2012年6月23日土曜日


万葉集に学ぶ「あかねさす 紫野逝き 標野行き 野守は見ずや・・」(20120623)

 天智七年(667)五月五日(さつきのいつかのひ)に、天皇(すめらみこと)、蒲生野(かまふの)に従猟(かり)したまふ。時(とき)に、大皇弟(ひつぎのみこ)・諸王(おほきみたち)・内臣(うちつまへつきみ)(およ)び群臣(まへつきみたち)、皆(みな)(ことごと)くに従(おほみとも)なり。

 以上のことは、『日本書紀』(岩波文庫、初版1995316日発行)に出ている。同様の行事は推古天皇十九年(611)五月五日に初めて催されたようである。その時の場所は、菟田野(現在の奈良県宇陀郡榛原町足立付近)であったが、今回は滋賀県蒲生郡安土町南端付近の野である。

この行事はシナ(漢土)における端午の節句の風習にならった「薬猟(くすりがり)であり、鹿茸(ろくじょう)(鹿の袋角)をとったり薬草を摘んだりする猟であり、古代我が国における野遊びや草摘みなどの習俗を持ち合わせた性格のものであろうと想像されている。

この行事には、天智天皇、天智天皇同母弟の大海人皇子、律令制の諸王、中臣鎌足ほか諸大臣等が同行している。当然大海人皇子の最初の妻(宮人(めしをみな))である額田王ほか後宮の女官たちや大勢の下級官人たちも一緒であったであろう。その華やかさが想像される。なお、天智天皇はこの年の春正月(はるむつき)の丙戌(ひのえいぬ)の朔(ついたち)戊子(つちのえねのひ)に即位された。それまでは皇太子のまま非常に多難な時期の政治を担ってこられた。内大臣鎌足は天皇の信任非常に厚く、よく天皇を輔弼された。

万葉集巻第一に「天皇、蒲生野(かまふの)に遊猟(みかり)する時に、額田王の作れる歌」と題する二〇番に

あかねさす 紫野逝(ゆ)き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る

と、「天皇が私に向かって袖を振っているわよ」という歌を、自分を最初に愛してくれた男性である大海人皇子に贈った。大海人皇子は「皇太子の和ふる御歌 明日香の宮に天の知らしめしし天皇、諡を天武天皇といふ」と題する二一番に

    むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人嬬(づま)ゆえに 我がひめやも

 と答えている。大海人皇子も額田王もなんとも頬笑ましい大人の恋の情景を演じている。