2012年6月22日金曜日


万葉集に学ぶ「熟田津に 舟乗りせむと 月まてば 潮もかなひぬ・・」(20120622)

 第三五代皇極天皇、再即位されて第三七代斉明天皇は、第三十代敏達天皇の曾孫(ひひこ)であり、第三四代舒明天皇の異母弟の・茅淳王の女(むすめ)であった。その母(いろは)は第二九代欽明天皇の孫・吉備姫王(きびつひめのおおきみ)であった。舒明天皇の母は第三〇代敏達天皇の皇女である。また舒明天皇の異母弟・茅淳王の母の名は大俣王という。第三四代舒明天皇の皇后は舒明天皇が崩(かむあが)られた後、第三五代皇極天皇となられた。その同母弟(いろど)が第三六代孝徳天皇である。

その孝徳天皇が崩(かむあが)られた後、第三五代皇極天皇退位後上皇となっておられた皇極上皇が今度は第三七第斉明天皇として再即位された。そこには上皇の御子である葛城皇子(かずらきのみこ)(通称、中大兄皇子)を皇太子とし、ゆくゆくは中大兄皇子に皇位を譲るお気持ちがあった。

古代、皇統維持のために女性の天皇は存在したが女系の天皇は皆無である。このことが大変重要である。女系になれば神武天皇の血統は完全に途絶える。日本国家としての損失は計り知れないものがある。もしそのようなことになれば、日本の国は亡びてしまうことだろう。

その斉明天皇になられた方・天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしのひめ)と尊称される宝皇女は、初め第三二代用明天皇の適(みあひ)して一子・漢皇子を生(あ)しましたがその漢皇子は夭折され、その用明天皇が崩(かむあが)られた後、舒明天皇に適(みあひ)して二(ふたはしら)の男(ひこみこ)・一(ひとはしら)の女(ひめみこ)を生(あ)しましている。

その舒明天皇も崩(かむあが)られてしまった。その二の男は後に天智天皇となられる中大兄皇子と、天武天皇となられる大海人皇子である。天智天皇と天武天皇は同母の兄弟である。天智天皇については万葉集でその名が出ている皇太子・大海人皇子の妻である額田王と間で三角関係とも思わせるような有名な歌の贈答「あかねさす 紫野逝(ゆ)き標野(しめ)行き 野守は見ずや・・」がある。

この中大兄皇子が斉明天皇の皇太子時代、隣国の新羅は我が国に離反し、シナ(唐)と組んで友邦百済を滅亡させようとした。このとき百済は新羅からの侵略を防ぎ、シナは一旦手を引いている。そのとき百済は唐人捕虜100人余りを我が国に献(たてまつ)っている。彼らは今の岐阜県に居住していた。尖閣・沖縄などもそうであるが、シナは相手が強ければ手を引くのである。弱いとみれば「第一列島線・核心的利益確保」として他国の領土を奪い取ろうとする。シナのやり方は昔も今も変わりはないのである。

斉明七年(661年)春正月(はるむつき)、斉明天皇は百済救援のため朝廷をあげて九州に出向した。船団は出港し、瀬戸内海の小豆島北方の海域に至り、愛媛県松山市沖辺りに至り、道後温泉で泊まった。其処から出て博多に向かった。

道後温泉のある港から出発するとき額田王が作ったとされる歌が次に示す萬葉集巻第一、八番の歌である。しかし山上憶良の注書きにあるようにこの歌は斉明天皇御製である。船団は月明とともに潮位など出港に好都合となるそのような時刻を待っていたのである。

熟田津に 舟乗りせむと 月まてば 潮もかなひぬ 今は漕(こ)ぎいでな

斉明天皇はこの年の五月、福岡県朝倉郡朝倉町山田辺りにあった宮・朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにはのみや)に遷り居、秋七月に崩(かむあが)られた。皇太子・中大兄皇子は直ぐには即位せず(即位は七年後)、百済を救おうとして朝鮮半島に大軍を派遣したがシナ(唐)と新羅の連合軍に大敗してしまった。その結果400年ほど前の神功皇后による三韓征伐以来確保されていた朝鮮半島南部における日本の権益を一切失ってしまった。敗戦により百済から引き揚げて来た王族・貴族ほか一般庶民等大量の避難民の受け入れや、国家体制の強化、築城や通信連絡手段の整備(狼煙)など国境警備の強化など奮闘され、未曾有の国難を乗り切るため大変なご苦労をされた。

その陰には命をかけて皇統を守り、国造りのため真心と熱情を傾けた中臣鎌子連(後の鎌足)や佐伯連などがいた。なお佐伯氏とともに古代から天皇の親衛隊であった大伴氏は藤原氏と親族である。鎌足のご生母が大伴氏の出である。

政治がマスコミに扇動され、洗脳された一般大衆の愚かな判断により動かされるようであれば国は亡びる。蘇我宗家であった入鹿一族のように私利私欲のため国家権力を握ろうとする者が政治を牛耳るようになれば国は亡びる。深慮遠謀・陰謀によりそのような状況を作り出して日本を弱体させようとしている国々は現に存在している。