2012年9月4日火曜日


日韓関係の改善のために(15)(20120904)

 元海将・自衛艦隊司令官香田洋二氏が寄稿している2012年(平成24年)829日(水曜日)の読売新聞朝刊「論点」より以下に括弧(“”)で引用する。日本政府はこういう事態を想定し、このようなことが絶対起きないように万全の備えをしてほしい。

“「潜水艦から水中移動による隠密上陸」や「離隔空域からの長距離空挺降下」” “最悪の場合、日本側が気づいた時には中国軍特殊部隊が展開し、五星紅旗が山頂に翻り、これが衛星通信で北京に中継され、「人民解放軍勇士の決定的作戦による尖閣諸島の主権と実効支配の回復」というニュースが宣伝され、全世界に報道される事態も起こりうる。”“一発の弾も撃たず、一滴の血も流さず、米国の介入を回避し、自らが一方的に主張する「領有権」と、それを裏付ける「実効支配」の双方を、わずか数時間で簡単に入手することになる。”香田氏は19428月、日本軍が守備していたマキン島をアメリカ軍が潜水艦2隻を利用して奇襲上陸掃討作戦を成功させた実例を示し、上記のように警鐘を鳴らしている。

さて、野田総理大臣の親書を李明博韓国大統領がその受け取りを拒否したことと似たような実例が明治元年に起きている。歴史に学ばず、戦争の実例に学ばない国会議員や中央官庁の官僚たちに、高い国費をかける必要はない! 彼らに任せていたら、日本は滅びる。引き続き、呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』より、括弧(“”)で引用する。

“一八六八年(明治一)一二月一九日、日本使節・対馬藩家老樋口鉄四郎らが朝鮮半島の釜山浦に入港した。明治新政府の樹立を通告するためである。しかし大院君政権下の李朝は使節が持参した国書の受け取りを拒否した。

その理由は第一に、文面に「皇上」「奉勅」の文字が使われていること、第二に、署名・印章ともにこれまでのものと異なっていること、であった。・・(中略)・・李朝からすれば「皇」は中国皇帝のみ許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味した。朝鮮王は中国皇帝の臣下ではあるが、日本王の臣下ではない、このように傲慢かつ無礼な文書は受け取ることはできない、というのが李朝側の考え方だった。

日本の新政府は、それ以降もたびたび使節を送って、釜山での交渉を一年余り続けたが、李朝は一貫して、文書の表現・形式がこれまでの慣例とは異なることを理由に、日本国書の受け取りを拒否し続けた。・・(中略)・・日本の新政府は、一八七一年(明治四)に、江戸時代以来対馬藩に委ねられていた朝鮮外交権を接収して外務省に移管し、翌一八七二年には釜山・草簗(チョリヤン)の倭館(日本では和館)を外務省の管轄下に移して、日本公館と改称した。

日本は倭館接収のために、外務丞(外務省補佐官)花房義質が乗る軍艦春日と、歩兵二個大隊を乗せた汽船を釜山に着港させたが、李朝政府は強硬に退去を要請し、倭館での交易中止を宣告して一切の交渉を拒否した。・・(中略)・・こうした情勢を受けて、日本政府内に「征韓論」が起こるのである。”(続く)