2012年6月12日火曜日


万葉集に学ぶ「世間の すべなきものは 年月は 流るるごとし」(20120612)

八〇四 世間の すべなきものは 年月は 流るるごとし とり続(つつ)き 追ひ来るものは 百種(ももくさ)に 迫(せ)め寄り来(きた)る をとめらが をとめさびすと 韓玉(からたま)を 手本(てもと)に巻かし 或いはこの句あり、云ふ「しろたへの 袖振りかはし 紅(くれなゐ)の 赤裳裾(あかもすそ)引き」 よち子らと 手携(てたづさ)はりて 遊びけむ 時の盛りを 留みかね 過ぐし遣(や)りつれ みなのわ たか黒き髪に 何時(いつ)の間にか 霜の降りけむ 紅の 一に云ふ「丹(こ)のほなす」 面(おもて)の上に いづくゆか 皺(しわ)が来りし 一に云ふ「常なし 笑(ゑ)まひ眉(まよ)引き さくはなの うつろひにけり 世間は かくのみならし」 ますらをの をとこさびすと 剣太刀(つるぎたち) 腰に取り佩(は)き さつ弓を 手握(たにぎ)り持ちて 赤駒に 倭文鞍(しつくら)うち置き 這ひ乗りて 遊びあるきし 世間(よのなか)や 常にありける をとめらが さ寝(さ)す板戸を 押し開き い辿(たど)り寄りて ま玉手の 玉手さし交(か)へ さ寝(ね)し夜の いくだもあらねば 手束杖(たつかづゑ) 腰にたがねて か行けば 人に厭(いと)はえ かく行けば 人に憎まえ およしをは かくのみならし たまきはる 命惜しけど せむすべもなし

           反歌
八〇五 常盤(ときは)なす かくしもがなと 思へども 世の理(こと)なれば 留(とど)みかねつも
             神亀五年七月二十一日に、嘉摩郡(かまのこほり)(福岡県嘉穂郡の南東部)にて撰定す。筑前国守山上憶良
    伏して来書を辱(かたじけ)なみし、具(つぶさ)に芳旨(ほうし)を承りぬ。忽(たちま)ちに漢(あまのがは)を隔つる恋を成し、また梁(はし)を抱く意(こころ)を傷(いた)ましむ。ただ羡(ねが)はくは、去留(きょりゅう)(つつみ)なく、遂に披雲(ひうん)を待たくのみ。

この歌は、憶良に従ったある下級官人が今で言えば若い女性が居る家に押し入り、強姦してしまったことについて詠ったものではないかと想像する。その者の処分について文書が憶良のもとに届いたのであろうか?この当時、憶良は大宰帥として大宰府に着任した大伴旅人とともに筑紫歌壇を形成していた。

当時63歳だった旅人は妻・大伴郎女を伴って赴任している。その愛妻を赴任先で病気で失っている。憶良はその旅人の心情を思いやって次の歌を遺している。巻五、七九七番の歌である。
悔しかも かく知らませば おをによし 国内(くぬち)ことごと 見せましものを