2012年9月15日土曜日


日韓関係の改善のために(26)「砲艦外交に出た日本()(20120915)

 『韓国人の仕組み』の著者・小倉紀藏氏は“<理気>という概念によって、韓国の「ほとんどすべてのこと」は不思議なほどに説明がついてしまう・・(中略)・・この<理気>という枠組みは、日本社会にも適用できる・・(中略)・・<理気>という枠組み自体は、日本社会を分析する上でも有効・・(中略・・<理>は道徳性である。・・(中略)・・<気>は物質性、身体性である・・(中略)・・韓国人にとって歴史は、特に一族の歴史は<理>の中の<理>”と言っている。

歴史と歴史観とは別の概念である。『古事記』に書かれている神代のことは物語性があり、日本人の歴史観を形成する一つの要素である。日本人が歴史的事実として疑わない「竹島が日本固有の領土である」ということや「いわゆる従軍慰安婦は存在しなかった」ということは、韓国人にとっては自分たちの歴史観を真っ向から否定するものになりつつあるのかもしれない。日本人にとっては全く歴史的事実に反する「独島(竹島)は韓国領である」「朝鮮人女性が強制連行され従軍慰安婦にさせられた」などということが、韓国人にとっては既に自分たちの歴史観そのものになってしまっているのかもしれない。

引き続き 善花著『韓国併合への道 完全版』第二章「朝鮮の門戸を押し開けた日本」の中の「砲艦外交に出た日本」という見出しがある部分全文を括弧(“”)で引用する。
“さらに日本は、一〇月三日に大型軍艦春日(一二六九トン)を、一〇月末には軍艦孟春(三五七トン)を釜山に入港させ、双方から礼砲を放つなどの示威行動を行っている。
日本はこうした威圧を加えながら、「全権特派大使を江華島に派遣する」と李朝政府に通告する一方で、清国に対しては日朝間の交渉の斡旋・仲介を依頼していた。代理大使に代えて全権特派大使を派遣するということは、拒否すれば開戦も辞さないという意志を示すものだったろう。

一八七六年(明治九)一月二四日、外務少輔森有礼が特命全権公使として清国北洋大臣の李鴻章と会談した。李鴻章は仲介を引き受けるとは言わなかったが、清国政府から朝鮮国王に対しては日本の書契を受け入れるように勧告する、という形をとったのである。
李朝政府はようやく譲歩することを決定し、書契を受理するから大使の来航を中止してほしいと要請したが、大使一行はすでに日本を出発してしまっていた。
二月一〇日、参議・陸軍中将黒田清隆が全権特派大使となり、兵員・乗組員総勢八〇〇名を乗せた艦隊を率いて江華島に上陸した。そして一斉に礼砲を発して示威行動をとる。

こうした情勢を受けて、朝鮮半島の慶州方面に「武力によって日本を退けるべきだ(主戦斥夷)とする大院君・攘夷は儒生たちの扇動による暴動が発生していた。また攘夷派の者たちは、農民や一般市民を多数繰り出して、日本全権の宿舎を取り囲ませていた。これに日本軍四〇〇名の兵士と四門の大砲で対峙する形となり、江華島は一触即発の大きな緊張に包まれていた。”(続く)

2012年9月14日金曜日


日韓関係の改善のために(25)「砲艦外交に出た日本(20120914)

 日本の政府は李朝の態度に遂に堪忍袋の緒を切ってしまった。似たようなことが韓国により竹島が不法占拠されている問題やいわゆる慰安婦問題等で将来起きないとも限らない。そうなれば日韓両国民にとって不幸である。ここに『韓国人の仕組み』(小倉紀藏著、講談社現代新書)がある。この本のページをめくってみると、“伝統社会にあっては、上層階級こそが<理>を顕現できたのであり、民衆は<気>のみ<気>のままで生きていたわけです。この民衆層は当然感情を露骨に表す層です。韓国は<気の民衆>が長い間そのまま存在してきました。・・(中略)・・韓国もやがて高学歴化や都市化などによって、この<気>のみ<気>のままの階層はだんだんと少なくなってゆくに違いないのです”と書かれている。将来の日韓関係に希望が持てそうである。

 引き続き 善花著『韓国併合への道 完全版』第二章「朝鮮の門戸を押し開けた日本」の中の「砲艦外交に出た日本」という見出しがある部分全文を括弧(“”)で引用する。
“李朝の態度に業を煮やした日本政府は、打開策として李朝を威圧し国論を揺さぶろうとの政策に出るようになる。
 一八七五年(明治八)五月、日本政府は雲揚(二四五トン)と第二丁卯(一二五トン)の小砲艦を釜山に派遣して、一方的な発砲演習を行わせる示威行動をとった。

 続いて九月二〇日、日本政府は沿海測量の名目で雲揚を朝鮮半島の江華島に向かわせる。雲揚は江華島と半島との間の江華水道の河口付近で停泊し、その先は兵士らがボートに乗って江華水道を遡行した。水道の幅は二〇〇~三〇〇メートルと狭く、北は漢江、南は黄海に通じる要所で、沿岸各所に要塞があり砲台が設けられている。飲料水を求めるためとされるが、この内国河川への無断侵入は明らかな挑発行為である。

 要塞の一つ、草芝鎮台から砲撃が開始されると、雲揚も水道に入り応戦する。砲台からの弾丸は船に届かず、草芝鎮台は雲揚の砲撃を受けて甚大な被害を受けた。しかし退潮時のために、雲揚は兵員たちを上陸させることができなかった。

 雲揚は次に、江華島のすぐ南にある永宗鎮台を急襲した。次から次へと砲撃を受けて永宗鎮台は陥落、六〇〇名の守備兵はほとんど戦うことなく逃走してしまった。上陸した日本の将兵たちは城内と付近の民家を焼き払い、大砲三八門をはじめ、残された兵器類を押収して帰船した。李朝側の死者三五名、捕虜一六名、日本側の死者一名、負傷者一名だったと言われる。

