2011年8月16日火曜日

福島第一原発事故を考える(続き) (20110816)

  731日の日曜討論を聞いていて思った。福島第一原発の放射能汚染事故発生の原因は幾層にもある。その最下層の一つ上に勿論未曾有の大津波による電源の喪失、給電配線・原子炉等燃料冷却システムの破損等がある。最下層は、この未曾有の事態も想定した原発設計思想の欠落がある。このことは事故調査・検証委員会で当然考えているだろう。

  最下層から三段上の層に、原発と言うモンスターのようなシステムを制御する上での関係者の気の緩みがある。定期点検を怠ったり、不具合を放置したり、「ま、大丈夫だろう」という慢心があったり、過去の世界原発事故の対処から真摯に学ぶという態度の欠如があったり、菅首相自ら原子炉事故対処訓練を軽視していたりで、総じて「危機管理」に対する国を挙げた取り組みに欠けていたことがある。故に、この事故は人災である。

   その上の層に、特に戦後初期生まれの世代に属する菅首相はじめ日本の多くの指導層の国家意識の欠如がある。年寄りたちは「戦前の日本は悪いことをした」「日本は侵略国家であった」という間違った観念を植え付けられていて、無意識的にその観念に基づき物事を判断していることに自ら気づいていない。そのためたとえば菅首相は「市民活動団体」を名乗る反日的団体に6250万円もの寄付をしたり、在日外国人から寄付を受けたりし、国旗国歌法案に反対し、国会で「国歌はもっと別なものが良い」と堂々発言したりする。

   私自身直接耳にするが、そのような世代の人たちの中には、今回の大震災で意識を変えたかもしれないが、「自衛隊が嫌いだった」と言う人が多いようである。そういう感覚であるから、「百年兵を養うはただ一日の戦に備えるため」という考えはないし、「軍事は外交の手段」ということを理解できないし、まして「軍は国の背骨である」という認識はない。甚だしいことは、「軍は常に有事に備え、平素から与えられた資源を使い可能な限りの準備をしているものだ」ということを全く理解していない。スリーマイル島原発事故のとき、時の大統領ジミー・カーターが執ったような措置を、菅首相は執ることができなかった。

   菅首相は原発事故対処について在日米軍が核爆発に備えた能力を持っていたことを知らなかったから、福島原発原子炉メルトダウンやガス爆発が起きる危険が迫っていた時、在日米軍の能力を利用する発想をもつことが全くできなかった。しかし、これは菅首相だけを責めるべきことではない。彼のリーダーとしての資質のことは別にして、国民多くの意識が「武」を忌み嫌うものであった(または‘ある’)から仕方がないことである。

  そういう状況である中、東日本を中心に日本の大部分に放射能汚染の危険が迫ろうとしたとき、自衛隊はその現場に居た。原子炉冷却のため真っ先に行動したのは自衛隊であった。しかも全国各地から駆けつけた各飛行基地の消防小隊の隊員たちが身の危険も顧みず放射線量が非常に高く危険な現場で放水活動をした。14日午前11時路、3号機爆発より原子炉への給水活動をしようとしていた自衛隊員と東電社員が負傷した。現場で作業していた自衛隊員たちは主に下士官・兵たちで、自ら志願し駆けつけた人たちであった。前掲『東京電力の大罪』に作家・麻生 氏が寄せている感動的な記事中に、この部分がある。

2011年8月15日月曜日

福島第一原発事故を考える(続き) (20110815)

 利己心は「自存」力から生じる。特攻など自己犠牲が美徳とされた時代から、戦後は自分を大切にすることを美徳とする時代に変わった。自己犠牲を名誉に思う「武士道」精神は否定され、人々は私利私欲の行動に対して一応非難はするが、我身を顧みてそのような行動に対して寛容になったように思う。

  “「米国が考えている対処法はただ一つ。軍隊による原発の封鎖です」”これは前掲唐川伸幸氏(FEMA外郭団体IAEM『国際危機管理者協会危機管理官』)の言葉にある。

  “DARTは三沢だけでなく、横田基地にも配備されている。米政府は日本の首相官邸に「要請があれば、いつでも支援する」と伝えている。ところが首相官邸からは一向に具体的な要請がなかったのだ。唐川氏が続ける。「DARTの七十人は原子力災害に対応する訓練と教育を受けています。万が一のために家族への手厚い補償も約束されている。彼らは要請がなかったため出動できず、水素爆発を防ぐことができなかった。

  次にできることは、現場に突入して、内部の被害状況を調査し、米国で待機している第二陣とともに作業を立てることです。

  放射性物質流出を防ぐ手法はいろいろあります。ヘリコプターを使って、上から天井付きのフレームを降ろし、コンクリートで外壁をつくる。あるいはコンクリートや鉛を投下する。温室のようにコンクリートのシールドで原発をすっぽり包み、その後にトンネルを掘って内部処理をする。外部電力、クーリング装置をはじめ、そうした設備が一式あり、作業もすぐにできます」”

  “菅首相は、その電話で(佐賀大学元学長で五号機の腹水器の設計者)上原氏に次から次へと疑問を投げかけたのだという。菅首相は『きちっとしたことがわからないと判断できない』と言い訳したようですが、この切迫した状況下、総理は大局的な判断をすることが大事で、技術的な細かい点は、専門家に任せればいい。一体何をやっているんだ、と周囲も首を傾げていました」(別の首相官邸関係者)”

  『きちっとしたことがわからないと判断できない』という気持ちは、菅首相の「自存」力から出た言葉である。「自分が最も大切」なのであって、国家や国民のことを考えてはいないように、外からは感じられる。「最後に俺が責任を負う、あらんかぎりの智慧を集め、精一杯のことをやってくれ、人材・資金等精一杯応援はする、細かいことはいいから適宜要点や俺への要求を話してくれ、頼んだぞ」と言われれば、部下は命を懸けて頑張るだろう。それを、「俺が原子力の専門家だ、俺が理解できないことはやってもらっては困る」と言われれば、誰も自分の「自存」のため自ら命を懸けてまで働こうとは思わないだろう。

  昔人民は「宰相」を選挙で選ぶことは出来なかった。今の日本は「宰相」になった人を「官邸」から追い出す制度はない。「不信任決議」が為されても本人が居座る気であれば、国がどんなに不利益をこうむっても「解任」できない。それは国の「自存」を危うくする。

