2012年9月12日水曜日


日韓関係の改善のために(23)「日韓ボタンの掛け違いは何故起きたか(20120912)

 裴 淵弘(Bae Yeonbong)著『朝鮮人特攻隊』に「歴史観の対立は、今も深まる一方だが、歴史はあくまでも歴史に委ねるべきではなかろうか」とあるように、歴史観そのものは愛国教育の結果国民に植え付けられるものであるが、歴史的事実は歴史的事実として率直に受け入れることが日韓関係の改善のため必要であると確信する。日本に帰化した済州島生まれの呉 善花女史の著書『韓国併合への道 完全版』を出来るだけ多くの韓国人にも読んで貰いたいと思うが、日本人自身もこれらの著書を読み、近代の歴史の真実をありのまま知ってもらいたいと思う。そのことが、お互い両国における真の愛国心を育てることになるのだと思う。引き続き呉 善花著『韓国併合への道 完全版』より括弧(“”)で引用する。

 “一八七三年末、大院君政権に代わって成立した閔氏政権は、それまで大院君がとっていた強固な復古主義政策、鎖国攘夷政策を改めた。しかしそれは、閔氏政権自らが主体的に新たな展望をもったためではなく、政権が反大院君勢力と大院君の復古主義を快く思わない開化派官僚たちの連合に支えられて成立したものだったからであった。

 閔氏政権は、それまでの対日交渉を担当していた官僚たちを「国交阻害罪」で処分すると、ともかくも日本の新政権と外交交渉を行うことにした。これは、清国から示唆を受けて、「日本との武力衝突を避けるため交渉に臨むことが得策」と判断したためだったと言われる。

 一八七四年(明治七)九月、日朝両国は大臣クラスと次官クラスによる書契交換から交渉を開始することに合意した。そして翌一八七五年二月、日本政府は正式な代表使節として外務小丞・理事官森山茂を釜山に派遣した。

 日本の使節が携えてきた書契は、以前に新政権樹立を伝えてきた書契と同じように、日本の国主に「皇」の文字を使ったり「勅」の文字があるものだった。大院君政権はそれだけで外交官の接見を拒否していた。が、閔氏政権は一歩前進し、まずは両国の外交担当官である東萊府使と森山理事官との接見を行い、その上で、日本の書契の格式が外交形式上ふさわしくないことをただす、という方針をとることにした。

 外交使節との接見は宴饗(歓迎の儀式)から始まるのが李朝のしきたりで、江戸時代の日本に対してもこの形式がとられていた。そのため李朝政府は、三月末に江戸時代からの伝統的な形式にのっとって宴饗を執り行う旨を森山理事官に伝えた。しかしながら、森山理事官はそれに異を唱えた。李朝は江戸時代の礼服着用を求めたが、森山理事官は様式大礼服の着用と宴饗大庁門の通行を、接見の条件として主張したのである。” (続く)