2011年8月9日火曜日

中国の軍事行動について思う(20110809)

 人は自分自身が常に「自存」行動をしているのに、他人の「自存」行動を非難したり、また逆に他人の「自存」行動に注目しなかったりする。特に、例えば「腫れ物」に触るように気を使う必要がある相手に対しては、人はその「腫れ物」のような相手の「自存」行動の奥底に潜むものについて、それは「ああであろう」「こうであろう」と勝手に想像し、勝手に決めてかかり、余程の心理カウンセリングの専門家でない限り、その人の心の奥に潜むものを正しく知ることはできないだろう。

 相手が人の場合、社会がその人を監視し、その人が何か問題行動を起こした場合、社会はそのことを放置したままにはしない。しかし、相手が外国である場合、国際社会は「当事国同士で問題を解決すること」を優先させる。特に領土問題はそうである。国際社会として無視できない人権蹂躙とか国家による虐殺などがある場合、その影響が国際社会全体及ぶほではないない限り、国際社会は静観したままである。たとえ、ある国が国際社会に訴えても、利害が絡む場合、拒否権持つ理事国によって問題解決が阻まれる。所詮、皆、「自存」行動をとるものである。

 それを「利益と利益のぶつかり合いである」と言い、その「ぶつかりあい」の奥に潜む「自存」への欲求にあまり目を向けない。そこが、その「自存」欲求の強い国の付け目である。ある国が隣国のある国との間で領土に関わる紛争を敢えて引き起こし、その上で交渉や調停で紛争の終息を図ろうとする。それは正しく、その紛争を領土問題から外交問題にしてしまうことである。中国は明らかにそれを狙っていると私は思う。

 726日の読売新聞に「進化する中国海軍」という見出しで編集委員・勝股秀通氏が寄稿している。一読して思ったことは、この記事は読者に中国の軍事力の伸張を説明し危機感をにじませているだけで、中国の「自存」欲求まで掘り下げた視点がないということである。日本人は「自存」というある意味で哲学的概念について注目すべきではなかろうか。

 私は「自存」という概念を最初に唱えたのは、17世紀オランダのユダ人哲学者スピノザであったと思っている。勿論、スピノザは「自存」をメインテーマにしたのではない。私はスピノザについてほんのちょっぴり聞きかじっただけであるので、彼の哲学の本質まで到底考えが及んでいないが、現在までの私の認識では、彼は「神」をどのように認識し、人々が幸せになるにはどうすべきかと考えたのだと思っている。ただ、彼は、神は自然そのものであると唱えたことだけは確かである。そのため彼はユダヤ社会から追い出された。

 その彼の哲学書の中に次の一節がある。それは、“Each thing, as far as it can by its own power, strives to persevere in its being.(どのようなものでも、それ自身の力で出来るかぎり、自己の存在を維持しようと努力する。)”と“The striving by which each thing strives to persevere in its being is nothing but the actual essence of the thing.(各々のものが自己の存在を維持しようと努める努力は、そのものの現実的な本質にほかならない。”である。

 中国は今正に「自力」で自国の存在を維持しようと必死に努力しているのである。

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