2010年2月16日火曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(25)(20100216)

 ブッダ「真理のことば」第十六章は「愛するもの」という題である。男はこれを読んで、正直のところ世俗の人間にとって「一番難しいこと」だと思った。「愛する人をつくるな」と言われても、一時的な喜びかもしれないが、人は誰かを愛し、子供を授かり、家族を持ち、家族を愛し、愛されることで喜びがあるのだから・・・。
でも男は、これらのブッダのことばは、「他を拠りどころとせず、自分を拠りどころとする」生き方の覚悟について教えているのだと思う。「苦しみ」の根源について教えているのだと思う。「人は苦しみから決して抜けられず、一時的な楽しみも結局は苦しみの原因になるのだ」ということを教えているのだと思う。

210 愛する人に会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
211 それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わざわいの絆(きずな)は存在しない。
212 愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?

 キリスト教の聖書には、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。それは、あなたたちの天の父の子供となるためである。」と書かれている。

 ブッダのことばとの根本的な違いは、約2500年前のブッダは「自分を拠りどころとし他を拠りどころとするな。」と教えるが、約2000年前のキリストは「天の父の子供」となることを教えることにある。つまり、キリストは、人は「天の神様にすがりなさい。」と教えるが、ブッダは、人は「自分自身を拠りどころにしなさい。他者に頼るな。」と教えている。

 自分自身が拠りどころである仏教の世界では、宗派間、宗教間で殺し合うような争いは起こらない。仏教はまさしく「人間の学」である。人個々それぞれの多様性の中、個々それぞれの「生き方の学」である。

 ブッダはこの世での生き方次第であの世でどうなるか説いておられる。故に男は、人は自分の「あの世」のことを常に念頭におきながら「この世」で生きることも、老いることも、病の床に臥すことも、死ぬこともすべて苦しみであり、怨みや憎しみに会う苦しみや、愛する人と別離する苦しみや、自分が求めていることが得られない苦しみや、苦しみから逃れようとして一時的な快楽を得ても結局は苦しむことになるということ、要するに人は苦しみの中にあるということを知って、それをありのままに受け入れ、真面目に、徳を高めるように努力することが重要であると思っている。

2010年2月15日月曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(24)(20100215)

205 孤独(ひとり)の味、心の安らいの味をあじわったならば、恐れも無く、罪過(つみとが)も無くなる。真理の味をあじわいながら。
206 もろもろの聖者に会うのは善いことである。かれらと共に住むのはつねに楽しい。愚かなる者どもに会わないならば、心はつねに楽しいであろう。
207 愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、つねにつらいことである。仇敵とともに住むように。
心ある人と共に住むのは楽しい。親族に出会うように。
208 よく気をつけていて、明らかな智慧あり、学ぶところ多く、忍耐づよく、戒めをまもる、そのような立派な聖者・善き人、智慧ある人に親しめよ。月がもろもろの星の進む道にしたがうように。

ブッダ「真理のことば」6番目の詩に「われわれは、ここにあって死ぬはずのものである。」と覚悟をしよう。このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。」がある。(関連記事:「2010年1月25日月曜日、ブッダ「真理のことば」を学ぶ(3)(20100125)」)
「一日を一生」とし(西行の作詩『至善』)、関連記事:「2009年12月10日木曜日、老楽は唯至善を行うにあり(20091210)」)、「ここにあって死ぬはずのものである。」という覚悟があれば、人は日常のすべての所作にその意味を感じることができる、と男は思う。
譬えて言えば、人の生体を構成する細胞のように、宇宙の中の星々は宇宙の細胞である。人間は細胞を構成する最小単位の物である。その一つの存在が人間である。これらは時間の経過とともに生成消滅を繰り返している。人間は大宇宙と言うある意味で‘生命体’のようなものの中の微小な構成単位のような存在である。人の一生は、大宇宙の活動に組み込まれたものである。そのように考えると、「孤独」は安らいの味の一つである。そう思えば、淋しいことでもなんでもなく、楽しいことである。理屈っぽいと言われそうであるが男はそう考える。ブッダが説いておられる内容はもともと理屈っぽいものを、「真理のことば」として平易に語られているのだ。男はそう理解している。
そのような理解は、ブッダの深遠な智慧に遠く及ばないものである。一生勉強し、ブッダの最高レベルの智慧を学ぶことができるように努力しなければならない。それを僧のもとで学ぶことが最も楽しいことに違いないが、煩悩多い男は人に理屈っぽいと思われようと、なんと言われようと、このブログに書いているような方法で智慧を学んでゆこうと思う。
ところで、「幸福の科学」という宗教団体が「幸福党」という政党を立て、国会議員を出そうと頑張っている。大川隆法氏は宗教家でも何でもない。勿論206番目の詩の「もろもろの聖者」のカテゴリーには入らない。言うなれば男同様の俗人である。男は、彼が俗人として政党の総帥になると言うのであれば理解できるが、人々はどう見ているであろうか?

