2010年2月4日木曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(13(20100204)

 第七章の題は「真人」である。訳注によれば、「真人」とは、「arahant.サンスクリットでは、arhat.尊敬さるべき人、拝まれるべき人、尊敬供養を受けるべき人の意。修行を完成した人。漢訳では「阿羅漢」「羅漢」などと音写する。「応供」、「応真」とも訳し、意訳して「真人」ともいう。」とある。

 とかく仏教の用語は難しい。われわれ凡人が仏教に親しもうとしても、なかなか取り付きにくい。でも、男は「阿羅漢」の意味がパーリ語のarahantの音写であること、その意味が「尊敬さるべき人、拝まれるべき人、尊敬供養を受けるべき人、修行を完成した人。」であることを知った。修行を完成しないと阿羅漢にはなれないのだ。

 となると、男のように煩悩を断ちきれない者はちょっとやそっとでは阿羅漢に列せられることはできない。しかし、人生の旅路の終わりごろになれば、煩悩も断ち切れるかもしれない。人は、必ず訪れる人生の最期に向けて、すこしでも涅槃の心境に近づくように努力すべきものなのだ。それは、政治家でも学者でも宗教家でも皆同じなのだ。

90 すでに(人生の)旅路を終え、憂いをはなれ、あらゆることがらにくつろいで、あらゆる束縛の絆(きずな)をのがれた人には、悩みはそんざいしない。
96 正しい智慧によって解脱して、やすらいに帰した人、そのような人の心は静かである。ことばも静かである。
97 なにものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆(きずな)を断ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、かれこそ実に最上の人である。

 「智慧」という用語について『仏教要語の基礎知識』(水野弘元著、春秋社)によれば、智慧には世俗的なものから仏の最高の智慧までいろいろなものがあるということである。その段階の一つに、「初歩の悟りの智慧」があり、その上の智慧は「阿羅漢の智慧」である。仏教の最後の目的は悟りの智慧を得ることにある。最澄や空海の時代には智慧について学ぶにもよい書物やよい師はなかなかいなかったであろう。今の時代には男のような凡人にも理解できる仏教関係の書物が沢山ある。これは大変幸せなことである。
訳注には、「解脱」とは「束縛を離れた自主の境地である。」とある。束縛を離れ

 るにはどうしたらよいか、ブッダはその体系について教えて下さっている。『仏教要語の基礎知識』や『仏教の基礎知識』(いずれも水野弘元著、春秋社)にはその体系のことが説明されている。仏教について学ぼうという気持さえあれば、まして人生経験を積んだ老人であるならば、それを学ぼうとしない人よりも早く、ある程度の「智慧」を身につけることはできる。

男 は女房とともに、ついこの間100歳になられたある在家の僧侶の方から戒名を頂いた。その戒名に恥じないように「智慧」の習得・会得に努めなければならないと思う。