2012年9月13日木曜日


日韓関係の改善のために(24)「日韓ボタンの掛け違いは何故起きたか(続)(20120913)

 昨日に引き続き日韓の間でボタンの掛け違いが起きた原因について考える。以下の引用文にあるように、呉 善花女史は日韓(当時李朝)の間やり取りについて二つの見方があることを示している。何事もそうであるが、ものごとが起きる原因に絶対的なものではない。ものごとが起きる原因は必ず相対的である。日韓がお互い一方的に問題の原因を押し付け合っていたのでは、その問題は決して解決されないであろう。何事もそうであるが、問題が起きたとき一旦原点に立ち戻って考えることが必要である。今を生きる日本人が、明治初期の日本と韓国(当時李朝)のことについて良く知っていれば、韓国人もそれに刺激を受け、自らも歴史の真実を知るようになるに違いない。

 “森山理事官が洋式大礼服を主張したのは、明治政府がそれを正式の儀礼服として採用していたからである。また宴饗大庁門は正式の外交使節を迎え入れる門だったが、中国使節だけが通行を許されていた。宴饗大庁門の通行を接見の条件としたのは、日本は華夷秩序とは関係のない独立国であり、中国との差別を拒否する、という意味だったろう。

 李朝政府は「今回限りにするから」と従来通りの礼式を要請したが、日本側はあくまでも拒否し、交渉は暗礁に乗り上げてしまった。そして四月、森山理事官は「服装を問題にするのは内政干渉であり、日本に対する無礼であり、侮辱である」との口述書を李朝政府に送った。

 李朝政府は七月になって、通訳官を釜山に派遣して、日本側に書契の提出を求めたが、森山理事官はそれをも拒否して交渉を中止し、帰国してしまったのである。

 こうした日朝間の交渉のやり取りについては、二つの見方がある。一つは李朝のこだわりを固陋(ころう)・傲慢とする見方、もう一つは日本のこだわりを頑迷・傲慢とする見方、あるいは李朝のほうに日本への理解・配慮が足りなかったとする見方、日本のほうに李朝への理解・配慮が足りなかったとする見方、である。

 韓国や北朝鮮の学者のなかにも、李朝があの時点でもっとスムーズに交渉を進めていれば、日本の砲艦外交を招くこともなく、したがって日朝修好条約の内容も、あれほど不平等なものになることもなかったのではないか、と李朝の態度を批判する者は少なくない。

 実際、当時の李朝にも、政府のこだわりを批判する者がいた。たとえば、開化は官僚たちに大きな影響を与えた政治家、朴珪寿(パクキユス)(一八七四年までの右議政=副総理)は、世界の独立国家の王はみな皇帝の称号を用いているから、日本が書契に「皇」や「勅」の文字を用いのは当然であり、またことさらに古い形式にこだわるべきではない、という意見を閣議の席で主張していた。”(続く)