この不祥事について、平壌を管轄する京幾道の監司(長官)も江華留守(守備武官)も、また付近の海陸防衛地をあずかる官憲たちも中央に対して何の報告もしなかった。責任逃れという以前に、もはやシステムそのものが麻痺状態にあったことがうかがわれる。”(続く)

2012年9月13日木曜日


日韓関係の改善のために(24)「日韓ボタンの掛け違いは何故起きたか(続)(20120913)

 昨日に引き続き日韓の間でボタンの掛け違いが起きた原因について考える。以下の引用文にあるように、呉 善花女史は日韓(当時李朝)の間やり取りについて二つの見方があることを示している。何事もそうであるが、ものごとが起きる原因に絶対的なものではない。ものごとが起きる原因は必ず相対的である。日韓がお互い一方的に問題の原因を押し付け合っていたのでは、その問題は決して解決されないであろう。何事もそうであるが、問題が起きたとき一旦原点に立ち戻って考えることが必要である。今を生きる日本人が、明治初期の日本と韓国(当時李朝)のことについて良く知っていれば、韓国人もそれに刺激を受け、自らも歴史の真実を知るようになるに違いない。

 “森山理事官が洋式大礼服を主張したのは、明治政府がそれを正式の儀礼服として採用していたからである。また宴饗大庁門は正式の外交使節を迎え入れる門だったが、中国使節だけが通行を許されていた。宴饗大庁門の通行を接見の条件としたのは、日本は華夷秩序とは関係のない独立国であり、中国との差別を拒否する、という意味だったろう。

 李朝政府は「今回限りにするから」と従来通りの礼式を要請したが、日本側はあくまでも拒否し、交渉は暗礁に乗り上げてしまった。そして四月、森山理事官は「服装を問題にするのは内政干渉であり、日本に対する無礼であり、侮辱である」との口述書を李朝政府に送った。

 李朝政府は七月になって、通訳官を釜山に派遣して、日本側に書契の提出を求めたが、森山理事官はそれをも拒否して交渉を中止し、帰国してしまったのである。

 こうした日朝間の交渉のやり取りについては、二つの見方がある。一つは李朝のこだわりを固陋(ころう)・傲慢とする見方、もう一つは日本のこだわりを頑迷・傲慢とする見方、あるいは李朝のほうに日本への理解・配慮が足りなかったとする見方、日本のほうに李朝への理解・配慮が足りなかったとする見方、である。

 韓国や北朝鮮の学者のなかにも、李朝があの時点でもっとスムーズに交渉を進めていれば、日本の砲艦外交を招くこともなく、したがって日朝修好条約の内容も、あれほど不平等なものになることもなかったのではないか、と李朝の態度を批判する者は少なくない。

 実際、当時の李朝にも、政府のこだわりを批判する者がいた。たとえば、開化は官僚たちに大きな影響を与えた政治家、朴珪寿(パクキユス)(一八七四年までの右議政=副総理)は、世界の独立国家の王はみな皇帝の称号を用いているから、日本が書契に「皇」や「勅」の文字を用いのは当然であり、またことさらに古い形式にこだわるべきではない、という意見を閣議の席で主張していた。”(続く)

2012年9月12日水曜日


日韓関係の改善のために(23)「日韓ボタンの掛け違いは何故起きたか(20120912)

 裴 淵弘(Bae Yeonbong)著『朝鮮人特攻隊』に「歴史観の対立は、今も深まる一方だが、歴史はあくまでも歴史に委ねるべきではなかろうか」とあるように、歴史観そのものは愛国教育の結果国民に植え付けられるものであるが、歴史的事実は歴史的事実として率直に受け入れることが日韓関係の改善のため必要であると確信する。日本に帰化した済州島生まれの呉 善花女史の著書『韓国併合への道 完全版』を出来るだけ多くの韓国人にも読んで貰いたいと思うが、日本人自身もこれらの著書を読み、近代の歴史の真実をありのまま知ってもらいたいと思う。そのことが、お互い両国における真の愛国心を育てることになるのだと思う。引き続き呉 善花著『韓国併合への道 完全版』より括弧(“”)で引用する。

 “一八七三年末、大院君政権に代わって成立した閔氏政権は、それまで大院君がとっていた強固な復古主義政策、鎖国攘夷政策を改めた。しかしそれは、閔氏政権自らが主体的に新たな展望をもったためではなく、政権が反大院君勢力と大院君の復古主義を快く思わない開化派官僚たちの連合に支えられて成立したものだったからであった。

 閔氏政権は、それまでの対日交渉を担当していた官僚たちを「国交阻害罪」で処分すると、ともかくも日本の新政権と外交交渉を行うことにした。これは、清国から示唆を受けて、「日本との武力衝突を避けるため交渉に臨むことが得策」と判断したためだったと言われる。

 一八七四年(明治七)九月、日朝両国は大臣クラスと次官クラスによる書契交換から交渉を開始することに合意した。そして翌一八七五年二月、日本政府は正式な代表使節として外務小丞・理事官森山茂を釜山に派遣した。

 日本の使節が携えてきた書契は、以前に新政権樹立を伝えてきた書契と同じように、日本の国主に「皇」の文字を使ったり「勅」の文字があるものだった。大院君政権はそれだけで外交官の接見を拒否していた。が、閔氏政権は一歩前進し、まずは両国の外交担当官である東萊府使と森山理事官との接見を行い、その上で、日本の書契の格式が外交形式上ふさわしくないことをただす、という方針をとることにした。

 外交使節との接見は宴饗(歓迎の儀式)から始まるのが李朝のしきたりで、江戸時代の日本に対してもこの形式がとられていた。そのため李朝政府は、三月末に江戸時代からの伝統的な形式にのっとって宴饗を執り行う旨を森山理事官に伝えた。しかしながら、森山理事官はそれに異を唱えた。李朝は江戸時代の礼服着用を求めたが、森山理事官は様式大礼服の着用と宴饗大庁門の通行を、接見の条件として主張したのである。” (続く)

