2012年9月15日土曜日


日韓関係の改善のために(26)「砲艦外交に出た日本()(20120915)

 『韓国人の仕組み』の著者・小倉紀藏氏は“<理気>という概念によって、韓国の「ほとんどすべてのこと」は不思議なほどに説明がついてしまう・・(中略)・・この<理気>という枠組みは、日本社会にも適用できる・・(中略)・・<理気>という枠組み自体は、日本社会を分析する上でも有効・・(中略・・<理>は道徳性である。・・(中略)・・<気>は物質性、身体性である・・(中略)・・韓国人にとって歴史は、特に一族の歴史は<理>の中の<理>”と言っている。

歴史と歴史観とは別の概念である。『古事記』に書かれている神代のことは物語性があり、日本人の歴史観を形成する一つの要素である。日本人が歴史的事実として疑わない「竹島が日本固有の領土である」ということや「いわゆる従軍慰安婦は存在しなかった」ということは、韓国人にとっては自分たちの歴史観を真っ向から否定するものになりつつあるのかもしれない。日本人にとっては全く歴史的事実に反する「独島(竹島)は韓国領である」「朝鮮人女性が強制連行され従軍慰安婦にさせられた」などということが、韓国人にとっては既に自分たちの歴史観そのものになってしまっているのかもしれない。

引き続き 善花著『韓国併合への道 完全版』第二章「朝鮮の門戸を押し開けた日本」の中の「砲艦外交に出た日本」という見出しがある部分全文を括弧(“”)で引用する。
“さらに日本は、一〇月三日に大型軍艦春日(一二六九トン)を、一〇月末には軍艦孟春(三五七トン)を釜山に入港させ、双方から礼砲を放つなどの示威行動を行っている。
日本はこうした威圧を加えながら、「全権特派大使を江華島に派遣する」と李朝政府に通告する一方で、清国に対しては日朝間の交渉の斡旋・仲介を依頼していた。代理大使に代えて全権特派大使を派遣するということは、拒否すれば開戦も辞さないという意志を示すものだったろう。

一八七六年(明治九)一月二四日、外務少輔森有礼が特命全権公使として清国北洋大臣の李鴻章と会談した。李鴻章は仲介を引き受けるとは言わなかったが、清国政府から朝鮮国王に対しては日本の書契を受け入れるように勧告する、という形をとったのである。
李朝政府はようやく譲歩することを決定し、書契を受理するから大使の来航を中止してほしいと要請したが、大使一行はすでに日本を出発してしまっていた。
二月一〇日、参議・陸軍中将黒田清隆が全権特派大使となり、兵員・乗組員総勢八〇〇名を乗せた艦隊を率いて江華島に上陸した。そして一斉に礼砲を発して示威行動をとる。

こうした情勢を受けて、朝鮮半島の慶州方面に「武力によって日本を退けるべきだ(主戦斥夷)とする大院君・攘夷は儒生たちの扇動による暴動が発生していた。また攘夷派の者たちは、農民や一般市民を多数繰り出して、日本全権の宿舎を取り囲ませていた。これに日本軍四〇〇名の兵士と四門の大砲で対峙する形となり、江華島は一触即発の大きな緊張に包まれていた。”(続く)