2011年8月14日日曜日

福島第一原発事故を考える(続き) (20110814)
 野生動物でも自分の身に危険が迫っていることを察知すると、より安全な方向に逃げる。これは野生動物に自ずと備わっている「自存」力によるものである。人間でも同じように自分の身を守るための行動をする。行動の方向は「情報」によって選択される。
 生物なのか非生物なのかはっきりしないウイルスでさえ、「自存」のため一定の行動をしていると思われる。ウイルスは増殖できる環境に入り込むと途端に増殖を始める。それまではじっとしている。何がそうさせるのか?それは生物化学の分野の研究対象であろう。人も動物も「情報」を察知したら、自分が「快感」を得られる方向に行動する。逆に「不快」になる方向からは逃げる。何が「快」で何が「不快」なのかの選択は究極的に細胞の分子レベルで行われる。これは化学の世界で行われていることである。
 危険な作業を外国人労働者を雇って行ったり、必要な点検作業を会社の利潤追求、ひいては役員の報酬・従業員の処遇等のためおろそかにしたり、人命を最優先するため必要な原子炉の冷却よりも、廃炉による損失を重要視した東電役員の姿勢も、みな、それぞれの「自存」の行動であった。しかしそこに間違った「自存」力が働いている。それは、「他人のことはどうでもよい、自分さえよければそれでよい」という利己心である。
 そのような利己心に気付こうとしないから、原発周辺の住民に対する「情報」の提供が全く不十分であった。動物なら自ら察知する「情報」が、住民に対してはコントロールされたものになっていた。そればかりではない。政府は「住民の混乱を避けるため」であったとされるが、間違った「情報」を住民に提供した。そこに菅首相はじめ枝野官房長官ら政府高官の利己的な「自存」力が働いていなかったか?つまり「政権を守る」とか「この際政権浮揚に利用しよう」とかいった思惑は全く無かったか?原発事故調査・検証委員会は、そういった人間の心理状況まで踏み込んだ調査を行い、全国民の前に明らかにし、将来の教訓として考査結果を活かすようにして貰いたいと思う。前述の本に;
 “福島県の楢葉町役場では十二日の朝から「南に向かって下さい」と防災無線でアナウンスし続けたが、七十代の女性はこう言う。「南に向かってくれと言われても、何のことか、わからんのさ。じいちゃんは足が悪くて、脳梗塞を患っているし、私ら年寄りにはよくわからん。・・(後略)・・」”
 “原発より北側では、「北に避難して下さい」との指示が流れた地域もある。避難所の住民に話を聞くと「役場に聞いても『全然分からないんです』というばかり」という。”
 “「米政府は軍事衛星の角度を福島原発に向けて、リモートセンシング(観測)し始め、また無人偵察機で上空高硬度から撮影も始めました。その結果、原発内は予想以上に悲惨案状態だと認識したのです」(米FEMA「連邦緊急事態管理庁」外郭団体管理官唐川氏)”
 “「一号機の水素爆発が起こる前、米政府は青森県三沢基地にDARTと呼ばれる七十人の部隊の配備を命じています。・(中略)・二十人の科学者と五十人の実働部隊で構成され、・(中略)・急速冷却装置などを使って水素爆発を止める用意をしていました。・(後略)・」”

2011年8月13日土曜日

福島第一原発事故を考える (20110813)

 書店に立ち寄ったら目に止まったのが週刊文春臨時増刊号「東京電力の大罪」である。表紙の下部に“週刊文春」取材スタッフが総力で暴いた”“「黒い独占企業」東京電力の正体”とサブタイトルが書かれており、「完全保存版」という赤字の表示がある。

 私はしばらくこの本を立ち読みしていたが、後世のためにやはり買っておくことにした。今この本を私の哲学的思索のテーマである「自存」の観点で読みながら、目に止まった幾つかの記事をここに引用メモしておく。私はこの本を斜め読みするうちに、この本で明らかにされていることは、今後事故調査委員会でもチェックポイントになると思った。

  “「三号機か四号機のどちらかでプールから水が外に出たと聞きました。プールの水は、原発の中でも特に線量が強くて危険なのです。だから、『ダイバー』と呼ばれるプール内での点検作業員は、みな外国人・・(以下略)」(Aさん)”

  “小誌は、事故当日に福島第一原発で作業していた男性から、重要な証言を得ている。「あの日、俺は四号機の仕事をしていた。地震で逃げ出すとき、歩きながら一号機を見たら、原子炉建屋の壁にヒビが入っていた。見上げてよく見ると、天井に近い側面の壁が崩れ落ちていたんだ。四十年も使って寿命だったんだよ。水素爆発ではなく、地震で既に壊れていたんだ。」”

   “今年、実は東電は保守点検を実施していないとして、経済産業省の原子力安全・保安院より行政処分を受けていたのだ。まず、今回爆発した福島原発の一号機は、三十三の機器が点検を怠っていた。最長で十一年も点検をしていない機器もあったという。”

  “一方、東京・内幸町の東電本社には役員たちが集まり、ある議論が始まっていた。一刻も早い冷却のために当然考えなければならない海水の注入。しかし、「純水、淡水の注入で何とかならないか」という声が湧きあがったのだ。”
  “前出の東電関係者が話す。「正直、海水を注入するなど頭にはなかった。水素爆発も予想していませんでした。・・(後略)・・」”

  “当初、東電と保安院は、首相官邸に「問題はありません」と報告、しかし、「官邸で斑目春樹・原子力安全委員長が『水素爆発の可能性はあるけれど、問題はありません』と説明したのです。菅首相は『爆発があったら、まずいじゃないか』と怒り出した。”

  “案の定、翌日、一号機が爆発するのですが、その前に東電として逡巡があった。「原子炉格納容器の圧力弁を開けて圧力を下げること(ベント)を考えましたが、弁を開けると放射性物質が漏れる可能性がある。」(同前)”

  “迷っている間に、放射性物質漏れも爆発も起きて、作業が一層困難になった。すべてが裏目に出たのだ。”

  “爆発したのは、正確には午後三時三十六分。ところが――。(経産省の役人から渡された)メモを見た後に、菅首相は『放射能漏れはない』と断言している。・・(中略)・・(枝野長官が)爆発の内容を発表したのも、一報から二時間後。これは情報コントロール・・”

2011年8月12日金曜日

素人考えだが中国は国家体制を変えざるを得なくなるだろう (20110812)

