2010年4月15日木曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(26) (20100415)

ブッダのことばを記した書物を読んでいるが、『感興のことば』第3章「愛するもの」に次の二つのことばを見つけた。

18 どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛(いと)しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれの自己がいとしいのである。それ故に、自分のために他人を害してはならない。
19 すべての者は暴力におびえている。すべての(生きもの)にとって生命が愛(いと)しい。己(おの)が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

これらのことばは、その前に「もしも自分を愛しいものだと知るならば、・・」ということばではじまる幾つかの言葉に続いている。
人は皆、「自分を愛しい」と思っている。しかし私自身を含め一般の凡夫は「自分を愛しい‘もの’だと知ること」を忘れている。他者も自分と同じように「自分を愛しい」と思っていることまで心が及ばない。人はその身になって見なければ相手のことは理解したつもりであっても実は理解できていないものである。
人は皆、「自分を愛しい」と思っているから、他者が自分より優れているとその他者を下に引き落とし、自分がその他者よりも優位に立とうとする。何かの形でその他者を差別しようとする。‘いじめ’はその他者を自分一人では力が足りないので集団で一人の‘憎いやつ’を下に落とし、自分が優位に立とうとする無意識の行動である。
この心理状態はただ単に一個の人間だけが持つものではない。人間の集団、組織、最も大きな国家という組織においても存在する。その心理状態は、‘集合的無意識’である。
わが国は今どういう状況に置かれているのであろうか?価値観を共有できる親しい国・アメリカとの間に安全保障をめぐって隙間風が吹いている。核サミットでは普天間の問題もあって日本の影は薄かった。アメリカの新聞には一面トップにオバマ大統領と個別に会見した各国首脳とオバマ大統領との写真がずらりと並んでいた。しかし鳩山首相とオバマ大統領の夕食会での写真はアメリカ政府が日本向けにリリーズした写真であった。日本の新聞やテレビ報道で示されたこの写真で多くの日本人はアメリカと日本の間は緊密であるという幻想を抱いていて事態の深刻さに気付いていない。
旦那と妾の関係を日米関係に当てはめれば、旦那はアメリカ、妾は日本である。単独では生きる力もないのにひたすら旦那の愛に、情けにすがっていい顔をしようとする。「Trust me」と言う。「あたしを信じてね。今ちょっと都合が悪いの。」と言っているようなものである。戦争に敗れはしたがかつての強かった日本は何処に行ってしまったのか!
「たちあがれ日本」の石原都知事が、半ば泣き顔で「(このような老いぼれたちを)立ち上らせたのは誰なのだ!」と叫んだ。まことに悲しいことである。

2010年4月14日水曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(25) (20100414)

中学生の間で大麻が広がりつつあると言う。安売りスーパーの倒産、スーパーに豆腐を納入している業者が原価割れに近い価格での納入を余儀なくされているという。普天間基地問題の解決は非常に難しくなってきているという。国民の間で閉塞感が漂っている。
諸悪の根源は何か?日本は何故こうなってしまったのか?政治家を選んだのは国民である。現政権を選んだのも国民である。国会議員の数は多すぎることは確かであるが、国会議員が多すぎるからこうなったのではない。誰が悪いのでもない。われわれ国民ひとりひとりが今の状況を作ったのである。
政党も一つの組織である。組織というものは生き物である。生き物は自らを保存しようとする。すべての有機的なものは‘自己を保存’しようとする。時にそれが悪い方に働く。「数は力なり。」と言わんばかりに行動し、大義を見失ってしまう。
タイでは独立の行政機関としての選挙管理委員会が政党の解散を命じることができるということであり、この度の騒動で現政権の与党を解散させようとしている。わが国にはそのようなシステムは無いが、普天間の問題で国民に信を問うことを求める世論が高まれば、昨年夏、衆議院で圧倒的な多数を得た民主党でも衆議院の解散に踏み切らざるを得ないという状況になる可能性がある。
折しも潜水艦2隻を含む中国の艦隊が沖縄本島と宮古島の間の公海上を通過し沖の鳥島方面に向かっているという。中国海軍のヘリコプターがわが護衛艦から60mの近くまで接近し、護衛艦は航行に支障が生じかねない状況になったという。アメリカが沖縄から手を引けばわが国の安全保障上どういうことになるか。
そろそろ国民は永田町で繰り広げられるパフォーマンスに飽きてくるだろう。事業仕訳も重要であるが国民の間に漂う閉塞感の打破のため、与野党ともマニフェストにとらわれない新たなメッセージを国民に示して、国民に信を問うようにすべきである。自民党も政官業癒着打破のため事業仕訳を行うと言えば良い。国会議員の定数を減らすと言えばよい。国際宇宙ステーション(ISS)への往復のため宇宙ステーション補給機(H-II Transfer Vehicle: HTV)を改良してスペースシャトルに代わって人をISSに送り届け、ISSから人を地球に帰還させるようにすると言えばよい。宇宙で太陽光発電をして日本本土の施設に送電する計画、風力・波力・圧力発電増強計画、マグロなど大型魚の栽培・畜養を含む日本周辺海域での大規模水産工場建設計画、周辺海底資源開発計画など大型プロジェクトを示し、状況に応じて核武装(ただし当面潜在的能力としての武装)も含む自前の抑止力を増強または削減することを世界に向けて堂々と示せば良い。

13 もしも自分を愛しいものだと知るならば、自分を悪と結びつけてはならない。悪いことを実行する人が楽しみを得るということは容易ではないからである。

2010年4月13日火曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(24) (20100413)

 今日(12日)はまた急激に気温が下がった。昨日は夏日のようで半そでTシャツ姿の人もいたが、今日は冬日に戻ったようである。今年は春先の低温でキャベツなどの春野菜の値段が高騰した。10年に一度というが太陽の活動と関係があるのか、地球温暖化の影響なのか、科学者たちはいろいろ警告しているが人々はあまり深刻に考えていないようである。

