2012年6月13日水曜日


万葉集に学ぶ「をのこやも 空しかるべき 万代に 語り継ぐべき」(20120613)

巻六 九七八
 をのこやも 空しかるべき 万代(よろずよ)に 語り継ぐべき 名は立てずして

 右の一首、山上憶良臣の沈痾りし時に、藤原朝臣八束(ふじわらのあそみやつか)、河辺朝臣東人(かはへのあそみあづまひと)を使はして疾める状(さま)を問はしむ。ここに憶良臣、和ふる語(ことば)(すで)に畢(をは)り、須(しまら)くありて涙をぬぐひ悲しび嘆きて、この歌を口吟(うた)ふ。

 山上憶良は無位の身分で貧しい暮らしをしていたが、42歳ごろ出世して遣唐使の一員に名を連ね、57歳ごろ従五位下の官位で伯耆国(今の鳥取県の西部)の国守になり、67歳ごろ筑前国の国守を務めた。天平五年、死の床に臥せていたとき後世に自分の名を遺すことができないと嘆き悲しんでいた。そこへ当時19歳だった藤原八束が河辺東人を使者として憶良の家に遣わした。八束は後の真盾、藤原摂関家の祖となった人である。

 八束が遣わした河辺東人は歌うことに優れたひとであったという。その人の前で死の間際の憶良は、上記の一首を吟じたという。死の間際まで凛として生きた憶良を見習いたいと思う。

 しかしその憶良は病に苦しみ、長々とした自哀文を遺している。それは『沈痾自哀文(ちんあじあいぶん)』である。初めの部分のみ以下に記す。憶良の病は長患いでリウマチか何かの思い病気であったようである。

 竊(ひそ)かに以(おもひ)みれば、朝夕に山野に佃食(でんしょく)する者すらに、猶(なほ)し災害なくして世を渡ることを得(う)、常に弓箭(ゆみや)を執り、六斎を避けず、値(あ)ふ所の禽獣の、大きなると小さきと、孕(はら)めると孕まぬとを論ぜずして、並(とも)に皆殺し食(くら)ふ此を以て業とする者をいふ。昼夜河海に釣漁(てうぎょ)する者すらに、尚し慶福ありて経俗を全(また)くす。漁夫・潜女・各(おのもおのも)勤むる所あり。、男は手に竹竿を把(と)りて能(よ)く波浪の上に釣り、女は腰に鑿籠(のみこ)を帯びて潜(かづ)きて深き潭(ふち)の底に採る者をいふ。 (いはむ)や、我は胎生より今日に至るまで、自ら修善の志あり、曾(かつ)て作悪(さあく)の心なし。・・(中略)・・嗟乎(ああ)媿(はずか)しきかも、我(ふ)何の罪を犯せばかも、この重き疾(やまひ)に遭へる。未だ過去に造れる罪か、若しは是(こそ)前に犯せる過なるかを知らず。罪過を犯すことなくは、なにしかこの病を獲むといふ。初め(やまひ)に沈みしより已来(このかた)、年月稍(やくやく)に多し。十余年を経たることをいふ。是の時に年七十有四・・(中略)・・四支動かず、百節皆疼(ひひら)き、身体太(はなは)だ重きこと、猶し鈞石(きんせき)を負ひたるがごとし。(後略)」