2010年2月14日日曜日

 ブッダ「真理のことば」を学ぶ(23)(20100214)

 ブッダ「真理のことば」第十五章は「楽しみ」である。人は限られた人生を楽しく生きたいと願う。楽しみのため、大いに稼ぎ、富を蓄え、優越を味わいながらこの浮世を楽しみたいと願う。男もかつて金銭的な、物質的な豊かさに憧れ、夢を追い続け、もがいていた時代があった。晩節を汚し、新聞やテレビ報道に不名誉な登場をする男たちがいる。昨今は40代前後の女がお金欲しさに何人もの男を騙し、殺し、ニュースになっている。皆、はかない、幻のような‘富’を追い求めている。

 男はこの齢になってようやく煩悩から遠ざかりつつある。良寛の作詩『意(こころ)に可なり』『無心』などが大好きである。良寛は今の新潟県西蒲原郡国上(くにかみ)山の国上(こくじょう)寺境内にあった五合庵に47歳のときから13年間住んだが、良寛が70歳のとき29歳年下の貞信尼との間で恋歌を贈答し、その貞信尼に看取られつつ74歳で没している。男は、良寛は貞信尼との間で本当の恋をしたのではないかと思う。

 男も女も、最期までそれぞれの魅力を保ち続けるべきである、と男は考えている。その理由は、それこそが人生を最期までよりいきいき生きる力の源泉であると確信するからである。いつの世も真理は変わらない。ブッダの言葉に耳を傾けよう。204の言葉にある‘ニルヴァーナ’の境地は、座禅と深い瞑想の結果得られるものだと思うが、男はまだそれを試す気にはなっていない。いよいよ最期が近づいたな、と思ったときそれを試そうと思う。

197 怨みをいだいている人々のあいだにあって怨むことなく、われらは大いに楽しく生きよう。怨みをもっている人々のあいだにあって怨むこと無く、われらは暮らしていこう。
198 悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩みなく暮らそう。
199 貪(むさぼ)っている人々のあいだにあって、患(わずら)い無く、大いに楽しく生きよう。貪(むさぼ)っている人々のあいだにあって、貪らないで暮らそう。
200 われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食(は)む者となろう。
201 勝利からは怨みが起る。敗れた人は苦しんで臥(ふ)す。勝敗をすてて、やすらぎに帰した人は、安らかに臥す。
202 愛欲にひとしい火は存在しない。ばくちに負けるとしても、憎悪にひとしい不運は存在しない。
このかりそめの身にひとしい苦しみは存在しない。やすらぎにまさる楽しみは存在しない。
203 飢えは最大の病であり、形成された存在(=わが身)は最もひどい苦しみである。このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナという最上の楽しみがある。
204 健康は最高の利得であり、満足は最上の宝である。信頼は最高の知己であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。

2010年2月13日土曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(22)(20100213)

 ブッダ「真理のことば」第十四章を続ける。

190、191 さとれる者(=仏)と真理のことわり(=法)と聖者の集い(=僧)とに帰依する人は、正しい知識をもって、四つの尊い真理を見る。すなわち(1)苦しみと、(2)苦しみの成り立ちと、苦しみの超克と、(4)苦しみの終滅(おわり)におもむく八つの尊い道(八聖道(はっしょうどう)とを(見る)。
192 これは安らかなよりどころである。これは最上のよりどころである。このよりどころにたよってあらゆる苦悩から免(まぬが)れる。

 訳注によれば、「「聖者の集い(=僧)」は、原語sanghaを音写して「僧」、「僧伽」という。五人もしくは五人以上の組織のある団体をいう。わが国で「一人の僧」などといって個々の僧侶をさしていうのは原義からの転用であって、この場合には適合しない。」とある。男は「僧」とは一人の僧でもそのように言うと思っていたが、五人または五人以上の(聖者の)団体でないと「僧」とは言わないのだということを初めて知った。「出家者」は「僧」ではないのだ。街で読経しながら乞食をしている人は「僧」ではないのだ。まして「一人の学問僧」などというのも間違っているのだ。「お坊さん」というならまだしも・・。

 「帰依」は「仏法僧」の三宝に対する帰依であって、真理を知るための準備段階である。「四つの尊い真理」は漢訳で「苦、集、滅、道」と示されている。「八聖道」は、①正しい見解(正見)、②正しい思い(正思)、③正しいことば(正語)、④正しい行為(正業)、⑤正しい生活(正命)、⑥正しい努力(正精進)、⑦正しい気づかい(正念)、⑧正しい心のおちつき(正定)である。『仏教の基礎知識』『仏教要語の基礎知識』(いずれも水野弘元著、春秋社刊)に詳しく書かれている。男は、「法」とはこの真理を分析し、再構築した体系であり、古来、多数の「聖者たち=僧」が説いた教え(=お経)であると理解する。

 男も女房も朝のNHK番組のホームドラマは面白くないのでこれが始まるとすぐ民放に切り替え、注目する放送があれば視聴し、なければスイッチを切ることにしている。今朝、東京の新葛飾病院の清水陽一院長のことが放映されていた。清水先生はこの病院を経営中大腸がんに罹り手術を受け、ご自分の死と向き合うことになった。それを契機に、患者・家族・人生の全体を考えるようになり、その患者さんの最期まで看るようになったという。

 男はこの先生はまさしくニルヴァーナの近くにおられるお方であると思った。素晴らしい!このようなことは、人の役に立つ技ももっていない男にはできないことである。男は子供の頃将来医者になりたいと思ったことがあった。来世ではきっと、と思う。
この病院は「あそこに入るとみな死ぬ。」と噂されていた病院であった由。清水先生が院長として請われこの病院にやってきて、その病院を地域の拠点病院にまで仕上げた。彼のスローガンは医療事故が起きても「①逃げない。②ごまかさない。③嘘をつかない。」をモットーにして誠実に対応しているので、これまで訴訟は起きたことがないという。

2010年2月12日金曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(21)(20100212)

