「君が行き 日(け)長くなりぬ 山尋ね 迎えか行かむ 待ちにか待たむ」である。この原文は「君之行 氣長成奴 山多都祢 迎加将行 待尒可将待」である。天智・天武朝にこのようなやまと言葉の表現方法が確立されたのである。そして時代が下がって「ひらがな」「カタカナ」が発明され、さらに「高野切」という流麗な筆記体が生まれ、今日の日本語の表現を非常に豊かにしている。これは世界に類例のないことである。日本に天皇がいたからこそ今日の日本があるのである。

 

2012年6月18日月曜日


万葉集に学ぶ「天の川 安の川原に 定まりて・・」(20120618)

 天の川 安の川原に 定まりて(しずまりて) 神競者 麿待無 (二〇三三)
 あまのかは やすのかはらに さだまりて(しずまりて) 神競者 麿待無

   この歌一首、庚辰(かうしん)の年に作る
   右、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。

 これは日本最古の七夕の歌でると言われる。「定まりて(又は、しずまりて)」は「定而」をそのように読み下したものである。これを含めて「定而 神競者 麿待無」については、定訓が得られていないということである。この歌の原文は「天漢 安川原 定而 神競者 麿待無  此歌一首庚辰年作之」である。

「庚辰」の年は、天武九(六八〇)年説と60年後の天平十二(七四〇)年説の二説があると言われるが、どうも天武九(六八〇)年説の方が正しいようである。

 この年に人麻呂が出仕していて少なくとも21歳であるとすると、人麻呂の出生は斉明六年(六六〇年)となる。それは山上憶良と同じ年ということになる。人麻呂の生年は明確にはならないが、山上憶良と同世代か10歳ぐらい年長であったようである。

 人麻呂の生年は大体660年から650年ぐらいの間であろうと推定されるが、では没年は何年だろうか? 巻二の二二三番の歌以降にその手がかりがあるという。

  柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて死に臨む時に、自ら傷みて作れる歌一首
二二三 鴨山の 盤根(いはね)しまける 我をかも 知らにと妹が 待ちつあるらむ

      柿本朝臣人麻呂の死ぬる時に、妻依羅娘子(よさのをとめ)の作れる歌二首
二二四 今日今日と 我が待つ君は 石川の 貝に 一に云ふ「谷に」 ありと いはずやも
二二五 直(ただ)は逢はば 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲(しの)はむ

 人麻呂は「鴨山」の大岩を枕として横たわって死んでいる。その人麻呂の死を知らずに妻は自分の帰りを待ち続けているのだろうか、と詠っている。これは、実は人麻呂自身が作ったのではなく、国司として赴任したことがあった石見国(現在の島根県西部(石見地方))に再下向したときに客死した後、人麻呂伝説として作られた歌らしいが、人麻呂自身が自分の死を脚本のように演じて作ったという説もある。

 人麻呂は、二二三番の歌を作る前に天智天皇の皇女・明日香皇女(あすかひめみこ)が文武四年(七〇四)に没したとき歌を作っている。一九六番の歌である。これから類推して、人麻呂が没したのはこの年の後であろうと推察されている。

2012年6月17日日曜日


毎日が日曜日の一コマ(20120617)

 小旅行でも、その後一日、二日は土産物の処理などあれこれ雑仕事がある。それだけなら大した時間は取られないが今回わが家のインターネット環境の問題を解決し、改良する作業を途中で止めて旅行に行ったので、帰って来てからその作業に時間を費やさなければならなかった。