 タイでタクシン派の赤シャツデモ隊とこれを排除しようとした警官隊とが衝突し、その様子を撮影しようとしていた共同通信社の日本人カメラマンが胸を撃たれて死亡した。どちらの弾が当たったのか真相はまだ解明されていない。そのカメラマンが死亡する前撮影していた映像が公開された。このカメラマンは防弾チョッキは着用していなかったという。ジャーナリストは危険な場所で取材するときは自分の身を護り、家族や同僚や政府関係者などに与える影響を局限するために必ず防弾チョッキを着用した方が良い。それにしても現地に駆け付けつた奥様やご家族の悲しみはいかばかりかと思う。

 今日、男は夕刻雨の中、近くの電気製品量販店に行き、デジカメ用のSDカードとデジカメ用のバッグを買った。SD カードは2GBのものにした。その理由は、テレビの画面で撮った写真を見るときテレビとデジカメをケーブルでつないでテレビの入力切り替えなど面倒な手順を踏まなくても、SDカードをテレビのポートに差し込むだけで簡単に写真を見ることができるようにするためである。

 その店からの帰る途中、スーパーストアに寄り、バナナひと房とオレンジ2個と納豆とヨーグルトと牛乳を買った。バナナはいつも買うフィリピン産の新鮮な‘熟れっ子’バナナである。出来るだけぐるっとした太いものを選んでかごにいれる。家に帰って女房に「どうだ。これはいいだろう?」と自慢する。

 ブッダの「感興のことば」には、なかなか実行が難しいことがある。以下はその一部である。しかし、これは真理である。修業僧はこれを実行しなければならない。われわれ凡夫は、その真理を理解することはできる。ブッダとなられたインドのシャークヤ族の王子は妃と息子・ラーフラや父王らの嘆き、慰留をふりきって、夜中にこっそり王城を出て修行の旅に出かけた。これはわれわれ凡夫には到底真似のできないことである。

5 愛するものと会うな。愛していないものとも会うな。愛するものを見ないのは苦しい。愛していないものを見るのも苦しい。
6 愛する人々と離れるが故に、また愛しない人々に会うが故に、激しく憂いが起きる。それによって人々は老いやつれてゆく。
7 時が来て、愛する人が死ぬと、親族知人が集まって来て、長い夜を徹して悲しむ。実に愛する者と会うことは苦しい。
8 それ故に、愛するものをつくってはならぬ。愛するものであるということはわざわいである。愛するものを憎むものも存在しない人々には、わずらいの絆(きずな)は存在しない。

2010年4月12日月曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(23) (20100412)

古代の日本について韓国の学者が書いた本が店頭に並んでいる。ページをめくってみると神武天皇はツングース人であったとか、継体天皇も含め古代の天皇は朝鮮半島の王であったとか書いてある。史実と推論を書き、古代に朝鮮半島南部にいた倭人は日本人ではなく伽耶国の人であるなど論証的に書かれている。本の題名も見る人を引き付け、本の内容も読者をして「そうかもしれない」と思わせる内容である。
20年以上も前だったか、万葉集の歌は古代朝鮮語で解読できるとすることを主張する本が出て、議論を巻き起こしたことがある。古代の日本語は百済語であった主張する本もある。
剣道は韓国が発祥であると世界に向け喧伝している話を聞いたことがある。韓国映画で出てくる剣道の稽古の様子は、面や稽古衣などの防具とともにわが国の剣道そっくりである。
私は明治維新後の皇国史観を肯定も否定もしない。しかし日本人が「自分は日本人である」という誇りを失ったら国は滅びると思う。深層心理学では「セルフ」という概念がある。文字どおり「セルフ」は、「自分が自分である」ということを自覚させる根本の概念である。
日本あるいは日本人という概念を一個の人に譬えれば、「セルフ」を自覚させるものは『古事記』や『日本書紀』などの歴史書に書かれている万世一系の天皇であり、個々の日本人の○○家と称される家々の宗家的存在である天皇家であり、日の丸の国旗であり、「君が代」の国歌であり、相撲や歌舞伎や狂言などの伝統芸能あり、2000年にわたり培われてきた日本人の文化や風習であり、神社・仏閣である。数え上げればきりがないほど沢山ある。
その天皇家の血筋には歴史書によれば朝鮮半島の王家の血も入っている。逆に天皇家から朝鮮の最後の王家に入った女性もいる。われわれ普通の家々でも先祖を辿って行けば朝鮮半島や中国からやってきた人々の血も混じり合っている。もともと大陸から切り離されているわが日本列島には大陸と陸続きで会った超古代から、北や南や西から人々がやってきて初めは住み分けしていたがそのうち混合し、混血し、今の日本人になったのである。
日本人は単一民族国家というよりは民族融合国家とでも称した方がよいほどである。しかも縄文人と渡来系弥生人の間で争いはなかったことが明らかになっている。大陸では支配者が変わるたびに大きな争いが起き、人民は争いのたび右往左往して逃げた。わが国にやってきた人々にはそのような人々が非常に多かった。しかし皆混血し日本人になった。7世紀に統一的な国家体制が確立されて以来このかた、日本人は仏教の思想を広め、和を以って尊しとなして今日まで歴史と文化を築いてきた。
日本人は古代からこのかたずっと伝統的に外国の先進文明・文化を取捨選択しながら吸収し、それを日本風に発展させてきた。日本の古代があたかも外国人により築かれたかの如く主張することに対しては、多くの日本人はあまり気にしないか哀れに思うだけであろう。
さてブッダ「感興のことば」第4章は38まであるが、第5章「愛するもの」に移る。
1 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。愛するものを離れたならば憂いは存在しない。どうして恐れることがあそうか?