2012年9月11日火曜日


日韓関係の改善のために(22)「日本維新の会への期待(20120911)

 自民党谷垣総裁は「野党である間何をしたか」という質問に対して「地方組織を固めた」と答えた。国のことよりも政権奪還にことしか考えていないような返答であった。民主党は国会議員の定数是正について自民党が受け入れられない法案を出した。国のことよりも党のことや民主党国会議員のことに重きを置いているとしか思えない対応であった。

日本維新の会の綱領案(八策)は既成政党にない新鮮さがある。その綱領案(八策)には真正の保守層が「かくあるべき」と考えているようなことが書かれている。但しこれには天皇について一切触れられていない。天皇は日本人の心の深奥にあるものであり、日本人が日本人であることを自覚させ、安心させる存在である。表現の適否は別として、以前は「天皇は国家元首」という文言があったが改訂版にはそれはない。例えば綱領案(八策)の「前文」のような形で日本の国体に関する記述があると、真正保守層は安心するだろう。

反国家的な一派と袂を分かった民主党政権ではるが、その民主党が未だ温めている外国人参政権や夫婦別称や女性宮家創設など反国家的な動きをどう考えるのか。綱領案(八策)の中でそのような動きを一切拒絶する思想が明確になれば、日本維新の会に対する支持者も一層増えることだろう。

 自民党はこの3年間、旧自民党からどう変わるのか、旧態依然の自民党なのかはっきりしない。民主党は考え方の違う一派を外に追い出したが依然として国防よりも「暮らしが大事」の方に引きずられている。30年後原子力発電所をゼロにすると宣言したが、核技術を維持することについて一切触れていない。要するに、既成政党は一般大衆に受けが悪いことは一切口をつぐんでいるのである。

自民党石破氏は、一般大衆に幻想を与えることは悪であると言った。騙される一般大衆も悪いが、騙す方はもっと悪い。名誉や地位や金も要らぬというような人物、己の命を賭して一般大衆に正しいことを説く政治家でないとこの国は救えない。しかしそういう政治家は既成政党の中では力を発揮することは出来ない。この日本国を救うため、無血革命を成し遂げることができるような政党の出現が望まれる。誕生した日本維新の会を核として、日本の政界が再編成されることを願望する。そういう意味で日本維新の会に期待したい。

 日本の背骨がしゃんとなれば、日韓関係・日中関係もよくなるだろう。 善花著『韓国併合への道 完全版』第二章「朝鮮の門戸を押し開けた日本」を読みながら日本のあるべき姿を考えてゆきたい。

2012年9月10日月曜日


日韓関係の改善のために(21)「維新八策」(20120910)

 大阪維新の会が党名を定め、政党として旗揚げした。当面は別として、将来誰が党首になるのかが今後の政界再編の鍵になるだろう。関係者は天命に従って無心で行動すればよい。決して私利私欲があってはならない。まして、そういう人はいないと思うが、もし父系の祖が韓国籍で日本に帰化した人である場合は、現在の韓国社会にあるような「孝を最優先とする」価値観を、完全に捨てて貰わなければならぬ。

 内閣総理大臣になる人の資質・条件の一つとしてその人の夫人の資質が挙げられる。オバマ大統領の夫人やクリントン元大統領の夫人のように、国家にとって非常に重要な役割を担える人であれば問題ない。しかし、夫人がただマスコミの注目を集めるだけの存在である場合は大いに問題がある。アメリカの場合は、大統領候補になった段階で、その人の夫人も表面に出て皆に自分が大統領夫人としてやって行けるかどうかアッピールしている。

李氏朝鮮の場合、大院君が「外戚の専横を招く気遣いはない」と判断した閔妃が、結局は韓国を「自主の邦」にする道を絶ってしまった。今の時代、内閣総理大臣になる人の夫人がFacebookTwitterBlogなどインターネットの社会の中で影響を及ぼし、或いは影響を受けるような人物であれば国政も危うくなる。そういうことが起きないように事前に審査をする制度が必要である。ある人が内閣総理大臣候補として絞られてきた段階で、国会に設けられる特別委員会のようなところで、その人が内閣総理大臣として問題がないかどうか、事前に審査されるような仕組みが是非必要である。引き続き呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』より括弧(“”)で引用する。

 “彼らにとっては、閔氏という一個の父系血縁集団としての宗族の繁栄だけが目指すべき「人間の道」だった。・・(中略)・・自分の宗族の繁栄に尽くすことこそが最大の徳目、祖先への孝だったからである。この孝を最優先とする価値観は、現代韓国にあってもなお基本的なものであり続けている。

 閔氏一派が大君院への対抗勢力として台頭することになったきっかけは、閔妃の産んだ子が亡くなり、高宗が宮廷の女官に生ませた子を、大君院が世子(後嗣の王子)に指名したことにあった。これによって閔氏一族は、大君院の排斥へと積極的に動き出したのである。閔氏一派は、大院君の専制的な強圧政治に批判的な見解を持つある有力な儒学者に、その政治を激しく非難させ、それに反大院君派の勢力を同調させていった。・・(中略)・・轟轟たる大院君非難の声が沸騰していったのである。そこには、高宗もすでに二二歳になっているのだから、父王は政権を退き、国王親政とすべきだ、という理由も付け加えられていた。・・(中略)・・政争の勝利者が前政権を否定して新たな政権を打ち立てる。その繰り返しが李朝の政治的な伝統だった。そのため、どうしても前代の成果を継続して発展させることが困難になってしまう。この伝統は、その後も変わることなく続いて現在に至っている。”(続く)

2012年9月9日日曜日


日韓関係の改善のために(20)「韓国の歴史の真実を知る」(20120909)