 BSフジの報道で初めて知ったが、中国では今回の高速鉄道事故以外に、日本では信じられないような事故が幾つも起きている。そのような事実はほかのメディアでこれまで取り上げられてきただろうか?政府による情報統制が行われているとしか思えない。

 上海では超高層マンションがある日突然倒壊し、入居予定だった人たちが政府に抗議している。その倒壊したマンションの周囲には幾棟もの同じような超高層マンションが立ち並んでいる。場所まで注意して視聴していなかったので詳細不明であるが、建設中の鉄塔が途中で折れてしまっている。高速道路が陥没し下に落下したタクシーが一台ある。洋上一面に非常に長く美しい高速道路網が完成したが、その道路の柵の固定ボルトが何本も抜け落ちたり良く絞められていなかったりしている。人が住んでいるある高層マンションの一部が倒壊し、その事故を調査した上海当局は、「検査結果残っている部分は住むうえで問題はない。安全である」と宣言している。

 今回の高速鉄道事故で中国政府は事態を重く見、事故6日後温家宝首相自ら外国メディアの撮影も許可の上現地でアナウンスし、「事故原因を徹底的に調べ、関係者を厳重に処罰する」と言った。中国では今回の事故のことでツイッターに毎日65千件の投稿があり、中国政府もその投稿を制御できないでいる。

 中国政府は国の発展上インターネットを無くすことはできない。かといってネット上の発言すべてをチェックし削除することもできない。エントロピーの法則のとおり、時間の経過とともに複雑性は増加してゆくが、その増加を問題のない方向に導くように制御する手段は「蛇の道は蛇」「虎穴に入らずば虎児を得ず」の諺のとおり、その複雑性の中にしかない。共産党一党独裁のシステムではその手段を得ることは極めて困難だと思う。

 中国では共産党の思想に基づき表向き「階級社会」を無くすことができた。土地はすべて国有である。しかし、共産党員になり教育をしっかり受けたものでなければ社会の指導的地位に就くことはできない。社会の指導的地位に就くことができれば安定した収入、それもかつて明治の頃、日本で大学を出れば高い地位と収入が得られたように、高収入と安定した職業生活ができる。しかし中国には日本の「武士道」精神のようなものはない。

 そのような指導的階層の人たちと、そうでない特に農村部の人たちとの間で社会的・経済的大きな格差が生じているのが今の中国の現状である。農村部と都市部のそれぞれ人々は戸籍が別で、農村部から自由に都市部に移住することは出来ない。日本では信じられないことばかりであるが、これが「清王朝」の後の「共産党王朝」の現実である。

 中国では指導的階層の人たち、筋金入りの共産党員たちは、官僚として自分たちの利益を守ろうとしている。一方、少し豊かになり、いろいろな情報も手に入れるようになった農民など下の階層の人々は「富を我々にもよこせ」と声を上げるようになっている。このことはどちらの階層でもそれぞれの利益を獲得しようとする「自存」行動の現象である。

 そこに「矛盾」が拡大し、何時の日にか「共産党王朝」は滅びるに違いない。

2011年8月11日木曜日

相手の感情におもねって尊敬されるだろうか?(20110811)

 韓国は日本海のことを「東海」と言い、コリアンエアー機内の地図表示はそのように表示されている。韓国は国際社会に対して竹島を「独島」と、日本海を「東海」と認めさせようとしている。韓国がそのように願望する原因に歴史認識の相違がある。

 2009119日付読売新聞記事に日韓歴史共同研究の委員・神戸大木村幹教授の寄稿がある。これは、平行線のままに終わった「日韓歴史共同研究」についてインターネットで調べているうちに見つかった資料である。その中に次の一節がある。

“韓国の歴史においては、事実は優先されません。彼らの民族性優位や優越感、または政治的・外交的優位という概念を満たすために歴史観が作られ、その歴史観は全ての事実に優先されます。つまり、彼らにとって事実や真実などどうでもよいことなのです。もし、それに反対し真実の歴史を追い求めようとする人物が現れると、それが政治家であれ、大学教授であれ、芸能人であれ社会的に抹殺されます。それが韓国社会なのです。”

 日本は中国や韓国と親しい関係になれるだろうか?私は「否」であると思う。なぜなら日本と中国、また日本と韓国、それぞれの間にいくら努力しても埋めきれない「心の溝」の問題があるからである。中国人には「自分たちが世界の中心である」という「中華」の思想がある。韓国には「自分たちは日本に打ち克たねばならない」という強い思いがある。それに対して日本は中国に対して聖徳太子の昔から対等以上の意識を持っているし、韓国に対しては、韓国は日本の防波堤であるという意識をもっている。

豊臣秀吉が朝鮮に派兵したのは彼の野心もあったと思うが、当時シナに食指を伸ばしていたスペイン・ポルトガルに対する警戒から行ったことであった。(関連記事:「秀吉の朝鮮出兵(20101017)」~「同(20101019)」、「日露戦争前哨戦(続)(20110714)、同(20110715)」)

 しかしこの問題を小さくする方法はあると思う。今、韓流ブームで『イ・サン』など韓国の歴史ものが一部の日本人の娯楽になっている。おそらくそれらのドラマを楽しんでいる人たちは韓国が好きになるだろう。

そこで、同じように日本も日本の歴史に基づくドラマを、できるだけ面白く創って韓国人に楽しんで貰うようにすればよいと思う。その際ドラマの創り方について韓国人の演出家にも協力して貰えばよい。ただ、ここで注意することは、日本人自ら歴史をまげてまで韓国人に阿ることだけは決してしないことである。中国に対しても同様である。日本は「中華思想」の向こうを張って「東方の光・日本中心思想」を前面に押し出し、中国人が観て面白がるドラマを作ればよいと思う。この場合も、日本の歴史にあくまで忠実なドラマとすることが重要である。中国人に決して阿ってはならないと思う。

一方、ドラマを面白おかしく創る場合でも、中国人や韓国人の自尊心を重んじることは最も重要である。自尊心を重んじながら、ドラマを通じて“誰でも、どの国でも「自存」欲求があり、日本も中国も韓国も皆その「自存」のため○○○をしている”というメッセージを発信し続けるのである。日中・日韓友好関係深化のためこのアイデアはどうだろう?