昨日(8日)、山本病院の理事長・山本(医師)と塚本(医師)が不必要な手術をして患者を死亡させたとして逮捕された。手術前のエックス線写真で肝臓に腫瘍ができていないと判断されていたにもかかわらず、その判断が誤りだと言って強引に手術をし、出血多量の状態になったにもかかわらず、適切な処置もせず放置したという。
テレビで山本の顔が映し出された。その顔つきはいかにもそのようなことをやりそうな顔つきである。その親、母親の顔が想像されるような顔つきである。塚本はその病院に雇用されたばかりのときであったので、理事長山本の命令に従わざるを得なかったという。
これが殺人でなくて何だろうか? 世の中にこのような傲慢な輩は沢山いる。自分が偉いと思いこんでいる。「先生」とか「先生御侍史」と呼ばれて悦にいっている。人間に対する尊厳の心は微塵だにもない。その「先生」の妻たちも、たいして教養もないのに世間から敬意を表されて、身を金銀真珠などの装飾でつつみ「~ざあますのよ」とお高く止まっている。世間の人々はそのような人種に軽蔑の眼を向けながらも、そのような人種に憧れ、そのような人種と交流していることを誇りたがる。
テレビの朝の番組で同世代と思われる各界の人士が昨今の話題についてわいわいがやがやと語り合っている。皆楽しそうである。現在の社会では大学時代の交友の雰囲気を卒業後も持ち続けるのが楽しいのかもしれない。其処には‘個’としての自己が確立されているように見えて、実は自立していないように見える。彼らはあとで何処かに立ち寄りビールのジョッキを傾けたりするのであろうか?皆、他者を差別しないと不安なのだ。
皆、誰か、何かに寄りかからなければ不安のである。「自分自身」ではない「他者」に拠りどころを持たなければ、不安で仕様がないのである。かくいう男自身も例外ではない。しかし、少なくとも男はブッダの教えを学ぼうとしている。齢も齢なので多少「自己を拠りどころ」にして行きたいと思っている。33歳で従容として逝った生母のことが念頭にある。
男がもしもっと早い時期からブッダの教えを真剣に学んでいたならば、と思うことがあるが、その時期は若く元気で煩悩の真最中にあった。今の時代、生きて行くために学ばなければならないことが余りにも多く、ブッダの教えを学ぶ時間が余りにも少ないのだ。

ブッダ「真理のことば」第十四章を続ける。
183 すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄(きよ)めること、これが諸の仏の教えである。
184 忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は(道の)人ではない。
186 たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢者である。

2010年2月11日木曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(20)(20100211)

 男は昨日図書館に行き、『姓氏家系大辭典』で我が家のルーツについて調べてみた。この書物にはいろいろ詳しく書かれていて、自分のルーツが判り多少興奮した。

 とは言ってもその時代から860年も経っているし、それ以前からのことを合わせると千年も経っているので、自分と血が繋がっている人は無数にいる。特に男の郷里ではその地域に住む人々は昔を辿れば皆血縁がある人々であることは間違いない。皆同胞である。

 男はときどき思うことがある。今世間を騒がせている人たちは、そのルーツが歴史上のある特定の人物につながる人たちで、そこに集う人たちもそのルーツがその歴史上の特定の人物に関わりがあった人たちではないかと。

 古来、この国では自分の勢力圏を拡大させるため、血で血を洗う抗争を繰り返しながら、今日まで来ている。人々が尊敬する歴史上の武将も、見方を変えれば殺人者である。そこに集う人々も殺人に手を貸した人々である。

 今日、殺人は犯罪である。殺人の代わりにその相手の暮らしてゆく道を断つことを為す。それまで甲の暮らしをしてきたが、その道を断ち乙の暮らしを余儀なくさせる。支配欲の強い人はそのようにして世の中でのし上がってゆく。それを生存競争だといい、その競争に勝たなければ自己実現ができないと考える。それは自然なこと(自己保存)である。

 勝つためには独りでは勝てない。必然的に仲間を作る。それには金が要る。勝つと言う目的の為に金を集める。そして強い軍団を作り、相手の軍団と対抗する。今、まさに小沢氏が目論んでいることはそれである。勝つと言う目的の為、危ない橋を渡りながらも精力的にその目的に集中する。鳩山首相以下閣僚は朝廷の‘公家’のようなものである。

 古来、システムの優劣が戦いの勝敗を決している。強固なシステムを構築できた側が敵対する相手に勝つことができる。軍事も同様である。わが日本国はアメリカとの同盟により敵対する側より優位に立つことができている。しかし、相手の方もこれに対抗して強固なシステムを構築しようと努力を惜しまない。これが自然の姿(自己保存)である。

 自己保存力(自存力)はすべての物に存在する。これは自然の理である。

 男はこういう現実の中、日本国の真の安全のため、小沢氏に対抗する優れた‘武将’の出現を願っている。選挙に勝つことだけのために国の安全を軽視する小沢氏を男は認めない。

ブッダ「真理のことば」第十四章「ブッダ」
179 ブッダの勝利は敗れることがない。この世においては何人(なんびと)も、かれの勝利に達し得ない。ブッダの境地はひろくて涯(はて)しがない。足跡をもたないかれを、いかなる道によって誘(いざな)い得るであろうか。
180 誘(いざな)うために網のようにからみつき執着をなす妄執は、かれにはどこにも存在しない。ブッダの境地は、ひろくて涯(はて)しがない。跡をもたないかれを、いかなる道によって誘(いざな)い得るであろうか。