 実は女房のiPadがトラブっていた。そのiPadの中にいつの間にか大量の写真が保存されている状態なっていたためiPadの動作がおかしくなっていた。デジカメで撮った写真で同じものが何枚も保存された状態になっていた。これは、写真を取りこむ際の手順が良くなかったから起きたものである。

iPadは初期設定がややこしい。予め別のパソコンでiTunesというソフトウエアをダウンロードし、そのパソコンとiPadをつないでiPadの初期設定を行う仕組みである。iPadは無線LANに接続して使うようになっている。女房のiPadを購入後に初期設定を行ったときは何も問題なかったが、トラブってからリセットし、再設定を行おうとしたら無線LAN親機のパスワードを要求してきた。そのパスワードはそもそも何なのか、どのように入手すればよいのか初め判らなかった。無線LAN親機のメーカーのホームページになにか情報がないか調べてみた。結局分かったことは、その親機に表示されているKeyがそのパスワードであることがわかった。それを入力してみたら元どおりインターネットにアクセスできるようなった。しかしメールができない。この問題も結局メールアドレスを変えて新しいメールアドレスで設定を試みたらようやくiPadメールも再開できるようになった。

iPadメールでも複数の写真を送ることができるが、写真などを貼付ファイルを送る場合、通常のパソコンのメールに添付するやり方の方が簡単である。そこで女房用のメールアドレスを取得して女房のパソコンでそのメールができるように設定した。このような作業には結構時間が取られる。女房は「iPadを電気店に持って行ってメールができるようにしてもらったら?」と言うが、「何事も苦労しながら自分でやってみなければ進歩はないよ」と言って根を詰めてトラブルの解決に取り組んだ。そのおかげで75歳を過ぎた男もiPadの初期設定など技術的なことに詳しくなった。

 よく頂くのであるが、昨日も近所の方から釣ったばかりのイサキという魚を6匹も頂いた。台所の流しで先ほど研いだばかりの包丁を使ってそのイサキを裁いた。うろこを落とし、腹を割いてはらわたを出し、表面に包丁の刻み傷をつけ、水分を拭き取りごく少量の食塩をその表面にこすり付けてラップに包んで保存する。卵は女房がしょうゆ味で煮た。今日の昼食のおかずは頂いた魚の塩焼きである。塩焼きといっても塩分摂取量を少なくしているので塩は昨夜裁いた後まぶした少量の塩だけである。それだけでは味が薄いので塩分の少ない醤油をかけて食べる。頂いたイサキは卵もちで大きかったので、一匹食べれば十分である。

 午後は久しぶりスポーツセンターに行き汗を流した。昨日・今日と平凡なしかし結構忙しい週末を過ごした。明日からは再び万葉集に取り組もうと思う。奥入瀬で撮って来た渓流の写真を元に、水彩画も描いてみようと思う。後期高齢者の医療費負担が3割という通知が来た。今まで1割だったが急に3割になった。それでも申請すれば1割になる可能性がある。この申請作業も期限内にしなければならない。

息子たちは明日から又仕事で忙しいが、彼ら現役世代に支えられて、こうして「毎日が日曜日」のような暮らしができている。このことを感謝しながら、「あの世」に向かってひたすら歩いている。あるきっかけでフェイスブクもツイッターも、ある匿名ブログで盛んに行っていた政治的意見の投稿も止めてしまったらパソコンに向かう時間も大幅に減った。世の中の動きも男がここ数年間憂え続けてきた状況から脱しつつある。この部分での男の役割はもう終わった。フェイスブックの友達に挨拶の言葉も残さず、黙ってフェイスブックから退いてしまったが・・。

2012年6月16日土曜日


金婚式の青森旅行(20120616)

 男は30数年ほど前、一家4人で2年半あまり青森に住んでいたことがあった。その後何度か青森に観光で訪れたことがあった。奥入瀬にも何度か訪れたことがあったが車で移動するとか、観光スポットの石ヶ堂という場所周辺を散策する程度であった。

