2012年9月9日日曜日


日韓関係の改善のために(20)「韓国の歴史の真実を知る」(20120909)

 韓国人は日韓併合が日本の侵略であったと頭から信じ込んでいる。そして真に朝鮮民族の将来を思い、日本に協力した韓国人を国賊と呼んでいる。また大東亜解放戦争の間、日本の軍人であった人々をも国賊と呼んでいる。そういうことでは日韓関係は未来永劫良くなることはないであろう。それは日韓両国民にとって不幸なことである。先ずは日本人が朝鮮半島に関わる近代の歴史を正しく学ぶことが、その不幸を少しでも少なくする唯一の道である。日本人ならそれが出来る筈である。呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』より“”で引用する。

 “日本は一八七二年(明治五)にも軍艦二隻を伴い、再度使者を派遣して修好を求めたが、李朝政府はこれもまた拒否している。再度使者を出して修好を求めたが、李朝政府はこれもまた拒否している。当時の日本が、事を構えることなく引き揚げたのは日本にはいまだ国力を増強しなければならない事情があったからだった。・・(中略)・・

 内には復古主義を、外には強固な鎖国主義と中国への忠誠を、という大院君が進めた政策は、日本からすればとても尋常な精神のものとは思えなかったにちがいない。開港という世界史的な流れに向けて、積極的に国内を革新することができなければ、それは自ら進んで欧米の支配下に入ることにほかならなかった。日本は、そのように頑迷な隣国朝鮮の存在が、国家の防衛上大きな障害であることを認識したのである。

 日本は新政権を樹立して三年目の一八七一年(明治四)の時点で、すでに仏・独・米に公使を派遣し、欧米巡察使節団を送っていた。そして翌年には、東京・大阪間に電信を開通させ、新橋・横浜間に鉄道を開通させ、学制を定め、日刊新聞を発行するなど、欧米に追いつき追い越せと、国をあげての近代化と富国強兵策をスタートさせていた。

 一方李朝では、一八七三年に大院君が失脚すると、再び外戚勢道政治が復活するという、革新とは無縁の、あいかわらずの政争が繰り返されていたのである。

 大院君失脚後、新たに政治の実権を握ったのは、大院君が高宗の妃に迎え入れた閔氏の一族だった。大院君が閔妃(ミンピ)を高宗の妃に選んだのは、閔妃が大院君の妃の実家の近縁での娘で、幼いときから両親を亡くしていたため、外戚の専横を招く気遣いはないと考えられたからである。ところが、閔妃は旺盛な権力欲の持ち主であった。閔妃は父の家系を継いだ養子の閔升鎬(ミンスンホ)(閔妃の義兄)と手を組み、大院君の専制に不満をもつ両班たちを糾合し、反大院君の勢力をしだいに成長させていったのである。この閔氏勢力の総領となった閔升鎬は大院君の妃の実弟であった。つまり、閔妃は舅に、閔升鎬は自分の姉の亭主に反旗を翻したのである。”(続く)