2010年4月10日土曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(21) (20100410)

以前、放送大学で故柴田南雄先生の『音楽史と音楽論』及び『民族音楽』の2科目の講義を受けたことがある。印刷教材にはわが国では701年に大宝律令が制定された翌年、その律令の施行とともに「雅楽寮(うたまいのつかさ)」と称するわが国初の国立音楽舞踊学校が発足したことについて詳しく書かれている。先生の講義の録音テープは、見つければどこかにある筈である。
印刷教材には、そのわが国初の国立音楽舞踊学校は、唐の「教坊」の制度に拠ったもので、その規模は、長官以下管理職6名、教授37名、奏樂のための笛工(ふえふき)8名、雇人22名以上、生徒定数356名という大規模のものであったことが書かれている。当時の人口推定550万人から600万人との比率で今日と比較すると生徒数7000人ほどになる大規模な学校であった。そこで教えられていた教科は、和樂、唐樂、三韓樂、伎樂の4科であった。こうち和樂とは、神楽や風俗歌など当時日本風に成り立っていた音楽であろうという。
時代が要求する音楽の変化に応じて732年には渡羅樂(今日のタイ南部の音楽らしい)が最大の学科になり、736年に林邑(りんゆう)樂(林邑はベトナムであるが、僧仏哲が持ち帰ったインドの音楽)が809年に新たな学科として加わったという。教授陣には唐や三韓からやってきた外国人たちがいたであろう。天平時代、天皇が中心的指導者となって当時の先進国であった唐の文化を吸収しながらわが国の文化発展のため努力していたのである。
今朝(9日)の読売新聞で、西大寺旧境内で唐人音楽家の名前が墨書されている須惠器が見つかったことが報じられている。その音楽家とは皇甫東朝(こうほとうちょう)といい、天皇に仕え、従五位下の官位を与えられ、当時の国立音楽舞踊学校である雅樂寮の次官に任命されている。長官は貴族で今日の大臣であるが、次官は今日の事務次官、つまり官僚のトップに相当する。この事実が『続日本紀』の称徳天皇の神護景雲元年(767年)320日の条に出ている。皇甫東朝には日本で結婚した日本の女性も居り、子供も居たことであろう。『続日本紀』を読むと、新羅などから多くの人々がわが国に帰化し、氏姓を与えられていたことが書かれている。
ちなみに、称徳天皇はわが国初の女性天皇であり、藤原不比等の三女(不比等の側室となった県犬養東人の娘・橘三千代と不比等との間に出来た娘で、後の聖武天皇の皇后となった光明子)と聖武天皇の間に出来た娘であったが、聖武天皇には男子の子供ができなかったので皇太子となり、孝謙天皇となり、後に重祚して称徳天皇となられた方である。孝謙天皇(称徳天皇)は、父方が天皇家で母方が藤原鎌足の孫である。その後、天智天皇系の光仁天皇が後を継ぎ、以降男系天皇が続く。さて、ブッダのことば(続き)

25 なすべきことに努めはげむことを賢者はつねにほめたたえる。つとめはげむ賢い人は、(次に挙げる)二つのことがらを極めてよく把捉している。
26 一つは現世に関することがらであり、他の一つは来世に関することがらである。思慮ある人は、事がらを見きわめてさとるから、(賢明な人)と呼ばれるのである。

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