2010年4月11日日曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(22) (20100411)

 男は放送大学に再入学して本当に16年ぶりに世田谷学習センターの図書館・視聴覚室に入ってみた。受付で学生証を渡し、その代わりに空いているブースの番号札を貰う。どのブースが空いているかはすぐ分かるようになっている。9番のブースの番号札を貰い、受講中の科目の講義を行っているものが録画されているビデオテープを収納ラックから探して、それを手にもち視聴覚室に入り、9番ブースの席に座る。

 第1学期は無理のないように、『生物界の変遷』と『分子生物学』の2科目だけを登録していた。多少わくわくしながらヘッドフォーンを頭にかぶり、ビデオテープを装置に装着する。両隣では来月には73歳になろうとする私よりずっと若い学生が静かに勉強している。この部屋の中では誰一人咳払いなど物音をたてる人はいない。

 画面から流れる映像で先生の講義を聴きながらノートをとる。図表などメモが追い付かず画面が変わってしまう場合はちょっと巻き戻して見る。自宅で勉強するよりはかなり集中して勉強ができる。2時間余り視聴し勉強して知的欲求が満たされ、すがすがしい気分になる。次回は女房と一緒にこの視聴覚室に来て、それぞれ専攻はべつなので科目は違うが一緒に勉強しようと思う。女房は以前から放送大学に再入学して好きな科目をとって勉強を続けている。放送大学は、どこでもいつでも学びたいときに学べるシステムであり、生涯勉強を続けたい者にとってこんな素晴らしい大学は他にないと思う。

 ずっと以前、この放送大学のスタジオがある施設、当時「メディア開発センター」と呼称していた施設を見学したことがある。幾つもあるスタジオで講義の録画をしている状況をガラス越しに見ることができた。とても素晴らしい施設であったという印象が脳裏にある。当時は関東圏に限られていたが、今やこの放送大学は全国規模になり、全国各地に学習センターがある。テレビとラジオで、お茶の間で放送大学の講義を視聴することができる。

 この放送大学の素晴らしさを出来るだけ多くの人々に知らせたいと思う。今の時代、かつて若い時に○○大学を出たからとて、自慢することはできない。過去に何を学び、今何を学んでいるかということが最も重要である。

 夫婦そろって放送大学で学んでいるということはとても素晴らしいことである。共通の価値観、共通の話題が深まる。旅行したときでも、同窓会などで故郷に帰ったときでも、学生証一つあればその地域の学習センターに立ち寄り、視聴覚室で勉強することも学生サロンで寛ぐこともできる。

 今の時代、自分の人生の目標が定まらずもがき苦しんでいる若者が多いが、そのような時には放送大学の門を叩き、知的な環境に自分自身を投入してみると良いと思う。夢窓疎石の『修学』にある「一日の学問千載の宝」である。(関連記事:2009年10月2日金曜日、「夢窓国師の作詞『修学』(20091002)」)

35 奮起(ふるいたて)せよ。なまけてはならぬ。善き行いのことわりを実行せよ。ことわりに従って行う人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。

2010年4月10日土曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(21) (20100410)

以前、放送大学で故柴田南雄先生の『音楽史と音楽論』及び『民族音楽』の2科目の講義を受けたことがある。印刷教材にはわが国では701年に大宝律令が制定された翌年、その律令の施行とともに「雅楽寮(うたまいのつかさ)」と称するわが国初の国立音楽舞踊学校が発足したことについて詳しく書かれている。先生の講義の録音テープは、見つければどこかにある筈である。
印刷教材には、そのわが国初の国立音楽舞踊学校は、唐の「教坊」の制度に拠ったもので、その規模は、長官以下管理職6名、教授37名、奏樂のための笛工(ふえふき)8名、雇人22名以上、生徒定数356名という大規模のものであったことが書かれている。当時の人口推定550万人から600万人との比率で今日と比較すると生徒数7000人ほどになる大規模な学校であった。そこで教えられていた教科は、和樂、唐樂、三韓樂、伎樂の4科であった。こうち和樂とは、神楽や風俗歌など当時日本風に成り立っていた音楽であろうという。
時代が要求する音楽の変化に応じて732年には渡羅樂(今日のタイ南部の音楽らしい)が最大の学科になり、736年に林邑(りんゆう)樂(林邑はベトナムであるが、僧仏哲が持ち帰ったインドの音楽)が809年に新たな学科として加わったという。教授陣には唐や三韓からやってきた外国人たちがいたであろう。天平時代、天皇が中心的指導者となって当時の先進国であった唐の文化を吸収しながらわが国の文化発展のため努力していたのである。
今朝(9日)の読売新聞で、西大寺旧境内で唐人音楽家の名前が墨書されている須惠器が見つかったことが報じられている。その音楽家とは皇甫東朝(こうほとうちょう)といい、天皇に仕え、従五位下の官位を与えられ、当時の国立音楽舞踊学校である雅樂寮の次官に任命されている。長官は貴族で今日の大臣であるが、次官は今日の事務次官、つまり官僚のトップに相当する。この事実が『続日本紀』の称徳天皇の神護景雲元年(767年)3月20日の条に出ている。皇甫東朝には日本で結婚した日本の女性も居り、子供も居たことであろう。『続日本紀』を読むと、新羅などから多くの人々がわが国に帰化し、氏姓を与えられていたことが書かれている。
ちなみに、称徳天皇はわが国初の女性天皇であり、藤原不比等の三女(不比等の側室となった県犬養東人の娘・橘三千代と不比等との間に出来た娘で、後の聖武天皇の皇后となった光明子)と聖武天皇の間に出来た娘であったが、聖武天皇には男子の子供ができなかったので皇太子となり、孝謙天皇となり、後に重祚して称徳天皇となられた方である。孝謙天皇(称徳天皇)は、父方が天皇家で母方が藤原鎌足の孫である。その後、天智天皇系の光仁天皇が後を継ぎ、以降男系天皇が続く。さて、ブッダのことば(続き)