2010年2月10日水曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(19)(20100210)

  今日(8日、月曜日)、朝から温暖なよいお天気である。気持ちが良い。女房の帯状疱疹もかなり良くなった。帯状疱疹は一度罹ると免疫ができて今後これに罹ることはないらしい。昨年10月、大分の田舎に独居している91歳になる母(継母)が帯状疱疹になり、かかりつけの病院に入院したので男は女房と一緒に帰省したが、女房の帯状疱疹はそのとき母から感染したのかもしれない。母は退院し、自宅で塗り薬で治療したが、背中を流すとか髪を洗うとかの入浴の世話は女房がした。

  ウイルスは健康な身体の中では静かにしているが、過労とかストレスとか老齢とかの状況になると免疫力が低下し、ウイルスが活動し始めるのだろう。母の場合は入院して治療し、完治したころ退院しているので、ウイルスは残っていなかった筈である。そうであれば、女房の帯状疱疹のウイルスは子供の時から女房の身体の中に存在していて、じっとしていたことになる。多分そうであろう。ウイルスは生きた細胞に寄生しないでは増殖できず、寄生する相手がいなければ何百年でも待ち続けるということであるから・・。

  男のところに横浜地方検察庁から過料3万円を払えと言う納付告知書が来た。平成10年にお特定非営利活動促進法という法律ができてすぐ、男が代表になってあるNPO法人を立ち上げ、事業が順調に運びその法人の資産が増えたのにその届をしていなかったため過料を課せられたのである。男はその頃その届出が必要なことは知らなかった。

  昨年暮れ裁判所から突然そのような過料を課すという通知が来て、男は初めそれは裁判員のことかなと思っていたら、中身は過料のことであった。男はそのNPO法人の代表をもう何年も前に辞任していたのであるが、過料はそのNPO法人で支払ってくれることになっているので、今日は納付告知を以ってそのNPO法人の事務所に行った。そのNPO法人は男の後任者の指導のもと、よく活動して地域から高い評価を受けている。

  ブッダ「真理のことば」第十三章は「世の中」という題である。
この世は前世の来世であると夢窓国師はおっしゃった。(『夢中問答集』講談社学術文庫)
169 善い行いのことわりを実行せよ。悪い行いのことわりを実行するな。ことわりに従って行う人は、この世でも、あの世でも、安楽に臥す。

170 世の中は泡沫(うたたか)のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。

171 さあ、この世の中をみよ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺するが、心ある人はそれに執着しない。

175 以前には悪い行いをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。雲を離れた月のように。

177 物惜みする人々は天の神々の世界におもむかない。愚かな人々は分かちあうことをたたえない。しかし心ある人々は分かちあうことを喜んで、ゆえに来世には幸せとなる。

2010年2月9日火曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(18)(20100209)

自民、公明、みんなの党の3党が衆院に共同提出した石川知裕衆院議員に対する辞職勧告決議案について、「審議するに当たらないということで対処していく」と述べ、採決に応じないと言った民主党の山岡国会対策委員長は、小沢氏の側近であるということである。
テレビ報道によれば船田氏はインタヴューに応えて「自分は元小沢氏の側近であったが彼の気に入らないことをしたとして小沢氏から切られた。その後を山岡氏が継いだ。」という趣旨のことを言っていた。
権力により自分の気に入らない者を容赦なく切り捨てる手法は、ある意味では‘みせしめ’であり、古来よく使われてきた手法である。小沢氏は口下手であると聞く。言葉をよく使いこなす人であれば一応口頭で‘解雇’の理由を説明し、相手に一応の弁明の時間を与え、それで‘お別れ’ということになるだろう。小沢氏が野党の要求する国会での説明や参考人招致に応じないのは、彼が口下手のせいであろうと男は推測する。
平野官房長官は、民主党は永住外国人参政権付与については地方自治体の反対の意向に関わりなく国として永住外国人の権利を守るため推進すると言っている。これは「選挙に勝つ」ことが最重要であると考える小沢氏の意向を強く反映したものであろう。
男は民主党が夏の参議院「選挙に勝つ」ために、日本の国として最も重要なことを軽んじてはならないと思う。男は戦前に日本国籍であった在日の人たちと、そうでない人たち、特に戦後徐々に増えてきている中国人たちとを同一に扱うのは間違っていると思う。戦前日本人として扱われていた在日の方々は、日本への帰化により毎年減ってきている。そのような人たち、特別永住外国人には日本への帰化を促進する手段として地方行政への参加をある程度限定した形で認めることについて、男は検討しても良いと思う。古来、わが国は大陸から多数の移住者を受け入れてきた。その子孫は皆日本人になっているのだから。
一方で一般永住外国人の区分に入る中国人は年々増加している。日本は中国との間で近年相互交流が深まり、貿易、食料などの相互関係も非常に深まって来ている。いわゆる‘華人’は世界中の国々の中でコミュニティを作り、助け合っている。我が日本国内においても同様である。そういう状況の中、日本と中国の間で歴史認識、尖閣諸島や日中中間ライン近辺での石油基地の建設、不透明な軍拡などの問題できしみが生じている。そういう中で一般永住外国人に地方参政権を与えた場合、日中間の民族紛争の種子になりかねない。ここは選挙目的でなく、国の安全・安定に関わることとして慎重に考えるべきである。

ブッダ「真理のことば」第十二章は、題が「自己」である。民主党はよく考えて欲しい。
160 自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
166 たとい他人とっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。