 韓国人は日韓併合が日本の侵略であったと頭から信じ込んでいる。そして真に朝鮮民族の将来を思い、日本に協力した韓国人を国賊と呼んでいる。また大東亜解放戦争の間、日本の軍人であった人々をも国賊と呼んでいる。そういうことでは日韓関係は未来永劫良くなることはないであろう。それは日韓両国民にとって不幸なことである。先ずは日本人が朝鮮半島に関わる近代の歴史を正しく学ぶことが、その不幸を少しでも少なくする唯一の道である。日本人ならそれが出来る筈である。呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』より“”で引用する。

 “日本は一八七二年(明治五)にも軍艦二隻を伴い、再度使者を派遣して修好を求めたが、李朝政府はこれもまた拒否している。再度使者を出して修好を求めたが、李朝政府はこれもまた拒否している。当時の日本が、事を構えることなく引き揚げたのは日本にはいまだ国力を増強しなければならない事情があったからだった。・・(中略)・・

 内には復古主義を、外には強固な鎖国主義と中国への忠誠を、という大院君が進めた政策は、日本からすればとても尋常な精神のものとは思えなかったにちがいない。開港という世界史的な流れに向けて、積極的に国内を革新することができなければ、それは自ら進んで欧米の支配下に入ることにほかならなかった。日本は、そのように頑迷な隣国朝鮮の存在が、国家の防衛上大きな障害であることを認識したのである。

 日本は新政権を樹立して三年目の一八七一年(明治四)の時点で、すでに仏・独・米に公使を派遣し、欧米巡察使節団を送っていた。そして翌年には、東京・大阪間に電信を開通させ、新橋・横浜間に鉄道を開通させ、学制を定め、日刊新聞を発行するなど、欧米に追いつき追い越せと、国をあげての近代化と富国強兵策をスタートさせていた。

 一方李朝では、一八七三年に大院君が失脚すると、再び外戚勢道政治が復活するという、革新とは無縁の、あいかわらずの政争が繰り返されていたのである。

 大院君失脚後、新たに政治の実権を握ったのは、大院君が高宗の妃に迎え入れた閔氏の一族だった。大院君が閔妃(ミンピ)を高宗の妃に選んだのは、閔妃が大院君の妃の実家の近縁での娘で、幼いときから両親を亡くしていたため、外戚の専横を招く気遣いはないと考えられたからである。ところが、閔妃は旺盛な権力欲の持ち主であった。閔妃は父の家系を継いだ養子の閔升鎬(ミンスンホ)(閔妃の義兄)と手を組み、大院君の専制に不満をもつ両班たちを糾合し、反大院君の勢力をしだいに成長させていったのである。この閔氏勢力の総領となった閔升鎬は大院君の妃の実弟であった。つまり、閔妃は舅に、閔升鎬は自分の姉の亭主に反旗を翻したのである。”(続く)

2012年9月8日土曜日


日韓関係の改善のために(19)「‘軍’は一国の背骨である」(20120908)

 9月2日付読売新聞に「中国 太平洋に急浸透」という大見出しの記事がある。太平洋の島々はかつて日本が信託統治していた。太平洋解放戦争後はアメリカ信託統治領太平洋諸島になっている。それらの国々は外国からの援助がなければ生きてゆけない。そこに目をつけたのがシナ(中国)である。シナ(中国)はそれらの島々を味方につけようとしている。今後何世紀かの間に、環太平洋の地政図は大きく変わっているかもしれない。

 GLOBAL  NOTEという国際統計サイトに登録して、データを調べてみると、シナ(中国)の国土面積はアメリカのそれより若干狭い。しかし人口はアメリカの4倍以上いる。耕地面積率はアメリカより約4%低く、日本より0.8%ほど多いだけの約17%である。つまり、シナ(中国)は13億の民を食べさせて行くには大変な国であるということである。

そのシナ(中国)は「釣魚島(尖閣諸島)は中国領である」と国際的な宣伝活動を活発化し始めた。‘小中華’思想が抜けきれない韓国は既に「独島(竹島)は韓国領である」と宣伝活動を活発に行っている。彼の国々の民と我ら日本人とはお互い人間同士・アジア人同士心を通わせ合う部分は大きくても、国家となると生存競争が激しくなる。尖閣や竹島の問題はその表れであるとみるべきである。日本はその生存競争に勝たねばならぬ。

わが国では民主党政権になって以来、外交・防衛を疎かにされ、防衛予算は削減された。いつの時代でもそうかもしれないが、いざというとき注目される‘軍隊’は一般大衆から尊敬される組織ではなく、むしろ忌み嫌われる組織である。しかし‘軍隊’に勤める者は、どういう状況にあっても一朝有事の際には国のため生命を賭して‘役に立つ’ことが求められている。それは‘軍隊’及び‘軍人’の宿命のようなものである。そういう意味で‘軍’は一国の背骨である。自衛隊は日本国の背骨である。しかしシナ(中国)はその背骨を弱体化させようとさまざまな工作を行っていることだろう。日本人になりすまし、国家観・使命感旺盛な‘軍人(自衛官)’になりすましている者もいるかもしれない。断じて気を緩めてはならない。続いて呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』より“”で引用する。

 “日本が国書に「皇上」「奉勅」の文字を用いたことについて、・・(中略)・・私は、それを傲慢と受け取ったこと自体が、李朝の国際的な視野の狭さと、日本に対する根深い蔑視を物語るものだと思う。・・(中略)・・李朝の国王は中国皇帝に従臣する朝鮮王であるのに対して、日本の天皇はどこにも臣従先をもたない皇帝であった。・・(中略)・・これは明らかに日朝両国の伝統的な世界観が、初めて正面から衝突した「歴史的事件」なのである。・・(中略)・・戦後の韓国では日本の天皇を「天皇」は呼ばずに、李朝以来の伝統的な呼び方で「日王」と呼んできた。金大中政権になって政府は「天皇」と呼ぶことを奨励しているが、一般にはいまだに「日王」と呼ぶのが普通である。”(続く)

2012年9月7日金曜日


日韓関係の改善のために(18)「韓国は変わることができるか?」(20120907)