2011年8月10日水曜日

数学に夢中になっている人たちが増えたようであるが・・(20110810)

 受験勉強時代に数学が嫌いになった人たちが今数学に夢中になっているようである。オイラーの公式、自然対数eのθ乗はマイナス1(-1)であることを、市販のテキストにより70日間かけて理解したサラリーマンがいる。

私も数学には興味がある。若いころテーラーの公式とかデデキント自然数論とかを勉強したことがあった。数学者たちが願い年月をかけて研究し辿り着いた定理や公理・公式を、現代の我々が今、そのような定理・公理・公式を得るまでの過程を、ある意味で「数学の遊び」として楽しんでいる。その過程はなかなか容易ではないので、市販のその種の本を指導コーチとして、ある意味で修行をするようなものであるという。そのような「数学の遊び」で結果を得るまでの過程で、「発想の転換」が無ければ結果が得られないという。

起きた問題を解決するための思考法について、様々な本が売られている。問題を解決する一つの方法は、「似たような事例」を参考にすることである。また、「押してダメなら引いてみよ」という諺どおり、「逆転の発想」も必要である。

私はこれまで中国が第一列島線、第2列島線という線を引き、その中に「核心的利益」を見ていることについて、日露戦争のことを取り上げ、「自己保存」というキーワードで我々日本人は中国の行動に対処する方法を考えてきた。「似たような事例」を参考にしたり、「逆転の発想」をすることにより、我々が日ごろ気づいていない、あるいは気づいているが深く考えていない「問題を発見」することもできる。

受験勉強は「問題を解く」力を身に付けることである。一方、必要なのは、「問題を発見」する力を身に付けることである。中国が海軍力を増強していることは、日本にとって重大な問題である。我々はその「問題を解決」する方法を見つけ出さなくてはならない。そのためには、「なぜその問題が起きたか」ということを知る必要がある。

私は「似たような事例」として、野生動物たちの行動を取り上げた。野生動物たちがなぜそのような行動をするのか考えた。辿り着いた結論は、野生動物たちがそれぞれ「生存を持続」させようとしているということである。スピノザはそれを「自己保存の努力」と指摘し、それは「ものの現実的な本質(rei actualis essential)」と言った。そしてスピノザはそのことを数学的な定理や公理の形で説明している。

一市井の無学な私のこのような視点を誰も注目しないだろう。私はそれはそれでよいと思っている。物事は時間の経過とともに矛盾をその中孕む。その矛盾は時間の経過とともにいずれは解決される。歴史はその繰り返しである。私の視点はその矛盾の中の小さな一つを捉えているに過ぎない。私はそのような視点にとどまって、ただ単に自己満足しているだけである。ただ、私がこうして書いて公開していることは、いずれの世にか私の子孫の目に留まるだろう。それが私の「自存」の仕方である。

いろいろしたいことは山ほどあるが、時間が足りない。かといってストレスを貯めてまであれもしよう、これもしようとは思わない。マイペース、半分もできればよいのである。

2011年8月9日火曜日

中国の軍事行動について思う(20110809)

 人は自分自身が常に「自存」行動をしているのに、他人の「自存」行動を非難したり、また逆に他人の「自存」行動に注目しなかったりする。特に、例えば「腫れ物」に触るように気を使う必要がある相手に対しては、人はその「腫れ物」のような相手の「自存」行動の奥底に潜むものについて、それは「ああであろう」「こうであろう」と勝手に想像し、勝手に決めてかかり、余程の心理カウンセリングの専門家でない限り、その人の心の奥に潜むものを正しく知ることはできないだろう。

 相手が人の場合、社会がその人を監視し、その人が何か問題行動を起こした場合、社会はそのことを放置したままにはしない。しかし、相手が外国である場合、国際社会は「当事国同士で問題を解決すること」を優先させる。特に領土問題はそうである。国際社会として無視できない人権蹂躙とか国家による虐殺などがある場合、その影響が国際社会全体及ぶほではないない限り、国際社会は静観したままである。たとえ、ある国が国際社会に訴えても、利害が絡む場合、拒否権持つ理事国によって問題解決が阻まれる。所詮、皆、「自存」行動をとるものである。

 それを「利益と利益のぶつかり合いである」と言い、その「ぶつかりあい」の奥に潜む「自存」への欲求にあまり目を向けない。そこが、その「自存」欲求の強い国の付け目である。ある国が隣国のある国との間で領土に関わる紛争を敢えて引き起こし、その上で交渉や調停で紛争の終息を図ろうとする。それは正しく、その紛争を領土問題から外交問題にしてしまうことである。中国は明らかにそれを狙っていると私は思う。

 726日の読売新聞に「進化する中国海軍」という見出しで編集委員・勝股秀通氏が寄稿している。一読して思ったことは、この記事は読者に中国の軍事力の伸張を説明し危機感をにじませているだけで、中国の「自存」欲求まで掘り下げた視点がないということである。日本人は「自存」というある意味で哲学的概念について注目すべきではなかろうか。

 私は「自存」という概念を最初に唱えたのは、17世紀オランダのユダ人哲学者スピノザであったと思っている。勿論、スピノザは「自存」をメインテーマにしたのではない。私はスピノザについてほんのちょっぴり聞きかじっただけであるので、彼の哲学の本質まで到底考えが及んでいないが、現在までの私の認識では、彼は「神」をどのように認識し、人々が幸せになるにはどうすべきかと考えたのだと思っている。ただ、彼は、神は自然そのものであると唱えたことだけは確かである。そのため彼はユダヤ社会から追い出された。

 その彼の哲学書の中に次の一節がある。それは、“Each thing, as far as it can by its own power, strives to persevere in its being.(どのようなものでも、それ自身の力で出来るかぎり、自己の存在を維持しようと努力する。)”と“The striving by which each thing strives to persevere in its being is nothing but the actual essence of the thing.(各々のものが自己の存在を維持しようと努める努力は、そのものの現実的な本質にほかならない。”である。

 中国は今正に「自力」で自国の存在を維持しようと必死に努力しているのである。

2011年8月8日月曜日

中国の軍事行動への対処について(20110808)

 人も動物も、地上のあらゆる生き物も、ウイルスも、会社も国家も、あらゆるものは、それ自体で存続しようとする。存続しようとするもの同士で競争し、衝突が起き、争いが起き、戦争が起きる。しかし、競争もなく、衝突もなく、争いもない世界は永遠に存在しないだろうし、戦争はこの地上が至る所満ち足り、楽園にならない限り決してなくならないだろう。然るに、平和主義者・市民活動家たちは声を大にして「平和・反戦・反核」を唱え、人々を自分たちの主張に同調させようとする。これもまた、そのような平和主義者・市民活動家たちの「自存」行動である。スピノザは「自存」力のことを説いている。