 この4月に結婚50周年ということもあってまた青森に旅行しようと考えていたが、いろいろ雑事があって時期を失していた。たまたま女房がテレビか何かで奥入瀬渓流ホテルのことを知り、観光雑誌を買ってきてそのホテルの案内を知り、是非其処に泊まりたいと思っていた。そういう矢先幸運なことに、阪急交通社がそのホテルと往復新幹線をパックにしたメニューを新聞に広告していた。「それに申し込もう!」と意見が一致、直ちにインターネットで申し込んだ。2泊3日で中一日は自由行動である。勿論その他の日も新幹線の座席とホテルの部屋が予め指定されているというだけで、その他は全く自由である。「団体」というスケールメリットで旅行費用が安く提供されているだけで、中身は個人で旅行する場合と変わらない。せいぜい割り当てられる部屋が渓流側でないという程度である。男と女房の部屋は新館の最上階(4階)の端の方で山と木立に面した静かな部屋であった。勿論団体客以外の泊り客もあり、提供される食事は同じバイキング方式で、その内容も十分満足できるものである。

初日午後遅く、そのホテルが運行するシャトルバスで観光スポット石ヶ堂に行き、次に迎えに来る時間まで渓流を遡る散策を楽しんだ。歩いている人は殆ど居ず、二人は十分静かで平和な散策を楽しむことができた。
 
次の日、また同じシャトルバスで石ヶ堂まで行く途中、運転手さんのアドバイスで途中下車し、石ヶ堂まで渓流伝いに歩いた。これはまた素晴らしかった。原生林と現生のシダ類の森の中を歩く人はまばらで殆ど男と女房だけしかいないような状態であった。「恐竜がウォーっと出てきそうだね」と口にしたほど現実離れし、太古の昔の世界に飛び込んだような感覚になる。

石ヶ堂の観光施設の前にJRバスの停留所がある。そこからバスに乗って十和田湖畔の子の口まで行った。其処から遊覧船に乗り休屋までの風景を楽しみ、以前何度も訪れたことがあった休屋周辺を散策した後バスで子の口まで戻り、其処から奥入瀬渓流の傍の小道を下る石ヶ堂までの4時間ほどのウオーキングをした。途中公衆トイレは一か所しかない。そこで用足しをしないと途中で大変なことになる。この下りの散策を楽しんだのは男と女房の二人だけであった。梅雨時期の渓流散策はまた特別な趣がある。雨具は必要なかった。

そのホテルの渓流沿いの庭も森の中を歩くような雰囲気である。男と女房は朝食の前、この庭を散策した。庭では申し込んだ人だけプラス2千円の費用で屋外の朝食を楽しめるコーナーがある。梅雨時期であるので今回この朝食は申し込まなかったが、3、4組の申込者があったようで、従業員たちがその準備をしていた。次回は是非申し込もうと思う。

 特記すべきこととしてそのホテルの温泉の一つに車で送迎される露天風呂がある。そこでは専用の着衣で男女混浴である。夜8時の送迎車でその温泉に行ったのであるが、他に利用客は居ず、男と女房二人だけの専用であった。その温泉には係りの者は居ず、送迎車の運転手が客を送った後、次に迎えに来るまでの間、犯罪防止のため入口に鍵をかける。

二人の専用といえば十和田湖遊覧船もそうであった。子の口から休屋まで遊覧船の客は男と女房以外、一人旅の老人だけだった。申し訳ないので船内の店でコーヒーを注文した。その老人は船内の店の女性店員と会話を楽しんでいた。
 
青森を観光するにもマイカーでなければ十分楽しめないだろう、という先入観があった。今回の旅行で奥入瀬を歩くだけでは何か物足りない。出来ればハイヤーでも雇ってスポットに立ち寄りながら八甲田までゆきロープウエイに乗って山頂にも行きたいと考えていた。ところがそれは全くの杞憂であった。今回経験して初めて分かったことであるが、青森旅行は車が無くても十分楽しめる。公共の交通機関が発達しているのである。料金はそれなりに高いと感じたがJRバス路線網が発達していて方々に行くことができるようになっている。八甲田は梅雨時期視界が悪いので今回は登らなかった。