2010年2月8日月曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(17)(20100208)

 今日(6日)も気温は低いが良いお天気である。男は自分の部屋の窓を全開にしてこれを書いている。女房が廊下を通りがかりに「寒いじゃない」と言う。男は「いや、このままで良い」と応える。女房は「じゃ、部屋を閉めてよ。寒いんだから」と苦情を言う。実は女房は昨年暮れ以来過労がたたって帯状疱疹を患い治療中である。安静が必要なのでお天気が良くても殆ど家の中にいる。ベランダで花に水をやったり、時々ひよどりがやって来て折角丹念に世話している花をかじったりするので、その対策を講じたりしている。

 帯状疱疹は完治するまで若干期間を要する。頬のできものは殆ど治ったが、腹部のまわりの疱疹は治りつつあるがまだ完治まで1、2週間かかりそうである。治療のため服薬と塗り薬を一日3回行っている。頬に発症したとき直ちに対処したことが良かった。

 帯状疱疹はストレスの積み重ねで免疫力が低下して発症する。男は女房の免疫力を高めるためいろいろ知識を総動員している。その一つに指の爪を揉むことと腹式呼吸がある。指の爪は薬指を除いて詰めの両端を軽く揉むのである。腹式呼吸は男が詩吟の吟詠を行うとき実行している方法である。短時間すっと鼻から息を吸い、ちょと腹に貯めて、その後できるだけ長い時間をかけて残りの息を吐き切るまで吐いて吐き続けるのである。

 男が尊敬する100歳のあるお方は指の爪を揉むことと両手の対になっている指先を合わせて両脇を上げて強く押すことをセットにして三回づつ行うこと、及び腹式呼吸法は息を吸うとき頭の額付近から吸い、吐くときは足の裏から吐くようにすることを教えて下さった。また食事は咀嚼を100回行い、消化をよくするように心がける。唾液は免疫力を高めるという。このような方法を実行すれば内臓を強化し、体温を高め、免疫力が高まるということである。事実男はそれを毎日実行して、最近体中に活力が漲った感じがしている。

さてブッダ「真理のことば」第十一章は「老いること」という題である。
146 何の笑いがあろうか。何の歓びがあろうか? 世間は常に燃え立っているのに。 汝らは暗黒に覆われている。どうして燈明を求めないのか?
147 見よ、粉飾された形体を! (それは)傷だらけの身体であって、いろいろのものが集まっただけである。病いに悩み、意欲ばかり多くて、堅固でなく、安住していない。
152 学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。彼の肉は増えるが、彼の知識は増えない。

訳注によれば「粉飾された形体」とはパーリ仏典では人間の身体あるいは人間の個体のことであるという。「どうして燈明を求めないのか?」という言葉にキリスト教の聖書にある言葉を思い出して聖書を取りに居間に行ったら女房がNHKの「永平寺修行の道」を観ている。男もその番組を観ることにした。とても良い番組であった。
永平寺にはバス旅行で行ったことがある。若い雲水たちが修行している姿を見て、男は自分がこの雲水たちにも遠く及ばない全くの凡人であるとつくづく思った。

2010年2月7日日曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(16)(20100207)

第十章 暴力
131 生きとし生ける者は幸せを求めている。もしも暴力によって生きるものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。
132 生きとし生ける者は幸せを求めている。もしも暴力によって生きるものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。

釈尊は過去世が有るとか無いとか来世が有るとか無いとか形而上学的な論議をすることを戒められて「無記」とされた。そういうことを議論するのは実践上全く役立たないからである。しかし、上記のように死後の世界のことを述べられている。昨日書いた「126 或る人々は[人の]胎内に宿り、悪をなした者どもは地獄に堕(お)ち、行いの良い人々は天におもむき、汚(けが)れの無い人々は全き安らぎに入る。」ということばの中にも死後の世界のことが語られている。男は釈尊は深い瞑想により時空を超越して過去から未来まで見ることが出来たのだと思う。そしてそのことを男は堅く信じている。
しかし男は、いわゆる何かの宗教を‘信仰’するということではない。釈尊をはじめ釈尊のお弟子さんたち、そして仏教を学び修行し、ある高いレベルの状態に達した高僧たち、例えば鎌倉から南北朝の時代、北条家、足利家、後醍醐天皇から深く帰依され、世に七朝の帝師と仰がれた夢窓国師が語られていることを少しも疑わず、信じているだけである。男が何度も読む『夢窓国師 夢中問答集』(講談社学術文庫)という本の中で良く出てくる言葉は「今生」とか「前世」とか「来世」とかいう言葉である。夢窓国師はこの問答集の中で「人界(にんがい)に生(しょう)を受くる人、貴賎異なりと云ふとも皆これ前世(ぜんせ)の五戒十善の薫力なり。」と述べておられる。
男は、仏(ブッダ、釈尊)と法(ブッダによって説かれた教法。Dharma、ダルマという。)と僧(ブッダに代わって民衆に仏教の理論や実践を伝え、民衆を指導教化する出家者の団体。sangha、サンガという。)(以上『仏教要語の基礎知識』(水野弘元著、春秋社)より引用。)、つまり‘仏法僧’を心から敬うことの幸せを感じている。
ところで、5日、衆議院予算委員会で自民党の石破氏と伊吹氏の発言とその発言を真摯に受け止めていた鳩山氏始め各閣僚、そして多少の不規則発言はあったが、伊吹氏の時には殆どそのような発言は聞こえず民主党の若い議員たちもよく耳を傾けていた状況を見て、男は日頃不安に感じていた気持ちがかなり和らいだ。民主党には党の綱領もなく、同好会や運動部のようにリーダーの指示に従い、この国を何処に持って行こうとしているのか判らない不気味さが漂っているが、それが特に長老伊吹氏の発言で幾分晴れてきそうな感じに思えた。伊吹氏は‘若い’宰相鳩山氏を‘爺’のように諌め、導いているようであった。石破氏は政権を取ったばかりで経験の浅い民主党議員、鳩山氏始め閣僚たちに、‘教師’が生徒たちを指導しているような感があった。男は今夜は心地よく眠れそうである。

2010年2月6日土曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(15)(20100206)

小沢氏の不起訴が決まった。しかしその内容は「嫌疑不十分」ということであって「嫌疑なし」ということではない。今後法廷の場で明らかにしてゆくということである。一方、小沢氏を擁護する輿石氏らはこれで疑いが晴れたと喜んでいる。党首の鳩山総理は「小沢氏に幹事長として参院選を戦って行く」と言明した。男は今後小沢氏を告発した市民団体も含め、検察審査会への申立てなどいろいろ攻勢をかけて行くことだろう。
男は民主党が旧政権で出来なかったことをやって行こうとすることは正しいと思う。ただし、条件がある。それは「中庸を外れてはならない。」ということである。昨年夏の選挙で政権をとったからとて、得票率も上で国民の過半数が民主党を支持したわけではない。中庸を外れ、革命じみたことをやってもらっては困る。公共事業の予算を18.5%も削ったことが果たして正しかったかどうか、地方に経済的ダメージを与え、かえって地方を疲弊させる結果にならなければよいがと男は思う。
小沢氏は永住外国人参政権を実現させようとしている。鳩山総理は「個人的にはそれに積極的な思いはある。」という。「参院選で過半数の当選者を出す」ということは、ある意味では‘公’的ではなく民主党の‘私’的な目標である。そのような目標を「国民のため」というのは思い上がった考え方である。それは大義でも正義でもない。こころある人々には「一体この国はどうなるのか。」という言い知れない不安感を抱かせている。旧ドイツのナチス政権は合法的な選挙で多数の議員を出し、ドイツをあのような国にし、人類史上類のない犯罪国家となった歴史を残した。民主党も同じに見える。「怖い」という感じである。

ブッダ「真理のことば」第九章は「悪」という題である。
117 人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。悪事を心がけるな。悪がつみ重なるのは苦しみである。
118 人がもしも善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心がけよ。善いことが積み重なるのは楽しみである。
120 まだ善の報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遭うことがある。しかし善の果報が熟したときには、善人は幸福(さいわい)に遭う。
126 或る人々は[人の]胎内に宿り、悪をなした者どもは地獄に堕(お)ち、行いの良い人々は天におもむき、汚(けが)れの無い人々は全き安らぎに入る。

小沢氏は検察が不公正であると言っていた。その心は「他の政治家もやっているのに。」という思いであっただろう。「清濁併せのむ」ことが必要であるという人がいる。男はそのような考え方は正しくないと思う。結局、小沢氏の‘子分’たちが泥をかぶり、‘親分’小沢氏を守りとおせるだろうか?男は「矛盾はいつか必ずほころぶ」と思っている。

2010年2月5日金曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(14)(20100205)

第八章は「千という数にちなんで」という題である。

100 無益な語句を千たびかたるよりも、聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞くほうが優れている。
110 素行が悪く、心が乱れていて百年生きるよりは、徳行あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
111 愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、智慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。
114 不死(しなない)境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。

「不死の境地」について、著者・中村 元は、訳注に「amatam padam.漢訳『法句経』には「甘露道」と訳している。古代インドでは甘露の汁液をamataと呼んだので、「甘露」と訳したのであろう。しかし原文ではそれを「飲む」とは言わないで、それを「見る」というからamataはやはり「不死」の意味である。」と言っている。

 さて、男はこの第八章を読んで、西行の作詩と夢窓疎石の作詩『修学』を思いだした。『至善』の詩文には「一日を一生として」という句がある。『修学』は;
  一日の学問 千載の宝  百年の富貴一朝の塵
  一書の恩徳 万玉に勝る 一言の教訓 重きこと千金
というものである。(関連記事:2009年12月10日木曜日、「老楽は唯至善を行うにあり(20091210)」、2009年10月2日金曜日「夢窓国師の作詞『修学』(20091002)」)
http://hibikorejitaku.blogspot.tw/2009/10/20091002-200909831-20090915.html

  夢窓疎石は夢窓国師とも敬称される。夢窓国師は建治元年(1275年)に伊勢の源氏の家(佐佐木氏)に生れ、母は平氏の出であった。77歳で没している。23歳の時円覚寺で才能を見いだされ、25歳の時元(中国)から来朝していた寧一山の許で建長寺の首座になり、その後紆余曲折はあったが寧一山の教えを受けている。鎌倉から南北朝の時代、北条家、足利家、後醍醐天皇から深く帰依され、足利尊氏の弟直義と問答をし、世に七朝の帝師と仰がれた方である。(関連記事:2009年10月1日木曜日、「前世、今生、来世(20091001)」)
http://hibikorejitaku.blogspot.tw/2009/10/20091001.html

  今、日本には国師はいない。ニュースで国民新党の亀井氏が国会で永住外国人参政権付与反対の立場で意見を述べていたが、男は亀井氏の発言に幾分救われた気持ちである。しかし小沢氏は起訴・不起訴について4日の時点ではまだはっきりしていない。男は、民主党の心ある国会議員たちまでもが旧海軍のエリートたちが犯した過ちのような「やましき沈黙」をして小沢氏に引きずられ、党首・総理の鳩山氏が煮え切らない態度を示し、この日本を間違った方向に持って行こうとしている不安感をどうしても拭いきれない。(「やましき沈黙」関連記事:2009年8月16日日曜日、「長崎への原爆投下(20090816)」)
http://hibikorejitaku.blogspot.tw/2009/08/20090816-63km-850-nhk40065-wasp.html

2010年2月4日木曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(13)(20100204)

 第七章の題は「真人」である。訳注によれば、「真人」とは、「arahant.サンスクリットでは、arhat.尊敬さるべき人、拝まれるべき人、尊敬供養を受けるべき人の意。修行を完成した人。漢訳では「阿羅漢」「羅漢」などと音写する。「応供」、「応真」とも訳し、意訳して「真人」ともいう。」とある。

 とかく仏教の用語は難しい。われわれ凡人が仏教に親しもうとしても、なかなか取り付きにくい。でも、男は「阿羅漢」の意味がパーリ語のarahantの音写であること、その意味が「尊敬さるべき人、拝まれるべき人、尊敬供養を受けるべき人、修行を完成した人。」であることを知った。修行を完成しないと阿羅漢にはなれないのだ。

 となると、男のように煩悩を断ちきれない者はちょっとやそっとでは阿羅漢に列せられることはできない。しかし、人生の旅路の終わりごろになれば、煩悩も断ち切れるかもしれない。人は、必ず訪れる人生の最期に向けて、すこしでも涅槃の心境に近づくように努力すべきものなのだ。それは、政治家でも学者でも宗教家でも皆同じなのだ。

90 すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆(きずな)をのがれた人には、悩みはそんざいしない。
96 正しい智慧によって解脱して、やすらいに帰した人、そのような人の心は静かである。ことばも静かである。
97 なにものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆(きずな)を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、かれこそ実に最上の人である。

 「智慧」という用語について『仏教要語の基礎知識』(水野弘元著、春秋社)によれば、智慧には世俗的なものから仏の最高の智慧までいろいろなものがあるということである。その段階の一つに、「初歩の悟りの智慧」があり、その上の智慧は「阿羅漢の智慧」である。仏教の最後の目的は悟りの智慧を得ることにある。最澄や空海の時代には智慧について学ぶにもよい書物やよい師はなかなかいなかったであろう。今の時代には男のような凡人にも理解できる仏教関係の書物が沢山ある。これは大変幸せなことである。
訳注には、「解脱」とは「束縛を離れた自主の境地である。」とある。束縛を離れ

 るにはどうしたらよいか、ブッダはその体系について教えて下さっている。『仏教要語の基礎知識』や『仏教の基礎知識』(いずれも水野弘元著、春秋社)にはその体系のことが説明されている。仏教について学ぼうという気持さえあれば、まして人生経験を積んだ老人であるならば、それを学ぼうとしない人よりも早く、ある程度の「智慧」を身につけることはできる。

男 は女房とともに、ついこの間100歳になられたある在家の僧侶の方から戒名を頂いた。その戒名に恥じないように「智慧」の習得・会得に努めなければならないと思う。

2010年2月3日水曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(12)(20100203)

女房が録画していたテレビ番組「サイエンスZERO」を再生したら、アポトーシスのことが出ていた。がん細胞は‘アポトーシス’を忘れた細胞であるとのことである。細胞のアポトーシスはカスパーゼという酵素により引き起こされるらしい。それも一定時間が経つとアポトーシスを引き起こすように予めプログラムされているということである。なぜそのようなプログラムがなされているかというと、それは種の維持のために必要であるからであるという。人間の細胞のアポトーシスは60回ぐらいで終わり、それとともに寿命が尽きるという。亀は120回ぐらいだそうで人間より長生きである。
男はこの四月から放送大学に再入学して「自然と環境」を専攻し、分子生物学や量子科学、宇宙科学などを勉強しようと計画している。その学問は、2500年前に釈尊が語られたものに相通じるものがあると男は考えている。『世界に開け華厳の花』(華厳宗管長・森本公誠、春秋社)によれば、『華厳経』は小なるものの世界に大いなる世界が内包されているという思想を説いているということである。
奈良時代の第45代天皇・聖武天皇(701年‐756年、在位: 724年‐749年)は華厳経の普及を図り、全国に国分寺を建立し、この国分寺に派遣する僧侶を養成するため奈良に東大寺を造営し、見習い僧に声明(しょうみょう)(言語・文法)、因明(いんみょう)(仏教論理学)、内明(ないみょう)(仏教教義)、工巧明(くぎょうみょう)(建築・土木)、医方明るい(いほうみょう)(医術・薬草)の五つの学問を習得させた。
その東大寺の大仏はビルシャナ仏(盧舎那仏)で、ビルシャナとはインドの言葉でヴァイロシャーナと言うそうである。その意味は「宇宙いっぱいに光り輝いているお方」という意味だそうである。確かにこの宇宙は137億年前、一点から光が発して出来たものである。
この大仏建立時、巨大な仏像に塗金するための黄金が必要であったがそれが不足していた。そのようなとき663年の白村江の戦いで日本が百済を救うことが出来ず、王族・貴族ほか多数の避難民が日本に引き揚げてきて日本に帰化していた王族の子孫で陸奥守として陸奥に派遣されていた百済王敬福が陸奥の小田郡(現在の宮城県遠田郡涌谷町一帯)で金を発見し、聖武天皇に大量の金を献上した。そのことが『日本書紀』に書かれている。

ブッダ「真理のことば」第六章の題は「賢い人」である。
85 人々は多いが、彼岸(かなたのきし)に達する人々は少ない。他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。
86 真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸(かなたのきし)に至るであろう。

彼岸は涅槃のことである。証明されないかぎり頭から信じようとしない現代人は、科学を通じて証明されたことなら信じることができる。男の上記の学問はそのためである。

2010年2月2日火曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(11)(20100202)

第四章は「花にちなんで」という題である。
46 この身は泡沫(うたたか)のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。

ここで訳注に「悪魔の花の矢」とは「欲界」「色界」「無色界」の三界のことであるとあり、「死王にみられないところ」とは、「不死の大ニルヴァーナ」をいうとある。本能寺の変の織田信長も、忠臣蔵の浅野内匠頭も、「この身は泡沫(うたたか)のごとく」と思い、死に赴いたのだと男は思う。
先の大戦で戦地に赴き死んだ兵士たちも、戦艦大和の乗組員たちも、特攻隊の隊員たちも、自らの命を捨てる時「大ニルヴァーナ」の状態に近かったのではないか男は想像する。勿論、最期のとき、「無念」「生きたい」「無駄死したくない」などの煩悩もあったに違いない。しかし、そのような人々のことは、「不死のたましい」として何百年も千年も先々まで語り継がれて残ってゆくのである。歴史認識も違う国にへつらって靖国神社を軽んずる政治家たちは、とんでもないやつらである。売国奴である。国賊である。

50 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。

50も60もなって、政治的信条に基づき発言し、行動する者には、このことばはあてはまらないと男は思う。「過失」なんかじゃない!彼がしたことは全国民が見ている。それを「見ない」というのは偽善である。ただ、自分のしたこととしなかったことを反省しなければならない。その反省の判断の基準は、「12 まことであるものを、まことであると知り、まことでないものを、まことでないと見なす人は、正しきおもいにしたがって、ついに真実(まこと)に達する。」ということばにある。まこととは「精、精髄、堅牢、真利」である。打算的な考えで「政治的大義」を掲げることは、人々を欺くことであり、「まこと」ではない。愚かな人々は彼の言う「大義」に騙されたのだ。彼の‘こどもたち’も彼に騙された者が多いであろう。男はこころ正しき指導者の出現を願っている。

第五章のタイトルは「愚かな人」である。
61 旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱり独りで行け。愚かな者を道伴(づ)れにしてはならぬ。

この乱れた国を正すため、聖徳太子が姿を変えて現れて下さることを男は願っている。

2010年2月1日月曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(10)(20100201)

女房は数日前発症したようであるが、右頬におできが出来て医者に行ったら帯状疱疹の可能性があると診断され、化膿止めの抗生物質と帯状疱疹のウイルスを抑える抗生物質などが処方された。一昨日は右側の耳の下の首辺りから頭にかけて痛みがあったが、それは薬で抑えられたようである。ところが昨日は左側の同じところに痛みが来た。帯状疱疹のウイルスをリンパ腺で抑えようとしているらしい。それも今日はだいぶ改善された。
当面安静が第一であるので、女房は家で録画していた紅葉の石山寺などを観ている。男もテレビ画面に写る美しい景色に見とれた。わが国には代々守り継がれてきた素晴らしい歴史的遺産がある。日本は本当に素晴らしい国である。この日本という国の形を、野心家の政治家の、欺瞞的な大義名分をかざした政治家の、私利私欲の行動のために決して壊されてはならないと思う。「国民よ、目を覚ませ!」と男は腸を絞る思いで叫びたい。
そういうわけで今日は男は独りで川の周りを散歩した。お天気もよく気持ちがよい。午後も遅い時間であったので太陽が傾き水面に映えている。鉄橋の上を電車がゴトンゴトンと走っている。釣りを楽しむ人たちが川に釣り糸を垂れたまま語り合っている。ジョギングしているカップルがいる。犬の散歩をさせている女性がいる。老いた女が独りで散歩している。向こう岸では子供たちの野球チームが試合をしていて元気な声を出している。やがて日は丘陵に沈み、人々の暮らしの一こまが終わる。かくして時は流れる。
2500年前、インドの大地で釈尊は弟子たちに法を教えを説いた。釈尊が語られた言葉は書きとめられ、後の世に伝えられ、代々引き継がれてきた。法隆寺の聖徳太子像も、その教えとともに代々僧侶たちによって守られ、伝えられてきた。日本は本当に素晴らしい国である。このようにして、今日に至ってなお釈尊は私たちに生き方の教えを説かれている。本当に有り難いことである。「私は政権獲得という一点だけでこれまで行動してきた」と、もっともらしい大義名分を掲げ、そのようにして私利私欲を欺瞞的な衣で隠している政治家の野心を、党利党略を、人々はやがて見抜き、厳しい罰を与えることであろう。

ブッダ「真理のことば」第三章は「心」と題されている。
40 この身体は水瓶のように脆いものだと知って、この心を城郭のように(堅固に)安立して、智慧の武器をもって、悪魔と戦え。克ち得たものを守れ。しかもそれに執着することなく。
43 母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。