 私は放送大学でスピノザを少しばかり研究した。そのとき、いろいろな書物を買い集めた。また指導の教授からいくつかの書物を紹介され、それらも買い求めた。私が「スピノザに興味がある」と言ったら、アメリカに住むある知り合いの女性が向こうの書店で買った本を私にプレゼントしてくれた。その女性は横須賀のご出身である。今、日本に住んでいるかどうか分からないが、私はいつかその方に是非もう一度お会いしたいと思っている。

 私は、この齢になって再びスピノザの研究に取り掛かろうと思うようになった。と言うのは、この平和な日本の領土・領海・領空・排他的経済水域が、13億人の豊かになりつつある人民を満足させるため、なりふり構わぬ行動に出ている中国によって一部を奪い取られる可能性があることを警告したいからである。

 人は、中国の行動を覇権主義とか国威発揚願望とか言うだろう。しかし、それは、私は中国の「自存」を目指す必死の行動であると観ている。日本でも意識的にせよ無意識的にせよ、「自存」の行動をしている。日本の場合、欧米と価値観が似通っているので、日本の行動には国際的に理解される。しかし、中国は南シナ海における行動にもみられるように、意図的に「領土問題」が「外交問題」になるようにしている。中国共産党の綱領にもあるように、彼らの長期的目標は奄美大島から尖閣諸島・宮古列島・八重山列島にいたる諸島を中国の領土にすることである。そのために中国は奇襲攻撃で我が離島を襲い、日本との間で紛争を起こし、その紛争を外交問題にしてしまう意図をもっているに間違いない。

現に、先の尖閣漁船衝突事件で日本は「尖閣諸島に領土問題は存在しない」と言っても、中国は「外交問題である」と主張している。竹島や北方領土と同じである。先ず実効支配し、後で「外交問題である」と国際的に主張する。我が国が憲法前文で「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」も我が領土・領海・領空・排他的経済水域の安全は決して保障されないのである。それが、「自存」を目指す組織体(ここでは中国と言う国)の至極当り前の行動である。

日本は、中国との間でいくら経済交流が進み、文化交流が進んでも、防衛交流は儀礼的な域を決して超えることはないだろう。「武力」は正に国の「自存」のための手段である。日本は「武士道」の精神をしっかり取り戻し、中国の「武力」に勝る力を持ち、更に価値観を共有するアメリカとの軍事同盟を深める必要がある。

2011年8月7日日曜日

敵と友 (20110807)

 私はお釈迦様が説いておられる「方便」とは、お釈迦様・古代インドのシャークヤ族の聖者・ゴータマブッダ(ゴータマという姓の悟った人)が説かれた教えにあったいろいろなたとえ話や実話をもとに、何世紀も後世の仏弟子たちが編み出した言葉ではないかと思っている。「方便」という言葉は法華経(妙法蓮華経)の中にあって、たとえば「あらゆる仏(ほとけ)は限りなき方便(てだて)をもって人々を仏の智慧にいれませば、法(のり)を聞く者みなすべて、仏とならぬものはなし。」と書かれている。

 私は、このたびの未曾有の東日本大震災も、中国の高速鉄道事故も、ノルウエーで起きた悲惨はテロもすべてお釈迦様の「方便」ではないかと思う。人は、謙虚になってお釈迦様の言葉に耳を傾け、自分の心の奢りや自分の過ちを反省した方がよいと思う。そういう意味で、私は菅首相に是非とも靖国神社に参拝して頂き、靖国神社に祀られている御霊に心から自分の過ちを懺悔してもらい、この国の行く末を護って下さるようにお願いして貰いたいと思っている。しかし彼はそのようなことは絶対しないだろう。

 724日付の読売新聞に編集委員近藤和行氏が、“西洋は旧約聖書「ノアの方舟」に象徴される競争社会で、選民思想の源流。一方、日本は「無常観」の国である。・・(中略)・・グローバル企業の経営は、競争原理と「無常観」がうまく組み合わさっているように思う。”と書いている。私はその「無常観」を、古代から仏教に親しんできた日本人ならば一歩踏み込んで、「無常」の本質を考えるべきではないかと思っている。

 私は「方便」についてお釈迦様が説かれたおおもとの言葉を探してみようと思い立ち、前から買って書棚にしまっておいた本・『原始仏典』(中村 編、筑摩書房)のページをめくってみた。それにはお釈迦様が語られたいろいろな話が収められている。

 目にとまったのは、お釈迦様が「過去」・「過去世」・「宿世」・「未来」・「来世」という言葉を使っておられることである。左脳思考に凝り固まっていると、そのような言葉は説教の「方便」であって、非科学的である考えるだろう。しかし、私は、日本人は「無常観」の中に、そのような言葉で表現される時空の連続性を素直に認めるべきであると思う。

 私は「武士道」の精神は、そのような意味での「無常観」のもとに成り立っていると思っている。天皇を崇敬し、幕末・明治以降続いている国旗・国歌を大切にし、国家として靖国神社を大事にすることが、この日本という国とこの国に住む民が未来にわたり幸せで、繁栄することに繋がると思っている。つまり時空の連続の中の「自存」である。

 この本の中に「友」と「敵」についての一節がある。“次の四種は敵であって、友に似たものに過ぎない、と知るべきである。すなわち(1)何でも取って行く人、(2)ことばだけの人、(3)甘言を語る人、(4)遊蕩の仲間・・(以下略)”

 この国に、このお釈迦様のお言葉にぴったりの政治家や政党はいないだろうか?お釈迦様はさらにこう続けておられる。“かれは、・・(中略)・・(3)ただ恐怖のために義務をなす、(4)[自分の]利益のみを追求する。”はて、誰の事だろう?

