2012年6月24日日曜日


万葉集に学ぶ「君待つと 我が恋ひ居れば 我が屋戸の 簾動かし・・」(20120624)

 額田王は大海人皇子(後の天武天皇)の最初の妻となり、十市皇女を生んだ。その皇女は壬申の乱の当事者・大友皇子(第三九代弘文天皇)の妃となった。壬申の乱では額田王や十市皇女はつらい立場に立たされた。その額田王が天智天皇を偲んで詠った歌が萬葉集巻第四の四八八番に「額田王、近江天皇を偲びて作れる歌一首」と題する次の歌である。これは後世の仮託であるという説がある。
  
  君待つと 我が恋ひ居(を)れば 我が屋戸(やど)の 簾(すだれ)動かし 秋の風吹く

 額田王の子・十市皇女は夫・大友皇子(弘文天皇)が壬申の乱で自殺後父である壬申の乱の一方の当事者・天武天皇のもとに身を寄せ、天武天皇から草壁皇子を皇太子としたことを報告するため伊勢神宮に派遣されている。後に天武天皇皇女・大伯皇女(おほくのひめみこ)が伊勢斎宮となって伊勢に群行したとき同行したという説もある。

大伯皇女の弟・大津皇子は謀反の罪で第四一代持統天皇から死を賜っている。持統天皇は天武天皇の皇后であった。持統天皇は第三八代天智天皇の女(むすめ)・菟野皇女(うののひめみこ)である。生母は大化の改新のときの右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の娘である。

第四〇代天武天皇が崩(かむあが)りされた後、大津皇子が皇太子・草壁皇子(後の第四二代文武天皇)を「謀反(かたぶけ)む」とした国家反逆という最も重い罪を犯したのである。大津皇子は朝廷に内緒で伊勢に赴き姉の斎宮・大伯皇女に会っている。そのことが謀反に問われた原因の一つであったのかもしれない。

 壬申の乱が起きる前、次のようなことがあった。『日本書紀』(岩波文庫)によれば、天智八年(678)「夏五月(なつさつき)の戊寅(つちのえとら)の朔(ついたち)壬午(みずのえうまのひ)に天皇(すめらみこと)、山科野(やましなの)に縦猟(かり)したまふ。大皇弟(ひつぎのみこ)・藤原内大臣(ふじわらのうちのまえつきみ)(およ)び群臣(まへつきみたち)、皆(みな)(ことごとく)に従(みとも)につかへまつる」とある。

この時のことを書いているのであろうか、談山神社編・梅田出版『大和多武峯紀行』によれば、“『藤氏家伝』によれば、近江大津の湖畔に立てられた浜楼で、天智天皇は群臣を集めて酒宴を開いた。宴の盛りに突如、皇大弟の大海人皇子(のちの天武天皇)が槍をとって板敷をつらぬいた。天皇は激怒して、ただちに殺そうとした。その中に立ち入り、ことを収めたのが鎌足公だった。その事件から大海人皇子の公に対する見方が変わった。それまでは兄天皇に最も密着した老獪(ろうかい)な人物と思っていたからだ。やがて壬申の乱が勃発(ぼっぱつ)した。皇子は吉野から東国に向かった。その時、鎌足公さえ存命なら、このような内乱はなかったろうし、じしんもこんな不幸はなかったはずだ、と思った”とある。

大海人皇子は兄・天智天皇が崩御される前、天智天皇の皇后・倭姫王(やまとのひめおおきみ)を次の天皇にし、大友皇子を太政大臣として「諸政(もろもろのまつりごと)を奉宣(のたま)はしむ。臣(やつかれ)は請願(こ)ふ、天皇の奉為(おほみため)に、出家(いへで)して脩道(おこなひ)せむ」と申し出、許されて天皇から袈裟など賜い吉野に下っている。壬申の乱はその後起きている。

 なお、同書には額田王について”鏡女王は、近江国野洲群郡鏡里の鏡王の女(むすめ)といい、その妹が額田王と考えられている”とその本には書かれている。