2012年6月18日月曜日


万葉集に学ぶ「天の川 安の川原に 定まりて・・」(20120618)

 天の川 安の川原に 定まりて(しずまりて) 神競者 麿待無 (二〇三三)
 あまのかは やすのかはらに さだまりて(しずまりて) 神競者 麿待無

   この歌一首、庚辰(かうしん)の年に作る
   右、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。

 これは日本最古の七夕の歌でると言われる。「定まりて(又は、しずまりて)」は「定而」をそのように読み下したものである。これを含めて「定而 神競者 麿待無」については、定訓が得られていないということである。この歌の原文は「天漢 安川原 定而 神競者 麿待無  此歌一首庚辰年作之」である。

「庚辰」の年は、天武九(六八〇)年説と60年後の天平十二(七四〇)年説の二説があると言われるが、どうも天武九(六八〇)年説の方が正しいようである。

 この年に人麻呂が出仕していて少なくとも21歳であるとすると、人麻呂の出生は斉明六年(六六〇年)となる。それは山上憶良と同じ年ということになる。人麻呂の生年は明確にはならないが、山上憶良と同世代か10歳ぐらい年長であったようである。

 人麻呂の生年は大体660年から650年ぐらいの間であろうと推定されるが、では没年は何年だろうか? 巻二の二二三番の歌以降にその手がかりがあるという。

  柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて死に臨む時に、自ら傷みて作れる歌一首
二二三 鴨山の 盤根(いはね)しまける 我をかも 知らにと妹が 待ちつあるらむ

      柿本朝臣人麻呂の死ぬる時に、妻依羅娘子(よさのをとめ)の作れる歌二首
二二四 今日今日と 我が待つ君は 石川の 貝に 一に云ふ「谷に」 ありと いはずやも
二二五 直(ただ)は逢はば 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲(しの)はむ

 人麻呂は「鴨山」の大岩を枕として横たわって死んでいる。その人麻呂の死を知らずに妻は自分の帰りを待ち続けているのだろうか、と詠っている。これは、実は人麻呂自身が作ったのではなく、国司として赴任したことがあった石見国(現在の島根県西部(石見地方))に再下向したときに客死した後、人麻呂伝説として作られた歌らしいが、人麻呂自身が自分の死を脚本のように演じて作ったという説もある。

 人麻呂は、二二三番の歌を作る前に天智天皇の皇女・明日香皇女(あすかひめみこ)が文武四年(七〇四)に没したとき歌を作っている。一九六番の歌である。これから類推して、人麻呂が没したのはこの年の後であろうと推察されている。