2012年6月21日木曜日


万葉集に学ぶ「石見の海 角の浦回を 浦なしと 人こそ見らめ・・」(20120621)

 万葉集(正しくは「萬葉集」)をただ単に抒情的に読み味わうだけならば、緊張感はなく心は休まる。しかし、万葉集には大津皇子の謀反事件の関係者の歌も収められている。皇位継承に絡む事件の当事者の歌を読むと、当事者の心が想像されて何か悲しい気持ちになる。特に伊勢神宮の斎宮であった姉・大伯皇女とその弟である皇太子・大津皇子、また大津皇子の妃であった山辺皇女の心中を想像するといたたまれなくなる。

 その点、柿本朝臣人麻呂が石見で妻にしていた女性と別れるときの歌などは、「その女性はこれが今生の別れだと思い、涙にくれながら人麻呂が遠くに去って行く姿を見送ったのであろう」と想像する程度で、悲しい気持ちにはならない。また、文武両道に秀でていた大津皇子と石川郎女(いしかわのいらつめ)との間の歌の贈答などは大津事件前のことであり、読んでいて肩が凝るようなことはない。また天智天皇とその同母弟(いろど)(同じ母の弟君のこと)で後に天武天皇となられる皇太子・大海人皇子が同じ女性・額田王を巡る歌などは三角関係を想像させるが、当時の情景が想像されて頬笑ましくもある。

 人麻呂には4人の妻がいたようである。当時妻たちはお互い離れた場所に住んでいたから、誰が正妻で誰が側室或いは妾か判然としない。当時の律令の規定によると男子は15歳、女子は13歳で結婚を許されたという。それも数えの年齢であるから、女子は小学校6年生、男子は中学校2年生になれば結婚することができたのである。それも今で言う「出来ちゃった婚」に近いものであったらしい。情交が先行していたようである。当時はそのように男女関係が自由であったらしい。

 その人麻呂が国司として赴任した石見の国で娶った女性が「石見の妻」である。巻第二、一三一番の歌に「柿本朝臣人麻呂、石見国より妻を別れて上り来る時の歌二首」と題する歌がある。「或本の歌」という言葉でちょっと内容が異なる複数の歌が萬葉集には出ている。人麻呂がその妻と別れて都に帰るとき石見の妻は人麻呂の姿が見えなくなるまで見送っていた。その女性はどんな気持ちであっただろうか?

 石見(いはみ)の海 角(つの)の浦回(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも いさなとり 海辺をさして 和多豆(にきたつ)の 荒磯(あらそ)の上に か青なる 玉藻沖つ藻 朝はふる 風こそ寄(よ)せめ 夕はふる 浪こそ来寄れ 浪のむた か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を つゆしもの 置きてし来れば この道の 八十隅(やそくま)ごとに 万(よろず)たび かへり見すれど いや遠に 里は放(さか)りぬ いや高に 山も越え来ぬ なつくさの 思ひしなえて 偲ふらむ 妹が門見む なびけこの山

   反歌二首
一三二 石見のや 高角山の 木の際(ま)より 我が振る袖を 妹みつらむか
一三三 ささの葉は み山も清(さや)に 乱(さや)けども 我は妹思ふ 別れ来ぬれば