2011年8月6日土曜日

人間の幸せと国の「自存」(20110806)

ブッダとは悟った人のことである。人間に生まれブッダになられたのは、お釈迦様ただおひとりだけである。しかし、お釈迦様が予言されたように、何千年か後の世に、お釈迦様のようなお方が現れ、この地球上から人殺しの争いは無くなることだろう。

その時は、一神教の神、つまりユダヤ教の・キリスト教・イスラム教の信者たちが信じる共通の神ヤハウエが、実は17世紀の哲学者・スピノザが説いたように、大自然そのものであるということを、信者たちが理解したときであろう。

ヤハウエは天地を創造した神であり、人格を持っている神である。その神が予言者キリストによって「許しと祝福を与える神・ゴッド」となり、後に予言者マホメットによって「命令する神・アッラー」になっている。キリスト教とイスラム教のルーツであるユダヤ教の神は「人々に試練を強いる神・アドナイ」である。アドナイは日本語で「主」と訳されている。従いキリスト教でも神の事を「主」と呼んでいる。

 一神教各宗教を信じる人々の中から新たな「予言者」が現れて、17世紀のスピノザが説いたように「宇宙大自然イクオール神」(汎神論)と、人々に分かるように説き始めた時、この地球上で人間同士の殺し合いはなくなって行くだろう。その時はこれから何世紀後だろうか?何十世紀後だろうか?それまでは兵士たちは命を懸けて敵と戦わねばならぬ。

 仏教には、「天地創造者」はいない。あるのは、「縁」だけである。「縁」によって人はこの世に生きている。その「縁」は何十万年の太古にさかのぼる。辿り着く先は、地球の誕生、宇宙の誕生の瞬間である。

 人間には動物にない高い知能があり、「想像」する能力がある。その「想像」力のお蔭で人間は自分の先祖のことを「想像」し、今生きていることを先祖に感謝する気持ちが起き、自分が年老い、やがて朽ち果て土となったあとまで、自分の子孫の幸せを願う気持ちを持つことができる。特攻隊で散った方々は純粋にそういう気持ちであった。

 人間は、自分に起きた出来事がたまたま「偶然」なのか、起きるべくして起きた「必然」なのか、それぞれの考え方で判断する。謙虚な人は現代文明の非常に進んだ科学によっても解き明かされない不思議な現象を「必然」だと思い、傲慢な人は「偶然」だとあらゆる理屈を並べて主張する。

 人が幸せな人生を送るためには、謙虚な気持ちで神仏に感謝しながら生きた方が良い。ブッダが説いたように行った結果は、その行いの中身によって現れる。「因果応報」である。人を殺め、人を陥れ、人を不幸にするものに現象上の幸せは絶対にない。今起きた自分の不幸は、自分にはわからない宇宙の時の流れの中で、自分がこの世に生まれる前の因縁によるものであると受け止めれば、今、自分が「この世」と「あの世」で幸せであるため、何をしなければならないか分かる。分からなければ僧侶に教えを乞えばよい。古の賢人の言葉に耳を傾ければよい。「一日の学問は千載の宝、一書の恩徳は万玉に勝る」(夢窓疎石)」である。日本国の「自存・自衛」も、そういう観点で図って行かねばならないと思う。

2011年8月5日金曜日

野犬たちの行動に学ぶものがある(20110805)

 NHKで「ダーウインが来た」という番組がある。その番組で『野犬ドール』というタイトルのものがあった。「ドール」とは、インドの森にすむ野犬の一般名称である。
 インドの森にはドールのほか虎や鹿も棲んでいる。ドールも虎も鹿がその食料になっている。ドールも虎もそれぞれ自分の行動圏を持っていて、ドールの行動圏と虎の行動圏は隣接している。両者の行動圏は鹿もやってくちょっと小さな湖に接しており、ドールは追われてその湖に飛び込んだ鹿をチームワークで捉え、のど元を締めて息の根を止め、陸に引き揚げて一族のもとに運んでゆき、一族皆で食べている。

 虎は湖が苦手であるから、陸地で鹿を捉えている。鹿は虎の行動圏に入らなければその湖にゆくことは出来ないから、虎は鹿のそのような行動を知っていて、姿勢を低くし、鹿の隙を狙って突進し、鹿を倒している。

 ドールの社会は母系家族である。放映された番組では、観察者が「ケナイ」と名付けた母鹿がリーダーである。その母鹿の連れ合いの雄鹿は家族を守り、食料を調達する役目よりも、交尾期がきている雌の鹿と交尾して子孫を増やす役割を担っている。勿論、群れの雄たちの中で一番強い雄だけがリーダーであるケナイと交尾することができる。

 ある日、その連れ合いが虎と戦い殺されてしまった。そのとき群れのリーダーであった母鹿ケナイがどこかに消えて居なくなってしまった。その間群れの幼い子たちを世話しながら群れを統率していたのは一番年長の2匹の雄であった。その2匹は勿論ケナイの子供である。リーダーが居なくなっても群れの統制は保たれていた。

 ある日、ケナイが2匹の大人の雄を連れて群れに戻って来た。それまで群れを統率し、幼い弟妹達に食事を与えていた2匹の兄弟はじめ群れのものたちは、母親であり、リーダーであるケナイが連れてきた雄を警戒し、近づこうとしなかった。ケナイが連れてきた2匹の雄は兄弟であった。この2匹のランクが上の兄は観察者によって「マッチャ」と名付けられた。マッチャたちはケナイの子供である二人の雄兄弟を群れから追い出しにかかった。そのとき群れのリーダーであるケナイは、マッチャたちの行動を制さなかった。それが野生の掟である。ケナイが居ない間群れを統率・世話していた兄弟は群れから離れた。

 ケナイは妊娠した。ケナイの娘も妊娠した。ケナイを孕ませたのはマッチャであることは間違いないが、ケナイの娘を孕ませたのはマッチャなのかマッチャの弟なのかはわからない。野生犬ドールは群れを大きくすることによって種の存続、つまり「自存」を図っている。群れが大きくなると隣接する虎の行動圏に侵入し、行動圏を広めようとした。虎は当然侵入者を追い払う行動に出た。しかしケナイは頭が良い。チームワークを良くして図体の大きな凶暴な虎に立ち向かい、遂に虎を追い払った。ドールの行動圏が広がった。虎は自らの「自存」のため小柄なドールを威嚇し、追い出しにかかった。ドールも自らの「自存」のため、チームワークで虎が逃げ出さざるを得ないようにした。

 国家同士も動物たちの「自存」と似たような行動をする。その「精神」は別として。

2011年8月4日木曜日

空母バンカーヒルと二人の神風(ケネディ著​)より (20110804)

表題は、YouTubeに投稿されていたものである。こブログの左側コラムにYouTubeで公開されている特攻に関する二つの映像をリンクした。

特攻隊員志願が「強制的」であったという人もいる。私はそのようなことはあったかもしれないが、そのときの心情を我々が知ることはできないと思っている。かつてアメリカのブッシュ元大統領が、日本の「特攻」とイラクやアフガニスタンなどでの「自爆テロ」と同じよう言ったことがあった。それならば、「東京に対するB-29による絨毯爆撃」や「広島・長崎」への原爆投下と、「虐殺」とはどう違うのだろうか?