25 なすべきことに努めはげむことを賢者はつねにほめたたえる。つとめはげむ賢い人は、(次に挙げる)二つのことがらを極めてよく把捉している。
26 一つは現世に関することがらであり、他の一つは来世に関することがらである。思慮ある人は、事がらを見きわめてさとるから、(賢明な人)と呼ばれるのである。

2010年4月9日金曜日



ブッダ『感興のことば』を学ぶ(20) (20100409)

 読売新聞の8日付夕刊に『こころ』と題する健康のページがあり、そこに『「仏道式」心の鍛え方』という記事が出ている。書かれている要点を整理すると次のとおりである。
先ず、私たちの「考え」は自分の意思だけで生みだされているのではないということである。私たちの「考え」は自分の脳の勝手な暴走による場合が多いということである。それゆえ、余計な考えを挟まずに現実をありのままに見つめ、目の前のやるべきことをやることが重要であるということである。

 そこでお勧めなのが、余計な一切のことを考えず、ただ自分が呼吸することだけに意識を集中させる練習をすることである。

 その方法とは次のようである。呼吸を鼻で行い、自然に任せる。空気が鼻から入り、のど、気管を通って肺に達し、おなかが膨らむ感覚を丁寧に意識する。吐くときはその逆の方向で観察する。それを繰り返す。この練習を続けると次第に集中力が高まり、身体の感覚が研ぎ澄まされるようになる。

 上達すれば自分の心の微妙な変化や、過去のつらい記憶や感情までをも冷静に観察できるようになるという。自分の感情の変化に気づけば、その都度「怒り、怒り」「欲」「欲」などと念じて自分自身を客観視する。

 この自分の呼吸への集中法は、姿勢さえ正せば家事の合間や通勤電車の車内でも出来る。そのようにして過去の後悔や未来への不安は考えず、「今」をしっかり味わうようにする。以上が「仏道式」心の鍛え方である。

 以前このブログで「腹式呼吸」と「爪もみ」について書いたことがある。(2010年2月8日月曜日、ブッダ「真理のことば」を学ぶ(17)(20100208)参照。)8日付夕刊の記事では呼吸は鼻で行うように書かれているが、より効果を上げるためには腹式呼吸法の方が良いのではないかと思う。腹式呼吸法を行いながら自分自身の呼吸を良く観察し、一切の雑念を排除するのである。このような練習を積むうちに自分の体調も回復し、体中に気力が漲るようになる。勿論、ストレスも解消し、もしうつ病や不安障害など病気も治ると思う。
昨日に続いて『ブッダ感興のことば』第4章「はげみ」;
9 世俗的であっても、すぐれた正しい見解をもっているならば、その人は千の生涯を経ても、地獄に堕ちることはない。
11 叡智の無い愚かな人々は放逸(わがまま)の状態をつづけている。つとめはげむ人は、常に瞑想し、汚(けが)れの消滅を達成する。
18 愚かな者は、法(のり)から逸脱して、なしてはならぬことを実行して、死魔の支配に屈し、車軸を毀したように悲しむ。
33 起てよ。つとめよ。平安を得るために。ひたすらに学べ。心が落ち着かないこと、放逸、奮起しないこと、わが身を制しないこと、

2010年4月8日木曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(19) (20100408)

「犯罪加害者・家族たちの告白」という番組を観た。犯罪被害者の権利については、被害者たちの運動が世論を動かしてかなり状況が変わったが、加害者の家族のことは無視されてきた。犯罪者を出したのはその家族や会社などにも原因があるとして、世間では冷たく扱われてきた。かくいう私自身もつい最近まで、犯罪者出した家族に対して冷たい視線を向けていた。子供が人を殺したりするのは親の教育が悪かったからだと思っていた。

ところが、Newton『知りたい!遺伝のしくみ』を読んでそのような考え方は間違っているのではないかと思うようになった。その本には『オランダの家系から、攻撃性と遺伝子の関係がみつかった』という題で、遺伝子と関係が明らかにされた性格の一つに「攻撃性」があることが説明されている。オランダの遺伝学者ハン・ブルナー博士は、放火やレイプ、露出癖などといった衝動的な行動や攻撃的な行動をとる人が多くいる家系について遺伝子を調べてみたら、その家系の中には「MAOA(モアアミン酸化酵素A)」というタンパク質をつくる遺伝子に異常があり、MAOAを全く作れない複数の男性がいたという。

MAOAはセニトロンやドーパミンなどの神経伝達物質を酸化する作用を持つ。酸化された神経伝達物質は機能を失いニューロンの外に排出されるという。このMAOAをつくることが出来ない男性は全員が攻撃的な性格であったという。ハン・ブルナー博士が調査した家系の図の一部が示されているが、保因者の女性の子孫30人中MAOAを全く作れない男性は7人で、その家系全体では14人いるという。その全員が攻撃的な性格であるという。

