2012年9月2日日曜日


日韓関係の改善のために(13)(20120902)

 李氏朝鮮の最後の国王・第26代朝鮮国王になった命福はわずか11歳であったので、命福の父である傍系王族興宣君が「大院君」として政治の実権を行使した。その大院君は、1866年から1873年までの間にフランス人キリスト教神父9人を処刑し、8000名以上のキリスト教信者を惨殺した。それは日本の明治元年から明治6年までの間の出来事である。その間、明治政府は李氏朝鮮王朝に明治新政府樹立の通告するための使節団を送ったり、朝鮮国内に日本公館を開設したりしていた。

 明治元年(1866)以前、1865年、1866年の2年間に、大院君は侵攻してくるロシアやドイツやアメリカの商船をことごとく撃退し、多くの乗組員を殺害したりした。また1866年の秋、フランスの極東艦隊が侵入してきたときはこれと戦い全艦隊を撤収させたりした。引き続き、呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』より、括弧(“”)で引用する。

 “大院君の行った復古的な諸政策は、キリスト教への弾圧が物語るように、すべてにわたって恐怖政治を伴う絶対主義の行使として敢行された。こうした王権の行使は、とりたてての政治勢力の支持もなしに独断専行として行われたが、両班階級からは単なる不平以上の反対を受けることはなかった。・・(中略)・・大院君はさらに横の繋がりを執拗に断ち切って諸勢力の分散をはかる一方、自らへの縦の忠誠を徹底して強化し、一〇年にわたる個人的独裁を可能にしたのである。

 この方法は、ずっと後に李承晩や金日成がとったやりかたと全く同じものである。横の繋がりを分断し、すべてを一点に向かう縦の流れとして組み立てる権力構成は、戦後の韓国・北朝鮮にそのまま受け継がれ、韓国ではいまなお政界、官界、財界からら各種民間団体に至るまで、一貫してみられるものである。

“大院君が政権の座についた当時の李朝には、日本の徳川幕府が一八五八年までに欧米五ヵ国に対して開港したこと、一八六〇年には英仏連合軍が北京に侵入して北京条約が結ばれたことなどが伝わっていた。また朝鮮半島には西洋諸国の船舶がしきりに出没するようになっており、国民の間には、外国からいつ侵略を受けるかもしれないという危機意識が高まっていた。こうした状況に対して大院君がとった政策は、あらためて徹底的な鎖国政策の貫徹を確認する、というものであった。”

“中国や日本が欧米列強の圧力に屈して開国したにもかかわらず、さらに国力の劣る李朝が攘夷を貫徹することができたのはなぜだったのだろうか。攘夷の政策が徹底されていたことに加えて、欧米列強が中国や日本に対するようには、李朝の開国に積極的な意図をもっていなかったからである。・・(中略)・・

1860年代の李朝にあっては、世界秩序とは、いまだ中国を宗主とする中華世界の秩序でしかなく、欧米を含めて世界を考えることなど、およびもつかないことであった。”(続く)