2011年8月7日日曜日

敵と友 (20110807)

 私はお釈迦様が説いておられる「方便」とは、お釈迦様・古代インドのシャークヤ族の聖者・ゴータマブッダ(ゴータマという姓の悟った人)が説かれた教えにあったいろいろなたとえ話や実話をもとに、何世紀も後世の仏弟子たちが編み出した言葉ではないかと思っている。「方便」という言葉は法華経(妙法蓮華経)の中にあって、たとえば「あらゆる仏(ほとけ)は限りなき方便(てだて)をもって人々を仏の智慧にいれませば、法(のり)を聞く者みなすべて、仏とならぬものはなし。」と書かれている。

 私は、このたびの未曾有の東日本大震災も、中国の高速鉄道事故も、ノルウエーで起きた悲惨はテロもすべてお釈迦様の「方便」ではないかと思う。人は、謙虚になってお釈迦様の言葉に耳を傾け、自分の心の奢りや自分の過ちを反省した方がよいと思う。そういう意味で、私は菅首相に是非とも靖国神社に参拝して頂き、靖国神社に祀られている御霊に心から自分の過ちを懺悔してもらい、この国の行く末を護って下さるようにお願いして貰いたいと思っている。しかし彼はそのようなことは絶対しないだろう。

 724日付の読売新聞に編集委員近藤和行氏が、“西洋は旧約聖書「ノアの方舟」に象徴される競争社会で、選民思想の源流。一方、日本は「無常観」の国である。・・(中略)・・グローバル企業の経営は、競争原理と「無常観」がうまく組み合わさっているように思う。”と書いている。私はその「無常観」を、古代から仏教に親しんできた日本人ならば一歩踏み込んで、「無常」の本質を考えるべきではないかと思っている。

 私は「方便」についてお釈迦様が説かれたおおもとの言葉を探してみようと思い立ち、前から買って書棚にしまっておいた本・『原始仏典』(中村 編、筑摩書房)のページをめくってみた。それにはお釈迦様が語られたいろいろな話が収められている。

 目にとまったのは、お釈迦様が「過去」・「過去世」・「宿世」・「未来」・「来世」という言葉を使っておられることである。左脳思考に凝り固まっていると、そのような言葉は説教の「方便」であって、非科学的である考えるだろう。しかし、私は、日本人は「無常観」の中に、そのような言葉で表現される時空の連続性を素直に認めるべきであると思う。

 私は「武士道」の精神は、そのような意味での「無常観」のもとに成り立っていると思っている。天皇を崇敬し、幕末・明治以降続いている国旗・国歌を大切にし、国家として靖国神社を大事にすることが、この日本という国とこの国に住む民が未来にわたり幸せで、繁栄することに繋がると思っている。つまり時空の連続の中の「自存」である。

 この本の中に「友」と「敵」についての一節がある。“次の四種は敵であって、友に似たものに過ぎない、と知るべきである。すなわち(1)何でも取って行く人、(2)ことばだけの人、(3)甘言を語る人、(4)遊蕩の仲間・・(以下略)”

 この国に、このお釈迦様のお言葉にぴったりの政治家や政党はいないだろうか?お釈迦様はさらにこう続けておられる。“かれは、・・(中略)・・(3)ただ恐怖のために義務をなす、(4)[自分の]利益のみを追求する。”はて、誰の事だろう?

0 件のコメント: