2010年4月7日水曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(18) (20100407)

人は袖触れ合うごく僅かの限られた人だけにしか愛を示すことはできない。そのほかの不特定多数の人に対しては、自分の意識を拡大して喜怒哀楽の感情を共有するだけである。例えばハイチ大地震の被害者に対して、同情の気持ちを持つことができ、幾ばくかの義捐金の寄付を申し出ることはできるが、自分自身が現場に居ない限り、現地の被災者を直接愛することはできない。つまり感情が直接伝わらない。
そのことに限れば、それは普遍的宗教の開祖となった釈尊でもイエスキリストでも同じである。釈尊の場合もイエスキリストの場合も弟子たちが師の教えを聞き、師の実践を直接観てそのことを記録し、弟子たちが集って師の教えを整理し、記録し、教えを広めたからそれぞれの普遍的宗教になったのである。誰でも人は直接触れ合う人たちしにか、直接愛の行為を示すことができないのである。
自分にとって一番身近な人は家族である。夫であり妻であり、親であり、子供であり、兄弟姉妹である。その一番身近な人を失ったとき、人は悲しみ、悔やみ、嘆く。しかし、そのときまで一番身近な人に、自分でできることをしてその人を喜ばせてきたならば、その悲しみや悔やみや嘆きは少ないであろう。妻として、母親として、ある程度は身を削る思いをしながらも、まあせいぜい8割ぐらいの出来であれば、夫や子供に対する自責の念を抱く必要はないと思う。誰でも完璧にはできないと思うからである。
今まで何をして来たのだろう、これまで自分がしてきたことは何だったのだろう、と自らを責める必要はない。悩み、苦しみながらその対象の人に尽くしてきたならば、それで十分である。その人が逝ってしまってこれからどう生きて行こうかと考えるとき、これまで関わってきたものをすべて捨て去って再出発しようなどと思わない方が利口である。そのようにして捨て去ろうとした対象の人は「何故?自分は何か不都合なことをしただろうか?」と戸惑うだろう。戸惑わせることはまた自分自身の苦悩の種になるだけである。
ものごとに執着せず、無の精神になって、宇宙と一体となって動く、そのような状態になれば、人は誰でも幸せになることができるのではないだろうか?己にぶつかってくる‘気’のような目に見えない力を感じ取り、それに逆らわず、己のすべて、手足や関節にいたるすべてが丸く、丸く、円を描くように自然の動きに合わせて回り、曲がる。そのように気をあわせて無理なく自然に回り、曲がることができれば、ものごとは上手く運ぶであろう。さりとて一応は、己の‘気’の力を示しておかなければ相手は己を侮るに違いない。
後は、「去るものを追わず、来る者を拒まず。」日々悠々と己の最期まで生きるのみである。
ブッダ「感興のことば」第3章に移る。
1 あれこれ考えて心が乱され、愛欲が激しいのに、愛欲を浄らかだと見なす人には、愛執がますます増大する。この人は実に束縛の絆(きずな)を堅固ならしめる。
2 人の快楽ははびこるもので、また愛執で潤(うるお)される。実に人々は歓楽にふけり、楽しみをもとめて、生れと老衰を受ける。

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