 奥入瀬渓流ホテルが経営しているらしいが、そのホテルから離れていない焼山停留所の前に「道の駅」がある。其処で沢山の地産の土産品を買ってわが家まで宅急便で送ったが、其処の店員のおばさんに「ここは交通の便がよいねえ。これならこれからちょくちょく来ますよ」と言ったら、その女性は「都会から来た人はそうおっしゃるんですが、地元の人たちは“不便だ、不便だ”と言っているんですよ」と言う。都会では交通機関は人に合わせて運行されるが、田舎では人が交通機関に合わせなければならないという感覚である。

JRバスの運行時間を確認してそれをうまく利用すれば、奥入瀬・十和田・八甲田・青森・八戸などの観光を十分楽しむことができる。男も女房もその便利さを今まで全く知らなかった。これからは新幹線を利用し、奥入瀬渓流ホテルなどリゾートホテルに泊まり、今回できなかった観光を楽しみたいと思う。秋の紅葉は非常に素晴らしいと思う。是非、この秋にはまた奥入瀬を訪れたいと思う。紅葉の時期は10月下旬から11月上旬であるという。このホテルは12月から翌年の3月までは閉鎖されるという。

2012年6月15日金曜日


万葉集に学ぶ「あきやまの したへる妹 なよたけの とをよる児らは」(20120615)

 柿本人麻呂の生没年は不明であるが、柿本人麻呂の歌から類推されて、柿本人麻呂の年齢は山上憶良よりは2、3歳から10数歳年上であろうと推察されている。その歌の一つが巻第二、二一七番の歌である。

      吉備津采女(きびつのうねめ)の死にし時に、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一   首幷に短歌

二一七 あきやまの したへる妹 なよたけの とをよる児らは いかさまに 思ひ居れか たくはなの 長き命を 露こそば 朝に置きて 夕には 消ゆといへ 霧こそば 夕に立ちて 朝には 失(う)すといへ あずさゆみ 音聞く我も おほに見し こと悔しきを しきたへの 手枕(たまくら)まきて つるぎたち 身に副(そ)へ寝けむ わかくさの その夫(つま)の子は さぶしみか 思ひて寝らむ 悔しみか 思ひ恋ゆらむ 時ならず 過ぎにし児らが 朝露のごと 夕霧のごと

      短歌二首
二一八 楽浪(さきなみ)の 滋賀津の児らが 一に云ふ「滋賀の津の児が」 罷(まか)り道の 川瀬の道を 見ればさぶしも
二一九 そらかぞふ 大津の児が 逢ひし日に おほに見しくは 今ぞ悔しき

 吉備国津宇郡(きびのくにつうのこほり)(今の岡山県津窪郡)から貢上された采女は「したへる」(「紅葉している」という意味)ほど美しい采女であった。その采女が「なよたけ」のようになよなよし、「とをよる」ようにしなやかな若い男と恋に落ち、世間に知れ渡ってしまった。美しい采女はそれを苦にして自殺してしまった。柿本人麻呂はその事件を題材にこのような素晴らしい詩を作っている。

五七調の詩は、声を出して読むうちに次第にその情感が伝わってくるようになる。従って、柿本人麻呂の詩を何度もよむことによって会得がやがて体得になり、自分が柿本人麻呂の域までは絶対行かないことは当然のこととしても、多少なりとも良い詩を作ろうと思えば、何度も何度も柿本人麻呂の詩を朗読してみることが重要であると思う。

2012年6月14日木曜日


万葉集に学ぶ「住吉の 波豆麻の君が うま乗り衣 さひづらふ」(20120614)

巻七 一二七三 右の一首柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ
住吉(すみのへ)の 波豆麻(はづま)の君が うま乗り衣 さひづらふ 漢女(あやめ)をすゑて 縫へる衣ぞ

住吉は渡来人が多く住んでいた場所だそうである。「さひづらふ」は「囀(さえづ)る」ということで、漢人(あやひと)(=外国人)の言葉が、小鳥のさえずるように聞こえることから「漢人」にかかる枕詞である。