先の戦争中、アメリカは日系人を「人種差別」してアメリカ市民権を持つ者も強制収容所に収容した。それは明らかに人権無視であり、アメリカの憲法違反であった。そのアメリカは「正義」の名のもと、中国が少数民族のチベット族やウイグル族などを迫害していることを非難している。人間は「恐怖心」「自存欲求」のため「悪魔」に支配される。

 喧嘩は両成敗という。喧嘩は所詮、どちらも「自存」の行動である。どちらが正しいというものではない。結局勝った方が正しいのである。ならば、喧嘩に負けないようにせねばならぬ。日本人は「武士道」という精神的な支えがあって、喧嘩に勝っても負けても「名」を残すことによって片や「現在」または「現世」において勝ち、片や「未来」または「来世」において勝つのである。結局どちらも勝つのである。

 国と国との関係においても同様である。日本は中国の攻勢に対して、「未来」・「来世」ではなく、「現在」・「現世」で勝たなければならない。そのためには中国の「動物的」な力、つまり武力に対して、「武士道」精神に基づく力、つまり「腰に差した氷刀」で身を守らねばならない。そのためには、精神を鍛え、武術・兵法を鍛え、相手に打ち勝つ強い刀を身につけていなければならない。

 幕末・明治から戦前まで、日本は、「自存・自衛」のため、必死で戦ったのだ。特攻隊員たちはこの国を護り、愛する父母や妻子や兄弟姉妹や恋人を護るため、自らの命を捧げて下さった。その精神の根底には香り高く美しい「武士道精神」があった。

今、南シナ海や東シナ海で脅威を与えている中国も、広大な国土に住む13億人の国民の「自存」のため行動していると思うのであるが、その「自存」は日本のそれとはまったく違ったものであって、日本のような「武士道」精神はなく、言うならば「動物的」な「自存」欲望に根差すものである。中国は隣人である日本に対して礼儀もなく、新幹線もアニメも超高度の日本の技術を手にいれ、勝手に真似し、「純国産」と平気で主張している。

 今、普天間問題があり、「琉球王国」のことが映画に取り上げられている沖縄で、今から667年前、九州の鹿屋や知覧から飛び立った特攻機がアメリカの航空母艦その他の艦に体当たり攻撃を行っていた。そのことについて私は、このブログ「特攻(20101029)」に書き、また関連記事「靖国神社と菅首相(20110409)」も書き公開している。

今、日本人は、靖国神社に祀られている2610柱の御霊に心から感謝すべきである。

2011年8月3日水曜日

日露戦争前哨戦(補記) (20110803)

その本で司馬遼太郎はこう言っている。

“「今後、中国、韓国がどうなっていくかわかりません。わかりませんが、毛細管現象というものがありますね。たらいに水を張っておき、ガラスの管をいれると水が上がっていく。日本や韓国は新しい技術が入れば、水が上がって、技術が広まっていきます。しかし、中国は海のように広い。なかなか水が上がらない。・・(中略)・・

 しかし、国を保っていかなくてはなりません。ヨーロッパより広いところを、方言が非常にまちまちな所を、一国で保っていかなければならない。本来は不可能なことなんです。歴代王朝が二、三百年で腐敗して倒れていくのも当然なことであり、ひとつの国としてまとめるには中国は難しい。その難しさを、日本も韓国もわかってやらなくてはならない。”

 中国は、広大な土地に国民の大部分を占める漢族を中心に、漢語派の回族、朝鮮語派の朝鮮族、ツングース語派の満洲族、トン・タイ語派のチワン族、チュルク語派のウイグル族、モンゴル語派のモンゴル族、チベット・ビルマ語派のチベット族・イ族等、54の少数民族がいる多民族国家である。

 広大な中国の土地には私有地は存在せず、全部国の所有であり、その代わりに土地の使用権が認められている。人口移動は自由でなく、農民が都会に戸籍を移すことはできない。多民族をまとめるため、少数民族に対する漢語の強制と弾圧が行われている。中国共産党が一党だけで、長期的国家戦略に基づき全人民の代表者が国家を運営している。国家主席は今の中国の「王」であり、首相はその「王朝」の「宰相」である。言わば1644年から1912年まで続いた「清王朝」に替わり「共産党王朝」が今まさに盛んな時代である。

 その「共産党王朝」は、歴代王朝と変わらず「中華思想」をもって自国の安寧・繁栄を目指している。日中間の経済交流・文化交流は情報・通信・交通の高度化に伴いますます盛んになり、遠い将来には日中両国民間の心の壁は低くなるだろうが、その過程においてわが日本が中国に領土を侵略されぬよう、十分な用心が必要である。日本の指導者層の人たちは、今の時代の「武士」である。しっかりと「武士道」精神をもって、かつ、欧米人のセンスでいうとことの「常識」をもって、国難に対処してもらいたいと思う。

 このブログのサブタイトル「日露戦争前哨戦」はこれで終わりとし、最後に、自沈したワリヤーグ号のその後について触れる。最後に秋山氏の論文を引用する。

 “日本海軍はワリヤーグ号浮揚せしめて整備再生することを決めた。沈没の僅か一ヶ月後、ワリヤーグ号の引き揚げ作業は開始された。非常な難工事の結果、浮揚したワリヤーグ号は戦利艦とし1905年(明治38年)822日付けで帝国海軍に編麀され、「宗谷」と命名された。そして、艦首の露国海軍の飾りは外され、金色に輝く「菊の御紋章」が取り付けられた。横須賀工廠第二船梁にて本格的復旧工事が施され、「宗谷」は「阿蘇」(旧露国巡洋艦バヤーン号77726トン、戦利艦)と共に、練習艦隊を編成して士官候補生の遠洋航海訓練に使用された。“                        (終り)

2011年8月2日火曜日

日露戦争前哨戦(補記) (20110802)