現代の社会では人々の移動が激しい。国際結婚も多い。移住先で結婚し子供をつくる。そのようにしていろいろな遺伝子が拡散してゆく。ごく普通の家庭であっても家族の性格や知能や病気も様々な遺伝子によって家族の中にいろいろなものが混じっているようになる。顔つきはメンデルの法則により親の顔つきに似るが、性格や知能や病気などは必ずしも親のそれとは似ていないことが多いだろうと思う。自分の子供の中にどういうわけかMAOAを全く作れない子がいる可能性は幾世代も経るうちに増えくる可能性はある。つまり、ごく普通の中流の家庭であっても、家族の中に博士になったり政治家になったりする者がいる一方で、ある日突然殺人の罪を犯す者が現れないとも限らない。家庭や学校での教育が如何によく行われていたとしても、そのような遺伝子を持って生れた子供が成長し、社会に出ていろいろな葛藤の中で揉まれて行くうちに、何かのきっかけで罪を犯してしまう。そのような不幸が、ごく普通の家庭で起きる可能性は今後増えて行く可能性があるのだ。そのような不幸を未然に防ぐためには、継続的な生涯学習や社会教育が必要であると思う。


ブッダは次のことばのとおり、「流転輪廻」「母の胎内に入る」と語っておられる。
12 男は愛執を妻として、長夜に臥す。ひそむ妄執のゆえにくりかえし輪廻流転して、くりかえし母の胎内に入る。このような状態、それとは異なった状態というふうに、輪廻のうちに行きつ戻りつする。

2010年4月7日水曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(18) (20100407)

人は袖触れ合うごく僅かの限られた人だけにしか愛を示すことはできない。そのほかの不特定多数の人に対しては、自分の意識を拡大して喜怒哀楽の感情を共有するだけである。例えばハイチ大地震の被害者に対して、同情の気持ちを持つことができ、幾ばくかの義捐金の寄付を申し出ることはできるが、自分自身が現場に居ない限り、現地の被災者を直接愛することはできない。つまり感情が直接伝わらない。
そのことに限れば、それは普遍的宗教の開祖となった釈尊でもイエスキリストでも同じである。釈尊の場合もイエスキリストの場合も弟子たちが師の教えを聞き、師の実践を直接観てそのことを記録し、弟子たちが集って師の教えを整理し、記録し、教えを広めたからそれぞれの普遍的宗教になったのである。誰でも人は直接触れ合う人たちしにか、直接愛の行為を示すことができないのである。
自分にとって一番身近な人は家族である。夫であり妻であり、親であり、子供であり、兄弟姉妹である。その一番身近な人を失ったとき、人は悲しみ、悔やみ、嘆く。しかし、そのときまで一番身近な人に、自分でできることをしてその人を喜ばせてきたならば、その悲しみや悔やみや嘆きは少ないであろう。妻として、母親として、ある程度は身を削る思いをしながらも、まあせいぜい8割ぐらいの出来であれば、夫や子供に対する自責の念を抱く必要はないと思う。誰でも完璧にはできないと思うからである。
今まで何をして来たのだろう、これまで自分がしてきたことは何だったのだろう、と自らを責める必要はない。悩み、苦しみながらその対象の人に尽くしてきたならば、それで十分である。その人が逝ってしまってこれからどう生きて行こうかと考えるとき、これまで関わってきたものをすべて捨て去って再出発しようなどと思わない方が利口である。そのようにして捨て去ろうとした対象の人は「何故?自分は何か不都合なことをしただろうか?」と戸惑うだろう。戸惑わせることはまた自分自身の苦悩の種になるだけである。
ものごとに執着せず、無の精神になって、宇宙と一体となって動く、そのような状態になれば、人は誰でも幸せになることができるのではないだろうか?己にぶつかってくる‘気’のような目に見えない力を感じ取り、それに逆らわず、己のすべて、手足や関節にいたるすべてが丸く、丸く、円を描くように自然の動きに合わせて回り、曲がる。そのように気をあわせて無理なく自然に回り、曲がることができれば、ものごとは上手く運ぶであろう。さりとて一応は、己の‘気’の力を示しておかなければ相手は己を侮るに違いない。
後は、「去るものを追わず、来る者を拒まず。」日々悠々と己の最期まで生きるのみである。
ブッダ「感興のことば」第3章に移る。
1 あれこれ考えて心が乱され、愛欲が激しいのに、愛欲を浄らかだと見なす人には、愛執がますます増大する。この人は実に束縛の絆(きずな)を堅固ならしめる。
2 人の快楽ははびこるもので、また愛執で潤(うるお)される。実に人々は歓楽にふけり、楽しみをもとめて、生れと老衰を受ける。

2010年4月6日火曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(17) (20100406)

ミツバチの社会は、女王ハチ、働きハチ、雄ハチから成るという。働きハチは皆雌である。雄ハチは外出して女王ハチとなる雌を探し、その雌を巡って戦い、戦いに勝ったものが交尾し、交尾を遂げたら死ぬ。しかもその雌は何度も交尾し、そのたびに雄ハチは死んでゆく。それ以外の役立たずの雄ハチは巣から追い出されてしまうという。女王ハチの食物はロイヤルゼリーだけであり、そのおかげで6年間ぐらい長生きするが、その他の雌である働きハチは蜂蜜と花粉だけだそうである。その寿命は1年であるという。

アリの社会では、多くのアリたちの場合、女王アリ、働きアリ、兵隊アリ、雄アリの他、処女女王アリがいるという。ミツバチの場合、侵入者に対しては働きハチがその排除のため戦うのであろうが、アリの社会では兵隊アリというものがいるらしい。

人間の社会では、兵隊アリの役割を軍や警察などが担っている。国と国の間で緊張が走るのは、その軍が外に向かって何か行動を起こす場合である。軍は政府によってコントロールされているが、政府はいちいち細かいところまではコントロールできないし、しない。例えば領海・領空すれすれに行動したり、時には相手の国の警戒範囲内に侵入して相手の出方を探ったりする行動を、その都度コントロールしてはいない。

これを人間の身体に譬えれば、人間の行為について頭脳が判断して行動を起こす場合と、手足が無意識に動く場合があるが、後者の場合、条件反射的に動くものである。条件反射といってもその反射行為が無意識にできるようになるまで訓練が必要である。