この歌は、「住吉の波豆麻のそのお方の乗馬服は、渡来人の女性を雇って縫わせた衣服である」という意味である。

『日本書紀』や『続日本紀』などの史書には、随処に渡来帰化のことや日本国内移住のことが書かれている。その人数も数えだけで何万人という程になる。渡来人たちは皆、渡来前の国における身分に応じて天皇から氏姓を与えられ、相応の身分で処遇され、百済王という氏姓の一族は各地の国司にもなっている。大学の学長になった人もいる。

渡来人たちのうち当時として高度の学識・技術をもっていた人たちはそれぞれそれなりに処遇され、日本の文化向上に貢献しているが、長に引き連れられて渡来してきた手に職がある人たちはそれぞれその職を生かして異国の地で生きていたのであろう。柿本人麻呂の時代には、まだ日本語もよく話せない渡来人たちがいたということがわかる。

日本へやってきて1300年から1800年も経つと皆血が混ざり合い、今の日本人の形質の中に僅かでもその痕跡が残されている筈である。つまり皆日本人になっているのである。戦後日本に永住している人たちの子孫もやがてそうなるであろう。

しかし、日本人として日本で恩恵を受けている人たちが、自分の思想・主義主張のため、或いは自分自身の「生きがい」のため反日本的な言動を行い、他の日本人を扇動し、洗脳していることについては、新たな立法措置により厳しい監視と取り締まりを行えるようにする必要がある。その理由は、それを放置しておけば人間の体の中のがん細胞のように増殖して社会に害毒をおよぼすからである。特に一般大衆に迎合して政治家になった者、またそのカリスマ性を磨いて人々を惹き付け、政治家になろうとする者、これらには十分注意が必要である。

2012年6月13日水曜日


万葉集に学ぶ「をのこやも 空しかるべき 万代に 語り継ぐべき」(20120613)

巻六 九七八
 をのこやも 空しかるべき 万代(よろずよ)に 語り継ぐべき 名は立てずして

 右の一首、山上憶良臣の沈痾りし時に、藤原朝臣八束(ふじわらのあそみやつか)、河辺朝臣東人(かはへのあそみあづまひと)を使はして疾める状(さま)を問はしむ。ここに憶良臣、和ふる語(ことば)已(すで)に畢(をは)り、須(しまら)くありて涙をぬぐひ悲しび嘆きて、この歌を口吟(うた)ふ。

 山上憶良は無位の身分で貧しい暮らしをしていたが、42歳ごろ出世して遣唐使の一員に名を連ね、57歳ごろ従五位下の官位で伯耆国(今の鳥取県の西部)の国守になり、67歳ごろ筑前国の国守を務めた。天平五年、死の床に臥せていたとき後世に自分の名を遺すことができないと嘆き悲しんでいた。そこへ当時19歳だった藤原八束が河辺東人を使者として憶良の家に遣わした。八束は後の真盾、藤原摂関家の祖となった人である。

 八束が遣わした河辺東人は歌うことに優れたひとであったという。その人の前で死の間際の憶良は、上記の一首を吟じたという。死の間際まで凛として生きた憶良を見習いたいと思う。

 しかしその憶良は病に苦しみ、長々とした自哀文を遺している。それは『沈痾自哀文(ちんあじあいぶん)』である。初めの部分のみ以下に記す。憶良の病は長患いでリウマチか何かの思い病気であったようである。