 韓国は日本に併合後、日本によって近代国家の基礎を作ることができた。そのことは、YouTube動画「朝鮮に投じた日本の血税63兆円」(URLhttp://www.youtube.com/watch?v=P6B2Uyes_Gw&feature=related )で詳しく説明されている。

私の叔母はソウル(京城)女子師範学校を卒業し教師になっていたが、終戦後引き揚げるとき何人かの朝鮮人の親友たちに親切にして貰ったということを話してくれた。朝鮮鉄道の機関士をしていた叔父は終戦時たまたま内地・日本にいたが、真冬の1月その鉄道で機関士として乗務し走行中、前方から間違って入線し、進行してきた列車があり、急ブレーキをかけたが間に合わず正面衝突してしまったことがあった。その時相手の機関車が自分の機関車に乗り上げ、その機関車を運転していた機関士らが死亡した事故があった。叔父は憲兵に逮捕され、2週間も暖房もない牢獄に収監され、厳しい取り調べを受けた。

終戦まで朝鮮人は日本国籍を有していた。国会の貴族院には台湾勅選議員とともに朝鮮勅選議員の一定数の枠があり、内閣の輔弼により台湾人及び朝鮮人の貴族院議員を天皇が任命していた。何百年間もシナ(中国)皇帝の臣下になり、外交も防衛もシナ(中国)に依存していた李氏朝鮮が近代国家になることできたのは日本のお蔭である。その韓国大統領が天皇のことを「日王」と公言した。シナ(中国)は尖閣・竹島のことで韓国と連携の構えを見せている。韓国は李氏朝鮮時代の過去から脱し、変わることができるのだろうか? 引き続き呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』を読みながら、より“”で引用する。

“江戸時代までの日本は、将軍の代がわりに訪れる総勢五〇〇名の朝鮮通信使一行を、はるばる江戸城まで迎え入れていた。それに対して李朝は、日本からの使者を釜山の草梁に設けた倭館に留めたまま、それ以上は一歩も国内に入れようとはしなかった。・・(中略)・・朝鮮通信使一行は、壱岐・対馬・九州から瀬戸内海の各港に立ち寄り、陸路で大阪・京都・名古屋を経て江戸へ向かった。通信使一行五〇〇名を対馬藩士八〇〇名が護衛し、接待役をはじめ、駕籠・輿・馬の世話をする者など、さまざまな日本人随伴者が千数百名、総勢三〇〇〇名の大行列であった。日本国内の往復にかけた約六ヵ月の間、一行は道々で多数の日本の民衆に迎えられたのである。

 それに対して日本側は、使節となった対馬藩士が対馬と釜山・草梁の倭館との間を往復するだけであった。李朝の民衆には、日本使節はその存在すらほとんど知られていなかったのである。・・(中略)・・倭館は日本の使節を接待するために李朝が設けた施設で、対馬藩だけがその使用を許され、またそこでは、一定の枠内での公私の交易が対馬藩だけに許されていた。・・(中略)・・李朝の鎖国は文字どおり完璧な鎖国だったのである。その唯一の例外が中国との朝貢関係と日本への通信使派遣だった(後略)。”(続く)

2012年9月6日木曜日


日韓関係の改善のために(17)「日本の安全を揺るがしかねないもの(20120906)

 首都圏直下型大地震や東南海大地震がそう遠くない将来必ず起きることが予想されていて、全国の各地方自治体ではその被害をできるだけ小さくするための努力を行っている。『日本書紀』には天武天皇の御世、天武6(666)の一二月(しはす)条に、福岡県では地震で幅2丈の地割れが起きたことが書かれているが、最近の調査結果その地割れの幅は7mあったことが判明した。東京大学地震研究所は貞観大地震・巨大津波の痕跡調査結果を基に大地震・巨大津波発生の可能性を予測していた。その研究成果を発表しようとしていた矢先、3.11東日本巨大地震・巨大津波が発生し、大災害が起きてしまった。

 西武鉄道では地震発生時走行中の列車を緊急停車させて乗客を避難させ誘導する手順を作成したばかりである。通常、列車には運転手と車掌が各一名乗務しているだけであるので、列車を緊急停車させても乗客を迅速に避難させ誘導することは極めて難しい。そこで大地震発生時には、乗客が普段から自分の身は自分で守る行動ができるようになっていることが必要である。そのためにはいつも携帯電話の使用について車内放送が行われているように、大地震発生時の緊急行動についても頻繁に社内放送を行い、普段から乗客の心構えができているようにしておく必要がある。

 日本の国土・領土・領海・領空・排他的経済水域を守り、国民の生命財産を守る責任は政府にある。政府の役割を担う国会議員や官僚たちの重要な役目は、普段からよく歴史を学び、現状をよく把握し、潜在している問題の発見に努め、発見した問題の解決に努めることである。国民はそういう政府の行動のために税金を納めているのである。

李氏朝鮮時代の李朝はどんな政府であっただろうか。引き続き、呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』より“”で引用する。
 “明治初期の征韓論は幕末のそれのように、単に「古代神功皇后以来の支配権の復活」を高唱するだけの空疎なものではなかった。すでに日本は、欧米列強に対抗するためには、国家社会の近代化と富国強兵を早急に進める以外にない、との自覚をもっていた。・・(中略)・・華夷秩序を頑迷に守ろうとする隣国の李朝は、日本の安全を根本から揺るがしかねない存在になってしまったのである。・・(中略)・・そうなれば隣国日本は窮地に立たされることになる。そのためには、武力をもってしても強引に李朝を開国させるべきだ、という考え方が出て来たのである。それが明治初期の征韓論なのであって、前近代までの征韓論とは、まったくレベルの異なるものであることが強調されなくてはならない。

 当時の日本にとって華夷秩序の破壊は、皇国史観やウルトラ・ナショナリズムとは別次元で、近代国家が当面する現実的な緊急課だった。・・(中略)・・そこで李朝の華夷秩序からの離脱、つまり朝鮮独立が、近代日本の外交上最重要事項として浮上することになったのである。”(続く)

