2012年6月15日金曜日


万葉集に学ぶ「あきやまの したへる妹 なよたけの とをよる児らは」(20120615)

 柿本人麻呂の生没年は不明であるが、柿本人麻呂の歌から類推されて、柿本人麻呂の年齢は山上憶良よりは2、3歳から10数歳年上であろうと推察されている。その歌の一つが巻第二、二一七番の歌である。

      吉備津采女(きびつのうねめ)の死にし時に、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一   首幷に短歌

二一七 あきやまの したへる妹 なよたけの とをよる児らは いかさまに 思ひ居れか たくはなの 長き命を 露こそば 朝に置きて 夕には 消ゆといへ 霧こそば 夕に立ちて 朝には 失(う)すといへ あずさゆみ 音聞く我も おほに見し こと悔しきを しきたへの 手枕(たまくら)まきて つるぎたち 身に副(そ)へ寝けむ わかくさの その夫(つま)の子は さぶしみか 思ひて寝らむ 悔しみか 思ひ恋ゆらむ 時ならず 過ぎにし児らが 朝露のごと 夕霧のごと

      短歌二首
二一八 楽浪(さきなみ)の 滋賀津の児らが 一に云ふ「滋賀の津の児が」 罷(まか)り道の 川瀬の道を 見ればさぶしも
二一九 そらかぞふ 大津の児が 逢ひし日に おほに見しくは 今ぞ悔しき

 吉備国津宇郡(きびのくにつうのこほり)(今の岡山県津窪郡)から貢上された采女は「したへる」(「紅葉している」という意味)ほど美しい采女であった。その采女が「なよたけ」のようになよなよし、「とをよる」ようにしなやかな若い男と恋に落ち、世間に知れ渡ってしまった。美しい采女はそれを苦にして自殺してしまった。柿本人麻呂はその事件を題材にこのような素晴らしい詩を作っている。

五七調の詩は、声を出して読むうちに次第にその情感が伝わってくるようになる。従って、柿本人麻呂の詩を何度もよむことによって会得がやがて体得になり、自分が柿本人麻呂の域までは絶対行かないことは当然のこととしても、多少なりとも良い詩を作ろうと思えば、何度も何度も柿本人麻呂の詩を朗読してみることが重要であると思う。