軍は条件反射的に行動するように訓練されている。哨戒活動も偵察行動として行う領空・領海侵犯活動も、みなそのような訓練に基づき行われる。

わが国は中国と友好関係にある。その友好を一層深めようとお互いの政府レベルでは真剣な努力が続けられている。軍(わが国は自衛隊)同士でも親善のための交流は続けられている。その一方で、相手に警戒心を起こさせるような軍事行動を続けている。それが現実の世界である。口先だけの善隣友好では、相手から尊重も尊敬もされないのだ。そのことを分かっていない人たちが声を大にして「平和」「平和」と叫ぶ。マスコミはその運動を過大評価して、「○○に何万人の市民が集った。」と報道する。無知な大衆はその報道に扇動される。そこが似非平和主義者たちの付け目である。

わが陸軍(陸上自衛隊)は、中国の脅威に対処し、中国軍の進出を抑止するため、沖縄に一個旅団を新編した。もし沖縄からアメリカ海軍が撤退したならば、わが国は独力でその軍事的空白を埋めなければならない。防衛省はこの一市井の老人の憂いを払拭してくれるように努力していると思う。たとえ政府の中枢がボンクラ頭になったとしても、国の背骨としての軍(自衛隊)は、しっかりやってくれていると思う。

「ブッダ感興のことば」第2章を続ける。
16 愚人は享楽のために害される。しかしこの世で自己を求める人々は害されない。享楽を妄執するがゆえに、愚者は他人をも自分をも害う。

2010年4月5日月曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(16) (20100405)

 ある本を読んで愛と憎しみについて考えてみた。愛も憎しみもその感情の本は同じではないかと思う。それは『仏教要語の基礎知識』(水野弘元著、春秋社)によれば、「渇愛」、サンスクリット語で「タンハー」というものであり、渇者が水を求めるような激しい欲求である。「認識によって苦楽等の感受が生ずると、苦受のものに対しては、これを憎み避けようとする強い欲求を生じ、楽受を与えるものに対してはこれを愛し求めようとする熱望を生じる。これらの強い欲求や熱望が愛である。」とある。

 インターネットで調べてみた。「第67回 老年学公開講座  脳内物質ドーパミンのはたらき」(財団法人東京都老人総合研究所自律神経部門研究室長 青崎敏彦)が見つかった。そのほか、ドーパミンに関する情報が幾つか公開されている。

 動物は、「快」「不快」の刺激によって訓練される。あらゆる生き物は快い刺激がある方に向かって動き、不快な刺激がある方を避けようとする。人間でも同じである。快い刺激があると脳内でドーパミンが放出され、快感となるらしい。

 人は、歩んできた人生で学んだり経験したりして学習してきたことを通じて、何が「快」であり何が「不快」でるかを無意識に知っていて行動するから、動物たちとは少し違う。しかし、動物たちも人間に訓練されて学習し、「快」が得られることをする。

 渇愛は人間特有の行動の大本である。男女の間の愛に関する言動は、彼または彼女のそれまでの学習に左右される。自制心が強く働く人は、自らの渇愛を抑制することができる。

 一般に男性は社会とのかかわりが女性よりも大きい。その分、男性の心的世界は女性のそれよりも広い。男性の心的世界にはいろいろな女性が存在している。しかし女性の心的世界の中では彼だけが存在し、その他の男性は存在していない。男性の目が外に向いていることが相手の女性にとって不満である。彼女は彼の心的世界のすべてを独占したいと無意識に願望している。男女の間の諍いの根本原因はそこにあると思う。

 男女の争いでは、男性は激しく不満を訴える相手の女性をそれ以上怒らせないように心配りをするが、女性は相手のそのような心配りを理解しようともせず、言いたいことを徹底的に言ってしまう。そしてようやく自分の感情が収まる。寅さんではないが、「男はつらいよ」である。寅さんは放浪の旅をして自らの心を癒そうとし、傷つく。

 夫婦の間では、夫は外で疲れたときは、その疲れを家の中に持ち込まないようにするのが一番良い。帰宅前に何処か赤ちょうちんで一杯やり、上機嫌で帰って来るのが一番よい。家の中にいる場合でも、夫は自分の部屋から出て居間に行くときは、先ず自分のほっぺたを叩き、口を横に開いて何度も作り笑顔をつくり、気分を切り替えて上機嫌なふりをして顔を出すようにするのが良い。それがストレスならば、部屋の中にいつもウイスキーのボトルを置いておき、一杯ひっかけて出て行くようにするのがよい。

14 欲望によっては満足することがないから、明らかな智慧をもって満足する方が勝(すぐ)れている。明らかな智慧をもって満足した人を、愛欲が支配することはできない。

2010年4月4日日曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(15) (20100404)