2012年9月5日水曜日


日韓関係の改善のために(16)(20120905)

 「天国からのお迎え現象」というものが死んでゆく人の4割に、実際に起きていることが判ってきた。そしてそのよいなお迎えがあった人の9割が穏やかな最期を迎えているということである。この現象を終末医療や介護の現場で活用しようという動きが出ている。

 お迎え現象でお迎えに現れるものは両親が多く、その他友人や物故者やペットや故郷の想い出の風景などであるという。そしてそのような現象は終の住処など安心できる場所で起こるという。医師たちは、この現象は人間に備わっている心理的自衛作用であるという。その理由の一つに、人間は記憶と経験で世界を再構築するということを挙げる。しかしそのような理屈付けは科学的に証明されたものではない。

 人は「我(が)」を超えた未知なものに謙虚にならなければならない。2000年から2500年前に釈迦やイエスキリストが説いたことは、その後の宗教哲学者たちの思惟により完璧な哲理として今日に伝わっている。現代の先端科学でもその哲理を覆すような知見は得られていない。日本人が今体験し、現に体験している様々な国難の現象は、その未知なるものからの啓示・導きである。日本人はそのように謙虚に考え、反省し、正しい道を選択し、行動しなければならない。そのためには、人が自分の過去を振り返って、今後生きる術について学ぶように、日本国としても歴史を正しく学び、国難に殉じた人々の御霊に感謝し、慰霊を行い、天皇を頂く日本国として生き残る正しい道を進まなければならない。理屈など不要である。引き続き、呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』より“”で引用する。

 “征韓論とは言っても、朝鮮侵略それ自体が目的ではなく、真の狙いが中華主義に基づいた華夷(かい)秩序の破壊にあったことは明らかだろう。(自らが世界の中心にあり、その中心から同心円状に遠ざかれば遠ざかるほど、野蛮で侵略的な者たちが跋扈(ばっこ)する文化程度の低い夷族の地がある。こうした野蛮な世界に秩序を生み出すには、世界の中心、すなわち文化の中心にある「優等なる中華」が、周辺の「劣等なる夷族」に文化・道徳を与えて感化・訓育し、中華世界の支配下へ組み入れていかなくてはならない――) これが中華主義である。

 この世界観に基づいて中華帝国を尊崇し朝貢などの礼式をもって臣下の意を表す周辺の夷族たちは藩属国とみなされ、それらについては中華帝国は大いに報いて文化・道徳を与え、ときには軍事・経済などの援助も与える――こうして成立する世界秩序を華夷秩序という。

 建国以来、中華帝国に臣従する一藩属国だった李朝は、依然としてこうした古代的な世界秩序の内部での眠りから覚めようとはしなかったのである。こうした李朝にとって日本は、中華帝国への礼をつくさない周辺の野蛮なる夷族にすぎなかった。”(続く)

2012年9月4日火曜日


日韓関係の改善のために(15)(20120904)

 元海将・自衛艦隊司令官香田洋二氏が寄稿している2012年(平成24年)829日(水曜日)の読売新聞朝刊「論点」より以下に括弧(“”)で引用する。日本政府はこういう事態を想定し、このようなことが絶対起きないように万全の備えをしてほしい。

“「潜水艦から水中移動による隠密上陸」や「離隔空域からの長距離空挺降下」” “最悪の場合、日本側が気づいた時には中国軍特殊部隊が展開し、五星紅旗が山頂に翻り、これが衛星通信で北京に中継され、「人民解放軍勇士の決定的作戦による尖閣諸島の主権と実効支配の回復」というニュースが宣伝され、全世界に報道される事態も起こりうる。”“一発の弾も撃たず、一滴の血も流さず、米国の介入を回避し、自らが一方的に主張する「領有権」と、それを裏付ける「実効支配」の双方を、わずか数時間で簡単に入手することになる。”香田氏は19428月、日本軍が守備していたマキン島をアメリカ軍が潜水艦2隻を利用して奇襲上陸掃討作戦を成功させた実例を示し、上記のように警鐘を鳴らしている。

さて、野田総理大臣の親書を李明博韓国大統領がその受け取りを拒否したことと似たような実例が明治元年に起きている。歴史に学ばず、戦争の実例に学ばない国会議員や中央官庁の官僚たちに、高い国費をかける必要はない! 彼らに任せていたら、日本は滅びる。引き続き、呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』より、括弧(“”)で引用する。

“一八六八年(明治一)一二月一九日、日本使節・対馬藩家老樋口鉄四郎らが朝鮮半島の釜山浦に入港した。明治新政府の樹立を通告するためである。しかし大院君政権下の李朝は使節が持参した国書の受け取りを拒否した。

その理由は第一に、文面に「皇上」「奉勅」の文字が使われていること、第二に、署名・印章ともにこれまでのものと異なっていること、であった。・・(中略)・・李朝からすれば「皇」は中国皇帝のみ許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味した。朝鮮王は中国皇帝の臣下ではあるが、日本王の臣下ではない、このように傲慢かつ無礼な文書は受け取ることはできない、というのが李朝側の考え方だった。

日本の新政府は、それ以降もたびたび使節を送って、釜山での交渉を一年余り続けたが、李朝は一貫して、文書の表現・形式がこれまでの慣例とは異なることを理由に、日本国書の受け取りを拒否し続けた。・・(中略)・・日本の新政府は、一八七一年(明治四)に、江戸時代以来対馬藩に委ねられていた朝鮮外交権を接収して外務省に移管し、翌一八七二年には釜山・草簗(チョリヤン)の倭館(日本では和館)を外務省の管轄下に移して、日本公館と改称した。

日本は倭館接収のために、外務丞(外務省補佐官)花房義質が乗る軍艦春日と、歩兵二個大隊を乗せた汽船を釜山に着港させたが、李朝政府は強硬に退去を要請し、倭館での交易中止を宣告して一切の交渉を拒否した。・・(中略)・・こうした情勢を受けて、日本政府内に「征韓論」が起こるのである。”(続く)

