2012年9月7日金曜日


日韓関係の改善のために(18)「韓国は変わることができるか?」(20120907)

 韓国は日本に併合後、日本によって近代国家の基礎を作ることができた。そのことは、YouTube動画「朝鮮に投じた日本の血税63兆円」(URLhttp://www.youtube.com/watch?v=P6B2Uyes_Gw&feature=related )で詳しく説明されている。

私の叔母はソウル(京城)女子師範学校を卒業し教師になっていたが、終戦後引き揚げるとき何人かの朝鮮人の親友たちに親切にして貰ったということを話してくれた。朝鮮鉄道の機関士をしていた叔父は終戦時たまたま内地・日本にいたが、真冬の1月その鉄道で機関士として乗務し走行中、前方から間違って入線し、進行してきた列車があり、急ブレーキをかけたが間に合わず正面衝突してしまったことがあった。その時相手の機関車が自分の機関車に乗り上げ、その機関車を運転していた機関士らが死亡した事故があった。叔父は憲兵に逮捕され、2週間も暖房もない牢獄に収監され、厳しい取り調べを受けた。

終戦まで朝鮮人は日本国籍を有していた。国会の貴族院には台湾勅選議員とともに朝鮮勅選議員の一定数の枠があり、内閣の輔弼により台湾人及び朝鮮人の貴族院議員を天皇が任命していた。何百年間もシナ(中国)皇帝の臣下になり、外交も防衛もシナ(中国)に依存していた李氏朝鮮が近代国家になることできたのは日本のお蔭である。その韓国大統領が天皇のことを「日王」と公言した。シナ(中国)は尖閣・竹島のことで韓国と連携の構えを見せている。韓国は李氏朝鮮時代の過去から脱し、変わることができるのだろうか? 引き続き呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』を読みながら、より“”で引用する。

“江戸時代までの日本は、将軍の代がわりに訪れる総勢五〇〇名の朝鮮通信使一行を、はるばる江戸城まで迎え入れていた。それに対して李朝は、日本からの使者を釜山の草梁に設けた倭館に留めたまま、それ以上は一歩も国内に入れようとはしなかった。・・(中略)・・朝鮮通信使一行は、壱岐・対馬・九州から瀬戸内海の各港に立ち寄り、陸路で大阪・京都・名古屋を経て江戸へ向かった。通信使一行五〇〇名を対馬藩士八〇〇名が護衛し、接待役をはじめ、駕籠・輿・馬の世話をする者など、さまざまな日本人随伴者が千数百名、総勢三〇〇〇名の大行列であった。日本国内の往復にかけた約六ヵ月の間、一行は道々で多数の日本の民衆に迎えられたのである。

 それに対して日本側は、使節となった対馬藩士が対馬と釜山・草梁の倭館との間を往復するだけであった。李朝の民衆には、日本使節はその存在すらほとんど知られていなかったのである。・・(中略)・・倭館は日本の使節を接待するために李朝が設けた施設で、対馬藩だけがその使用を許され、またそこでは、一定の枠内での公私の交易が対馬藩だけに許されていた。・・(中略)・・李朝の鎖国は文字どおり完璧な鎖国だったのである。その唯一の例外が中国との朝貢関係と日本への通信使派遣だった(後略)。”(続く)