若林・元農相が「魔がさして」隣の席の隣席の青木氏がちょっと席をはずしていたとき、10回も投票ボタンを押したとして大問題になっている。若林氏は7月25日に任期切れで参院選には出馬せずご子息が立候補することになっているという。そのため2日付で辞職する。本来ならば辞職させられるべき不祥事である。
一方で、先般の自民党議員総会で現執行部は顔ぶれを変えず、選対本部に若手を起用して夏の参院選を戦うという。しかし、平沼氏に引き続き与謝野氏、園田氏がそれぞれ新党を立ち上げると表明した。桝添氏の動向が注目されている。自民党は最早がたがたである。なぜそこまで衰退してしまったのか。彼らには全く反省がない。
官僚がすべて悪いわけではないが、早期退職後の生活のため彼らは何かと理由づけて公益法人をつくってきた。それに国会議員の秘書だった者などが悪乗りし、公益法人の業務の実務を関連企業からの出向社員らに行わせるような会社をつくったりしていた。その会社の人権費には、それら出向社員の給与等は含まれない。お互い持ちつ持たれつ甘い汁を吸い合っている。公益法人には官僚が天下りし、実務を担当する会社の社長もその法人の役員を兼務し、実務担当者の身分も巧妙に交差し、全体として大きな組織が出来ている。
そういう仕組みを許してきたのが自民党である。否、許さざるを得なかったのかもしれない。一般民間企業であれば定年も60歳、65歳であり、定年後も能力次第では働く場所があるが、高級官僚では40代で早期退官せざるを得なかった仕組みがある。自衛官も階級が下がるにつれ齢若くして退役させられる。老兵は戦場で役に立たないのだ。しかし年齢ゆえに戦場で役立たずとなった老兵たちには第二の人生を歩むための援護システムが準備されている。新しい職場でその職場の経営者の理解のもと、年間一定の訓練を義務付けられる予備役として、有事には老兵でも何かの役に立たせる仕組みがある。
しかし有能な高級官僚たちには、国として公式に退官後の面倒を見る仕組みができていない。この国家は有能な官僚たちがしっかりしなければ存続できない。喜色満面に「官僚たたき」をしてきた連中は、今大いに反省している筈である。しかし、自民党は何をしてきたのか?自民党が出来なかったことを現政権はやろうとしていて、少しずつ成果を上げているということは、多くの国民に認識されていることである。
新たに立ちあがる政党は、国の為、今何を反省し、どのように国を導いてゆくのかという理念を掲げて国民に信を問うべきである。反省が足りない!徹底的に自己反省して欲しい。その自己反省の言葉を聞きたい。鳩山氏も普天間の問題で、真摯な態度で反省すれば、皆納得するだろう。沖縄の航空管制は米軍から国土交通省に移管された。ホワイトビーチ沖に航空自衛隊を含む軍事施設をつくり、那覇空港は純粋の民間空港にし、極東唯一の巨大カジノパークをつくって沖縄での雇用を増やせば、皆喜ぶ筈である。
10 聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、鍛冶工が銀の汚れを除くように。

2010年4月3日土曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(14) (20100403)

今日は午前中風が強い。前線が通過している。予報では午後になると風は止むという。桜も満開になろうとしている時、花弁も散ってしまうだろう。
朝、まだ風雨がない時だったが生ごみなどを出す。毎週月曜日と金曜日は生ごみなどを出す日である。マンションのすぐ前の歩道にカラスの被害を防ぐ目的で折り畳み式の緑の網のゴミ入れが置かれている。それは既に箱状にセットされていて、幾つかのゴミ袋が放り込まれている。ふたを揚げてゴミを入れる。後ろで近所のOさんが出勤前にゴミ袋を持って立っている。ふたを上に揚げたまま「どうぞ。」と言う。Oさんは持っていたゴミ袋を入れながら「ありがとうございます。」と笑顔で礼を言う。
Oさんは年金生活者を支える現役世代である。「行ってらっしゃい。」と言いながら、心の中で「ありがとう。」を言う。自分もかつて年金生活者を支える側であった。その時は今の自分を想像もしていなかった。多分Oさんも同じだろう。しかし、Oさんたちが頑張って働いていないと、今の自分たちは安心して暮らして行けないのだ。心から有難うと思う。
こうして日本では国民皆保険制度のもと、人々が安心して暮らして行ける社会になっている。もう国民年金保険料も収め終わっているので自分たちには直接関係がないが、今年から現役世代の保険料が上がる。増え続ける高齢者を支えるため、現役世代の負担が増えてきている。斯く言うわが息子たちもこの親父世代のため負担が増えてきている。一方で子ども手当などによる収入もあるだろうが全体として負担が増えている。年寄り、特に腰を曲げ、O脚の小さい婆さんが多い。年寄りも消費税で負担をしなければならないと思う。
子供たちのため、彼らがまだ学生で20歳になったときから、彼らの将来のため国民年金保険料を払っていた。当時相当な金額だった。家計のことは一切女房に任せきりで、親父として息子たちに毎月3万円から3万5千円の小遣いを渡していた。女房は、働いている夫を第一に思い、一言も愚痴をこぼさなかったが、今になって「あの頃はとても大変だった。家のローンも払わなければならなかったし、やりくりが大変だった。」と言う。
それでも女房も一時期専業主婦で表千家の師匠にお茶を習い、1枚の着物を買ったり、少しの茶道具を買ったりして多少は良い思いもした。それが自分にとって多少の救いである。もし、そのような思いもさせてあげられなかたったら、今の自分はもっと自分を責めているだろう。ただ、その数年後彼女がホームヘルパーとして多少収入を得るようになった。全面的に自分が彼女にしてあげて来たわけではない。自分が彼女に何をしてやり、自分は彼女から何をして貰ってきたか、良く考えてみるとやはり自責の念は残る。世の男たちは皆、多かれ少なかれそのような気持ちがあるのかもしれない。詩吟『青の洞門』の今様の部分の吟詠には、その思いを込めた。「罪を重ねし償いに立てし悲願の奉仕行・・」である。
7 世間における種々の美麗なるものが欲望なのではない。欲望は、人間の思いと欲情なのである。世間における種々の美麗なるものはそのままいつも存続している。しかし思慮ある人々はそれらに対する欲望を制してみちびくのである。

2010年4月2日金曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(13) (20100402)

 昨日の民主・自民党首討論のことをテレ朝で評価していた。大方の意見は、「もっと建設的なことで議論して欲しかった。激しくぶっつかりあうだけなら私(女性)でもできる。」というものであった。