2012年9月3日月曜日


日韓関係の改善のために(14)(20120903)

 今のシナ(中国)東北部はかつて女真族が中心種族である満洲と呼ばれていた地域である。其処は、以前は清朝を築いた女真族とは容貌は似ているが言語が異なる扶余族が支配する国家があった。その国家の王族が現在のシナ(中国)の北東地方から朝鮮半島北中部に高句麗(こうくり)という国を築いた。高句麗は紀元前37年から西暦668年まで存続し、最盛期は満洲南部から朝鮮半島の大部分を領土としていた。

 高句麗は598年から613年まで四度も漢族の国家から侵略を受けたが撃退し、最後には日本が唐・新羅連合軍と白村江で戦って敗れた663年を契機に、668唐・新羅に投降した。その後新羅が朝鮮半島全土を支配したので高句麗は消滅した。旧高句麗北部の高句麗遺民は唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられた。

旧高句麗に残っていた一部の遺民は粟末靺鞨の建国した渤海国に参加して、727年渤海使節来訪時、聖武天皇に「旧高句麗を復活させた」旨報告している。一部の遺民は新羅(旧百済地区を含む)に流れ朝鮮族に同化し、一部の遺民は日本にもやってきている。現在の埼玉県日高市・飯能市にあった武蔵国高麗郡は高句麗の遺民たちが住んだ地域であり、其処に高麗王若光を祭る高麗神社がある。その他、現在の山梨県巨摩地域、東京都狛江市周辺、大阪府東部・東大阪市周辺にあった河内国大県郡巨麻郷・若江郡巨麻郷、京都府南部にあった山城国相楽郡大狛郷・下狛郷に、高句麗(高麗)が関係する地名が残っている。

今、北朝鮮北部日本海側でロシアに接する場所にはシナ(中国)が50年租借で建設した羅津港があり、其処からは日本海を渡って佐渡や新潟に容易にやって来ることができる。シナ(中国)はその新潟に常識では考えられない規模の総領事館を建設しようとしている。

一方で北朝鮮南部の開城市郊外にある経済特別区・開城工業団地では韓国企業の工場が操業されているが、其処にシナ(中国)が入り込もうとしている。また北朝鮮に隣接するシナ(中国)東北部(旧満州)の吉林省にあるシナ(中国)の工場には、北朝鮮から多数の女工たちが派遣され働いている。その工場内では漢語の使用が義務付けられている。北朝鮮の女工たちは必然的に漢語を話すようになっている。

歴史は繰り返す。いずれ遠くない将来、シナ(中国)は朝鮮半島全域を勢力圏内に納め、友好親善の美名のもとに日本も勢力圏内に納めようとするだろう。竹島はシナ(中国)にとって囲碁の碁盤上の一手にすぎない。829日朝刊の読売新聞11面「論点」に元海将・自衛艦隊司令官の香田洋二氏が尖閣諸島の防衛に関し「中国軍の実力行使想定」を寄稿している。歴史に学ばず、政道を軽んじ商道を重んじる為政者はこの日本国を滅ぼすだろう。

2012年9月2日日曜日


日韓関係の改善のために(13)(20120902)

 李氏朝鮮の最後の国王・第26代朝鮮国王になった命福はわずか11歳であったので、命福の父である傍系王族興宣君が「大院君」として政治の実権を行使した。その大院君は、1866年から1873年までの間にフランス人キリスト教神父9人を処刑し、8000名以上のキリスト教信者を惨殺した。それは日本の明治元年から明治6年までの間の出来事である。その間、明治政府は李氏朝鮮王朝に明治新政府樹立の通告するための使節団を送ったり、朝鮮国内に日本公館を開設したりしていた。

 明治元年(1866)以前、1865年、1866年の2年間に、大院君は侵攻してくるロシアやドイツやアメリカの商船をことごとく撃退し、多くの乗組員を殺害したりした。また1866年の秋、フランスの極東艦隊が侵入してきたときはこれと戦い全艦隊を撤収させたりした。引き続き、呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』より、括弧(“”)で引用する。

 “大院君の行った復古的な諸政策は、キリスト教への弾圧が物語るように、すべてにわたって恐怖政治を伴う絶対主義の行使として敢行された。こうした王権の行使は、とりたてての政治勢力の支持もなしに独断専行として行われたが、両班階級からは単なる不平以上の反対を受けることはなかった。・・(中略)・・大院君はさらに横の繋がりを執拗に断ち切って諸勢力の分散をはかる一方、自らへの縦の忠誠を徹底して強化し、一〇年にわたる個人的独裁を可能にしたのである。

 この方法は、ずっと後に李承晩や金日成がとったやりかたと全く同じものである。横の繋がりを分断し、すべてを一点に向かう縦の流れとして組み立てる権力構成は、戦後の韓国・北朝鮮にそのまま受け継がれ、韓国ではいまなお政界、官界、財界からら各種民間団体に至るまで、一貫してみられるものである。

“大院君が政権の座についた当時の李朝には、日本の徳川幕府が一八五八年までに欧米五ヵ国に対して開港したこと、一八六〇年には英仏連合軍が北京に侵入して北京条約が結ばれたことなどが伝わっていた。また朝鮮半島には西洋諸国の船舶がしきりに出没するようになっており、国民の間には、外国からいつ侵略を受けるかもしれないという危機意識が高まっていた。こうした状況に対して大院君がとった政策は、あらためて徹底的な鎖国政策の貫徹を確認する、というものであった。”

“中国や日本が欧米列強の圧力に屈して開国したにもかかわらず、さらに国力の劣る李朝が攘夷を貫徹することができたのはなぜだったのだろうか。攘夷の政策が徹底されていたことに加えて、欧米列強が中国や日本に対するようには、李朝の開国に積極的な意図をもっていなかったからである。・・(中略)・・