 竊(ひそ)かに以(おもひ)みれば、朝夕に山野に佃食(でんしょく)する者すらに、猶(なほ)し災害なくして世を渡ることを得(う)、常に弓箭(ゆみや)を執り、六斎を避けず、値(あ)ふ所の禽獣の、大きなると小さきと、孕(はら)めると孕まぬとを論ぜずして、並(とも)に皆殺し食(くら)ふ此を以て業とする者をいふ。昼夜河海に釣漁(てうぎょ)する者すらに、尚し慶福ありて経俗を全(また)くす。漁夫・潜女・各(おのもおのも)勤むる所あり。、男は手に竹竿を把(と)りて能(よ)く波浪の上に釣り、女は腰に鑿籠(のみこ)を帯びて潜(かづ)きて深き潭(ふち)の底に採る者をいふ。 況(いはむ)や、我は胎生より今日に至るまで、自ら修善の志あり、曾(かつ)て作悪(さあく)の心なし。・・(中略)・・嗟乎(ああ)媿(はずか)しきかも、我(ふ)何の罪を犯せばかも、この重き疾(やまひ)に遭へる。未だ過去に造れる罪か、若しは是(こそ)前に犯せる過なるかを知らず。罪過を犯すことなくは、なにしかこの病を獲むといふ。初め痾(やまひ)に沈みしより已来(このかた)、年月稍(やくやく)に多し。十余年を経たることをいふ。是の時に年七十有四・・(中略)・・四支動かず、百節皆疼(ひひら)き、身体太(はなは)だ重きこと、猶し鈞石(きんせき)を負ひたるがごとし。(後略)」

2012年6月12日火曜日


万葉集に学ぶ「世間の すべなきものは 年月は 流るるごとし」(20120612)

八〇四 世間の すべなきものは 年月は 流るるごとし とり続(つつ)き 追ひ来るものは 百種(ももくさ)に 迫(せ)め寄り来(きた)る をとめらが をとめさびすと 韓玉(からたま)を 手本(てもと)に巻かし 或いはこの句あり、云ふ「しろたへの 袖振りかはし 紅(くれなゐ)の 赤裳裾(あかもすそ)引き」 よち子らと 手携(てたづさ)はりて 遊びけむ 時の盛りを 留みかね 過ぐし遣(や)りつれ みなのわ たか黒き髪に 何時(いつ)の間にか 霜の降りけむ 紅の 一に云ふ「丹(こ)のほなす」 面(おもて)の上に いづくゆか 皺(しわ)が来りし 一に云ふ「常なし 笑(ゑ)まひ眉(まよ)引き さくはなの うつろひにけり 世間は かくのみならし」 ますらをの をとこさびすと 剣太刀(つるぎたち) 腰に取り佩(は)き さつ弓を 手握(たにぎ)り持ちて 赤駒に 倭文鞍(しつくら)うち置き 這ひ乗りて 遊びあるきし 世間(よのなか)や 常にありける をとめらが さ寝(さ)す板戸を 押し開き い辿(たど)り寄りて ま玉手の 玉手さし交(か)へ さ寝(ね)し夜の いくだもあらねば 手束杖(たつかづゑ) 腰にたがねて か行けば 人に厭(いと)はえ かく行けば 人に憎まえ およしをは かくのみならし たまきはる 命惜しけど せむすべもなし

           反歌
八〇五 常盤(ときは)なす かくしもがなと 思へども 世の理(こと)なれば 留(とど)みかねつも
             神亀五年七月二十一日に、嘉摩郡(かまのこほり)(福岡県嘉穂郡の南東部)にて撰定す。筑前国守山上憶良
    伏して来書を辱(かたじけ)なみし、具(つぶさ)に芳旨(ほうし)を承りぬ。忽(たちま)ちに漢(あまのがは)を隔つる恋を成し、また梁(はし)を抱く意(こころ)を傷(いた)ましむ。ただ羡(ねが)はくは、去留(きょりゅう)恙(つつみ)なく、遂に披雲(ひうん)を待たくのみ。

この歌は、憶良に従ったある下級官人が今で言えば若い女性が居る家に押し入り、強姦してしまったことについて詠ったものではないかと想像する。その者の処分について文書が憶良のもとに届いたのであろうか?この当時、憶良は大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人とともに筑紫歌壇を形成していた。

当時63歳だった旅人は妻・大伴郎女を伴って赴任している。その愛妻を赴任先で病気で失っている。憶良はその旅人の心情を思いやって次の歌を遺している。巻五、七九七番の歌である。
悔しかも かく知らませば おをによし 国内(くぬち)ことごと 見せましものを