2010年4月3日土曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(14) (20100403)

今日は午前中風が強い。前線が通過している。予報では午後になると風は止むという。桜も満開になろうとしている時、花弁も散ってしまうだろう。
朝、まだ風雨がない時だったが生ごみなどを出す。毎週月曜日と金曜日は生ごみなどを出す日である。マンションのすぐ前の歩道にカラスの被害を防ぐ目的で折り畳み式の緑の網のゴミ入れが置かれている。それは既に箱状にセットされていて、幾つかのゴミ袋が放り込まれている。ふたを揚げてゴミを入れる。後ろで近所のOさんが出勤前にゴミ袋を持って立っている。ふたを上に揚げたまま「どうぞ。」と言う。Oさんは持っていたゴミ袋を入れながら「ありがとうございます。」と笑顔で礼を言う。
Oさんは年金生活者を支える現役世代である。「行ってらっしゃい。」と言いながら、心の中で「ありがとう。」を言う。自分もかつて年金生活者を支える側であった。その時は今の自分を想像もしていなかった。多分Oさんも同じだろう。しかし、Oさんたちが頑張って働いていないと、今の自分たちは安心して暮らして行けないのだ。心から有難うと思う。
こうして日本では国民皆保険制度のもと、人々が安心して暮らして行ける社会になっている。もう国民年金保険料も収め終わっているので自分たちには直接関係がないが、今年から現役世代の保険料が上がる。増え続ける高齢者を支えるため、現役世代の負担が増えてきている。斯く言うわが息子たちもこの親父世代のため負担が増えてきている。一方で子ども手当などによる収入もあるだろうが全体として負担が増えている。年寄り、特に腰を曲げ、O脚の小さい婆さんが多い。年寄りも消費税で負担をしなければならないと思う。
子供たちのため、彼らがまだ学生で20歳になったときから、彼らの将来のため国民年金保険料を払っていた。当時相当な金額だった。家計のことは一切女房に任せきりで、親父として息子たちに毎月3万円から35千円の小遣いを渡していた。女房は、働いている夫を第一に思い、一言も愚痴をこぼさなかったが、今になって「あの頃はとても大変だった。家のローンも払わなければならなかったし、やりくりが大変だった。」と言う。
それでも女房も一時期専業主婦で表千家の師匠にお茶を習い、1枚の着物を買ったり、少しの茶道具を買ったりして多少は良い思いもした。それが自分にとって多少の救いである。もし、そのような思いもさせてあげられなかたったら、今の自分はもっと自分を責めているだろう。ただ、その数年後彼女がホームヘルパーとして多少収入を得るようになった。全面的に自分が彼女にしてあげて来たわけではない。自分が彼女に何をしてやり、自分は彼女から何をして貰ってきたか、良く考えてみるとやはり自責の念は残る。世の男たちは皆、多かれ少なかれそのような気持ちがあるのかもしれない。詩吟『青の洞門』の今様の部分の吟詠には、その思いを込めた。「罪を重ねし償いに立てし悲願の奉仕行・・」である。
7 世間における種々の美麗なるものが欲望なのではない。欲望は、人間の思いと欲情なのである。世間における種々の美麗なるものはそのままいつも存続している。しかし思慮ある人々はそれらに対する欲望を制してみちびくのである。

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