 ここに一冊の本がある。「『文芸春秋』12月臨時増刊号『坂の上の雲』と司馬遼太郎」という本である。その本に「司馬遼太郎『坂の上の雲』を語る」というタイトルの記事があり、その中に「日本人が褒められすぎた日露戦争」という見出しがある。その中に、次の一節がある。(“”で示す。)

 “昭和の初年に、横浜から英国に帰ろうとした女性がいた。女性の外交評論家で世界的に知られていて、日本に何年か住み、日本のことをよく知っていた人です。当時の政界人とは非常に親しかったらしく、横浜を去るにあたって政界の人たちが集まっています。

 牧野伸顕という人が音頭をとっていますね。牧野伸顕は明治維新のときの大久保利通の子供です。そのときの様子を、牧野伸顕は何かに、書いています。横浜のホテルでその女性評論家にごちそうをして、仲のよかった日本人、十人ばかりで小さな送別会をした。そのときに、彼女は非常に冷静な表情でこう言いました。

 「日本はやがて滅びるでしょう」昭和の初期の話です。・・(中略)・・「なぜかと言えば、日本の陸軍の軍人は天下の秀才を集めている。彼らが非常に秀才であることは認めるけれど、彼らは常識というものを知らない」

 ここで彼女の言う「常識」とは、われわれが現在使っている「常識」の意味ではありません。ちょっと説明の要る「常識」なんです。・・(中略)・・ヨーロッパ人ならば自然と持っているある種の常識が、日本人は地理的環境のために欠けていると言う。・・(中略)・・

 当時、アルフレッド・マハンというアイルランド系のアメリカ人がひとつの評論を残しています。・・(中略)・・そのマハンが、日露戦争が終り、五年ぐらいたって書いた論評があり、こんなことが書かれていました。「(前略)・・日本の軍人は他国の軍人のおよぶべからざる多くの長所を持っている。そのために、日露戦争から普遍的な教訓を引き出すことを怠っている」ましてや、日本人は怠っている。・・(後略)”

 私は、日露戦争から学ぶべき普遍的な教訓は、次の二つにあると思います。

 一つは、日本は「武士道」という、日本人自身が自ら気が付かない世界に類例のない精神が根付いていたということです。その「武士道」精神は一時どこかに忘れ去っていましたが、未曾有の大震災を経験した今、また蘇りつつあると思います。日本は幕末から明治時代、この「武士道」精神で東アジアでいち早く開国・近代化し、降りかかる火の粉を払いのけるため武士自らその身分を捨て、天皇を中心にした日本民族として、兵は兵、民は民と、それぞれその役割を自覚し、それを完全に果たしたということです。

 二つは、日本にはそのような香り高い、美しい精神があり、「茶道」などに見られる「道」の精神がありますが、中国、ロシア、北朝鮮などにはそのような精神はない。それらの国々の指導層の人たちが共有しているのは、「動物」的な「生存」の欲望です。誤った歴史観を国民に植え付け、「反日」感情を煽り、煽らないまでも放任し、日本人の心を傷つけている。

 同じ「自存」でも、日本と中国などの「自存」とは意味・内容が違っている。(続く)

2011年8月1日月曜日

日露戦争前哨戦(補記) (20110801)

情勢は緊迫し、23日、旅順港にいたレトウイザン、ポベーダなどロシアの軍艦14隻は出港し、行方不明となった。同時に、ウラジオストックに戒厳令が敷かれ、ロシアの要塞司令官の通告により在留日本人は退去準備を始めた。24日午後、御前会議が開催され、開戦が決定され、25日午後日本の小村外相からロシアのラムスドルフ外相への通告により日露間の国交が断絶された。(秋山氏論文引用)

ロシアは「日本側からの戦争仕掛け」を待つ態勢(ニコライ二世の訓電「我が方からではなく、日本軍の方から戦闘を開始することが望ましい。」)であった。仁川港でロシアの巡洋艦「ワリヤーグ」(6500トン)及び航洋砲艦「コレーエツ」(1213トン)の間に係留していた日本の巡洋艦「千代田」(2439トン)が、夜陰に乗じて密かに出港したとき、ワリヤーグの艦長ルードネフ大佐はその動きを知っていたが知らぬふりをしていた。

日本に対するロシア鷹揚な態度、日本の力を見くびっていた態度が、結果的にロシアの敗北になった。中国に対し日本は鷹揚な態度、中国の力をみくびっている態度を示していないか?19世紀末、20世紀初めの頃の中国、そしてその中国の支配下にあった朝鮮は日本に比べ何十年も近代化が遅れた。その結果中国は列強の餌食になった。日清戦争の結果、台湾は日本に取られた。気が付けば中国は日本列島・台湾・フィリッピンの列島線に囲まれ、外洋への出口を塞がれてしまった。「4千年の歴史」の誇りがある中国の立場になれば、これはきっと悔しいことであるに違いない。

それでも中国共産党は何十年先、百年先を見通して、「中国が世界の中心」であるという「中華思想」のもと、超長期的な構想に基づく計画を着々と進めている。そのような中国に対して、日本は独立の維持及び万世一系の皇統を維持する超長期的な戦略はあるのだろうか?日本はただ平和と安全と繁栄の維持だけに心を奪われてはいないだろうか?

日本は、憲法前文にあるように「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの独立と安全を保持」できるのか?中国は「公正」か?中国に「信義」はあるか?中国は新幹線を純国産と宣伝し、特許まで取ろうとし、おまけに故障したとき「日本の新幹線も故障はよくある」と公言する。中国に「公正」も「信義」もない。あるのはただ「動物的」な「自存」意欲だけである。自分たちの行動を誤った歴史観で正当化している。教養の高い中国人は自国民のそういった状況を嘆いているに違いない。庶民レベルの中国人とお互いは人間同士として親しみ合える。それが国家レベルになると動物的となる。その心情の根底には国家として「生き残る」という「自存」の願望があるのである。

そのような動物的な心情に対抗するには、「武力」しかない。動物は強い相手に対しては決して無茶なことはしない。街のチンピラでも同じである。強い相手には手を出さない。日本は、中国の「自存」願望を理解し、その「自存」願望を戦争によらずとも叶えられるように可能な範囲内で手助けしやることも真剣に考えなければならない。その一方で、中国の「武力」に勝る圧倒的「武力」を集団的自衛力として保持しなければならない。(続く)