1860年代の李朝にあっては、世界秩序とは、いまだ中国を宗主とする中華世界の秩序でしかなく、欧米を含めて世界を考えることなど、およびもつかないことであった。”(続く)

2012年9月1日土曜日


日韓関係の改善のために(12)(20120901)

 豊葦原の瑞穂の国・日本は、世界有数の森林国であり、農業国である。日本の国土は何処でも水資源が豊かであり、日本列島は海に囲まれており、自然の恵みが豊かな国である。日本人は生まれた時からそのような自然環境の中に居るので、これが当たり前だと思い、その素晴らしさを意識していない人が多いが、世界では78000万人が安全な水を得られていない環境の中で暮らしているという現実がある。中央アジアのアラル海はかつて世界で4番目の広さの湖であったが、今では干上がって湖底に塩が噴出していて、水量はかつての10分の1、水量は4分の1まで縮小してしまった。旧ソ連時代の食糧確保のための無謀な開発がその原因である。

 日本は野菜や米を作るための田畑を使わず、何階建てかの工場内でそれらを作る技術や、マグロやうなぎなどを卵の時から養殖する技術や、海水から飲料水を得る技術などを開発し、一部実用化している。日本の食糧の自給率は4割以下である。しかし、将来、日本は地球環境の変化により、豊葦原の瑞穂の国でなくなる可能性がないとは断言できない。日本はそれらの技術開発に一層力を入れなければならない。

 ところがロシアやシナ(中国)は、自国民に食べさせてゆくだけの資源が十分でないと考えている。彼らが日本の領土を掠めとろうと虎視眈々と狙っているのはそのためである。何処の国民でも国家でも「自存」をキーワードとして「生き残る」ための行動をするものである。国家が利己的なのはそのためである。お互い国民同士心を通わせ合っていても、国家は国を守り、その国民を養うため、野生動物のように行動するものである。引き続き、呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』より、括弧(“”)で引用する。

 “大院君は王室の権威の回復を軸に、徹底して旧来の儒教的な王政の復古とその強化に努めたのである。・・(中略)・・大院君はまず、勢道政治の権威をふるってきた安東金一族を政権から追放した。次には、自らに忠誠を誓う腹心の部下たちを政府機関の要職に配置した。・・(中略)・・
 大院君は、ほとんど黙認状態にあったキリスト教(天主教)を徹底して弾圧する政策をとった。列強諸国の開港要求がたびたび行われるような状況のなかで、キリスト教勢力が拡大していくことに大きな危機意識をもったのである。・・(中略)・・当時、国内では一二名のフランス人神父が布教活動を展開し、信者数は二万三〇〇〇名を数えた。大院君は一八六八年に天主教弾圧令を発して以降、政権を降りる一八七三年まで、一貫して彼らへの迫害を続けた。その結果、九名のフランス人神父が処刑され、八〇〇〇名以上の信者たちが惨殺されたのである。

 戦後韓国では、反共の名のもとに、北朝鮮では反帝の名のもとに、大量の人々が虐殺されている。これも李朝以来の伝統と言うべきだろう。”(続く)

2012年8月31日金曜日


日韓関係の改善のために(11)(20120831)

 政府は東京都が申請していた尖閣列島買い取りの為の上陸を認めない方針である。その一方で、シナ(中国)では、四つの都市で反日デモが起きている。これは、シナ(中国)政府が、日本政府が東京都の申請を許可しないようにするための巧妙な工作を行った結果であると考えられる。シナ(中国)政府は反日デモが必要以上に拡大しないように、非常に上手に情報操作を行っているようである。

 今回の政府の判断は日本の現状では止むを得ないところであろう。通常兵器においては日本はシナ(中国)を上回るものがあると思うが、日本は核兵器を保有していない。北朝鮮のように貧弱な国でも核兵器を保有しているため日本は怯えている。同盟国アメリカは議会の承認なしには日本防衛のための核兵器使用を含む行動をしない。日米安保があるから大丈夫だと普通一般の人々は思っているだろうが、いざと言うときアメリカはすぐには行動できないのだ。そこのところを普通一般の人々は理解していない。

 結局のところ日本は通常兵器によるか、もしくは北朝鮮のように核武装して、尖閣列島周辺や日本の排他的経済水域内でのシナ(中国)の行動を抑え込むことしかないのである。日本は、尖閣列島周辺や日本の排他的経済水域内でシナ(中国)が軍事的行動をすることをあきらめざるを得ないような強い軍事力を保有する必要がある。韓国から「軍国主義の復活」と非難されようと、日本は東アジアで生き残ってゆくため最善の道を選ばなければならないのである。呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』より、括弧(“”)で引用する。

 “李朝では後嗣がいないとき、王位継承者の指名権は王妃にあり、大妃(王の父の妃)が生存している場合には大妃に指名権があった。哲宗には安東金氏の一族から出た妃があったが、当時は豊壌趙氏一族出の趙大妃(第二四代王憲宗の父翼宗の妃)が生きていた。そこで趙大妃が王に指名したのが、傍系王族興宣君の第二子命福だった。これが第二六代朝鮮国王高宗である。

 高宗はこのときわずか十一歳だったので趙大妃が摂政となったが、趙氏一族は高宗の父の興宣君に国王を補佐させて政治の実権を行使させることにした。李朝では生存する国王の父を「大院君」と称したので、興宣は興宣大院君と呼ばれた。この興宣が政治的な采配をふるって歴史上に大きく名を残したため、以後の朝鮮では大院君と言えばそのまま興宣大院君を指すようになった。

 興宣は没落した傍系王族の出身であり、しかも実力ある外戚の後ろ盾にもなっていなかった。大妃を擁する趙氏一族としては、これまで勢道(せいどう)政治(王の外戚という権勢をもっての政治)をほしいままにしている安東金一族の勢力を抑え、自らの勢力を伸長させなければならなかった。そのため、なんらの勢力背景をもたない興宣と結び、その若年の子を王としたのである。(続く)”