 公党のトップは自ら役者として周囲の様々なアドバイスを一応は聞くが、最後は自分自身で決め、その決めたとおりに舞台の上で演技をしなければならないのだ。結局は2500年も前に釈尊が言っておられるように、自分自身を洲として、自分自身を拠りどころとして、孤独に耐えながら自らの言葉を発し、自らの責任で行動しなければならないのだ。その結果は自分自身で責任をとらなければならないのだ。しかしこれは「和を以って尊しと為す」われわれ日本人にとって最も苦手な部分なのかもしれない。

 しかし結果の善し悪しは別として、戦国武将織田信長は違っていた。彼の子孫・織田信成はまだ賞は取っていないが冬季オリンピックで活躍している。織田信長は遺伝子的にはアメリカ人の約半数の遺伝子と同じものを持っていたのかもしれない。

 ドーパミン4型受容体DRD4遺伝子の繰り返し回数は、日本人の殆どが4回であるのに対しアメリカ人の約半数は7回であるという。日本人で7回の人は殆どいないという。7回の人は好奇心が旺盛で新しもの好きである性格であるという。結果の良し悪しは別として、好奇心が旺盛で新しもの好きでないと革新的なリーダーにはなれないのだと思う。このDRD4遺伝子は「はじめて発見された性格遺伝子」として世界中の研究者の注目を集めているという。(Newton別冊『知りたい!遺伝子のしくみ』より引用。)

 昨日、把瑠都が大関に昇進した。彼の奥さんは年上のロシア人という。和服姿でテレビの前に出た。彼が横綱になり、将来親方としてやってゆくためには、日本の国籍をとらなければならない。彼が将来その道を選ぶかどうかは分からない。故国エストニアで、父親が早世したので母親が女手一つで育て上げた3人の子供の一人、二男が把瑠都である。日本人の横綱がいないのは淋しいが、彼は立派な横綱になるだろう。

 把瑠都の子供はエストニア人とロシア人の混血となる。われわれ日本人の祖先は北方、西方、南方からこの列島に渡ってこいた人々の混血である。日本人の血液の型には、チベット人にしかない要素も混じっているという。ごく僅かであるがヨーロッパ人の血液の型も、また戦後はアフリカ系の人の血液の型も混じるようになっている。長い年月の間には遺伝子の拡散が進み、日本全国でいろいろな顔つきの人が現れるようになるだろう。しかし、内気という日本人の性格は変わることがなく、調和を保ちながら前進する従来の方向性は変わることはないだろう。過去の反省をもとに、われわれ日本国民は、日本丸という船の乗客として、優れた船長と高級士官を選ぶようにしなければならないならない。

 中国で麻薬密輸で逮捕された日本人が初めて死刑になる。5日ごろ執行されるという。

3 快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば、憂いは生じない。どうして恐れることがあろうか?

2010年4月1日木曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(12) (20100401)

 天気予報で今日は曇り空であるが気温は上がるということであった。男は自分自身では何処に出かけようかというアイデアはなく、いつも先ず、女房が行ってみたいところを決めていて、其処に一緒に行くというスタイルである。ぬれ落ち葉みたいなものである。今日は、わが家からそう遠くないところであるが、これまで一度も行ったことがなかった「こどもの国公園」に行ってみた。その目的は椿と桜の花を観るためである。

 長津田からこどもの国線という鉄道があって終点で下車すると目の前が公園入り口である。電車の中は子供を連れた若い母親が多い。公園の入場料は大人600円である。こどもばかりの公園に入るのに爺さんと婆さんだけで入るのはどうかと躊躇していたが、平日なので65歳以上の者は300円であった。「年寄りは子供」と、喜んで中に入った。

 公園内を歩いてみて、この公園は本当によくデザインされている、花々の配置も非常によい、相当なプロが設計したものであろう、と思った。椿は花満開の時期は過ぎていたが、かなり起伏のある場所に非常に多くの品種の椿が、かなり広い面積に配置され植えられていた。もう少し早い時期に来れば見事であっただろうと思う。中央の広場の片側はしだれ桜が沢山植えられていて、紅や白の配置がなかなか良い。まだ5歩咲きぐらいであったが見事である。椿の森の起伏が多い小道をゆっくり歩いて殆どすべてを観終わって、桜の森の方に行く。小高い所から見下ろすと絶景である。桜は今週末満開であろう。

 今日は平日なので人が少ない。椿の森や桜の景色を楽しめる場所では子供連れは少ない。この桜が満開で、紺碧の空に映える風景を想像しながら歩いていると鶯の啼き声が聞こえた。今年初めて鶯の声を聞いた。しかしその姿は確認できなかった。去年は京都嵐山の天竜寺で鶯の姿を観ることができたが、鶯は、啼く声はすれどもその姿はなかなか見つけにくい。

 この公園の草木や花々のメンテナンスは職員とボランティアが、勿論専門の業者も使って行っているのであろうが、それらの配置は大変素晴らしい。おそらく相当な力量があるデザイナーが設計したものであろう。全体の構造・構成はもとより、モクレンの白い花をつける木々の間にピンクの桜があったり、白いユキヤナギの脇に黄色いレンギョウがあったり、里山風の場所に里山の草々に囲まれて黄色い菜の花の茂みがあったり、スイセンも黄色や白や、黄色と白のコンビネーションのものがうまく配置されていたりする。

もともとこの公園は皇太子ご成婚のとき集まった寄付で造られたものだそうである。横浜市と東京都町田市にまたがる場所に、土地所有者の協力でできたものという。池あり滑るところあり、足漕ぎのボートを浮かべる広い池あり、子供たちがのびのびと遊べるようによく工夫されている。今日は平日ながら沢山の母子連れが多かった。母親同士が話に夢中になったためか、3歳とか4歳の迷い児が続出していてしきりにアナウンスされていた。
ある野球解説者の不倫が話題になっている。堕胎させたという。欲情は誰にでもある。

2 欲情から憂いが生じ、欲情から恐れが生じる。欲情を離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか。