2010年2月2日火曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(11(20100202)

第四章は「花にちなんで」という題である。
46 この身は泡沫(うたたか)のごとくであると知り、かげろうのようなはかない本性のものであると、さとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。

ここで訳注に「悪魔の花の矢」とは「欲界」「色界」「無色界」の三界のことであるとあり、「死王にみられないところ」とは、「不死の大ニルヴァーナ」をいうとある。本能寺の変の織田信長も、忠臣蔵の浅野内匠頭も、「この身は泡沫(うたたか)のごとく」と思い、死に赴いたのだと男は思う。
先の大戦で戦地に赴き死んだ兵士たちも、戦艦大和の乗組員たちも、特攻隊の隊員たちも、自らの命を捨てる時「大ニルヴァーナ」の状態に近かったのではないか男は想像する。勿論、最期のとき、「無念」「生きたい」「無駄死したくない」などの煩悩もあったに違いない。しかし、そのような人々のことは、「不死のたましい」として何百年も千年も先々まで語り継がれて残ってゆくのである。歴史認識も違う国にへつらって靖国神社を軽んずる政治家たちは、とんでもないやつらである。売国奴である。国賊である。

50 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。

5060もなって、政治的信条に基づき発言し、行動する者には、このことばはあてはまらないと男は思う。「過失」なんかじゃない!彼がしたことは全国民が見ている。それを「見ない」というのは偽善である。ただ、自分のしたこととしなかったことを反省しなければならない。その反省の判断の基準は、「12 まことであるものを、まことであると知り、まことでないものを、まことでないと見なす人は、正しきおもいにしたがって、ついに真実(まこと)に達する。」ということばにある。まこととは「精、精髄、堅牢、真利」である。打算的な考えで「政治的大義」を掲げることは、人々を欺くことであり、「まこと」ではない。愚かな人々は彼の言う「大義」に騙されたのだ。彼の‘こどもたち’も彼に騙された者が多いであろう。男はこころ正しき指導者の出現を願っている。

第五章のタイトルは「愚かな人」である。
61 旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱり独りで行け。愚かな者を道伴(づ)れにしてはならぬ。

この乱れた国を正すため、聖徳太子が姿を変えて現れて下さることを男は願っている。

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