2012年6月19日火曜日


万葉集に学ぶ「恋ふること 慰めかねて 出でて行けば・・」(20120619)

 柿本朝臣人麻呂の時代である天智・天武朝に、やまと言葉という表現方法が確立されたという。それまでは言葉の表現の方法が統一されていず、地方では方言が使われていたため行政上不便な面が多かったのかもしれない。そのやまと言葉で表現した歌を漢字で表現するとき「略体歌」という助詞や助動詞を文字化しない特殊な表現の歌が万葉集に収められている。やまと言葉が通用すれば助詞や助動詞を文字化しなくても、それを読む相手には理解できたのであろう。未だ「神競者 麿待無」について定訓を得ていない人麻呂の「「天漢 安川原 定而 神競者 麿待無」という日本最古の七夕の歌もそうなのであろう。

 大伴宿禰家持が万葉集に収録した柿本朝臣人麻呂の集は非常に多い。「萬葉集巻第十一」などは、これを何度も朗読すればいつしか自分も短歌を作ることが上手になりそうである。ただしこれは恋の歌ばかりなので年寄りとしてはちょっと気が引ける。詩吟でも謡曲でも声を出すということは健康維持上よいことである。いくら若くても気持ちが年寄りのようであれば、その若者はすでに年寄りと同じことである。その巻十一の二四一四番に次の歌がある。

 恋ふること 慰めかねて 出でて行けば 山を川をも 知らずに来にけり

 この原文は略体で「恋事 意追不得 出行者 山川 不知来」である。

 古い時代では、日本語の発音に合わせて漢字があてはめられていた。仁徳天皇の皇后が天皇を思って作らせたという歌が山上憶良臣の類聚歌集に載せてあると注書きのある巻二、八五番の歌の訓読は「君が行き 日(け)長くなりぬ 山尋ね 迎えか行かむ 待ちにか待たむ」である。この原文は「君之行 氣長成奴 山多都祢 迎加将行 待尒可将待」である。天智・天武朝にこのようなやまと言葉の表現方法が確立されたのである。そして時代が下がって「ひらがな」「カタカナ」が発明され、さらに「高野切」という流麗な筆記体が生まれ、今日の日本語の表現を非常に豊かにしている。これは世界に類例のないことである。日本に天皇がいたからこそ今日の日本があるのである。