2009年7月15日水曜日

母への慕情(20090715

  ‘夏河を越すうれしさよ手に草履’という句は、与謝蕪村が亡くした母を慕って作った句であると言われる。蕪村の母は丹後国与謝郡の出身である。美人だったらしい。蕪村はその女性が摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)の庄屋の家(谷口家)に奉公に来ていたとき、その谷口家の初老の当主が与謝郡から来たその女性に手を付け、生まれた子であると言われている。蕪村は生みの母であるその女性が身分の低い出であったにもかかわらず谷口家に世継ぎとなる男子がいなかったため、谷口家の庶子としての扱いを受けていたが、母の実家でなにかあったらしく母は実家がある与謝郡に帰り、そこで何があったのか31歳のとき入水自殺してしまったらしい。それは蕪村が13歳のときであったという。その後父も他界してしまったため、蕪村は若くして両親を失った。

  蕪村は享保元年(1716年)に生まれ、少年時代ニックネームは‘寅’、本名は谷口信章であったという。蕪村は俳号である。蕪村は少年時代淀川でよく遊んでいて、その川辺に母が立っていて楽しそうに遊ぶ寅を優しく見守っていたのであろう。蕪村は42歳ころ冒頭に掲げた句を詠んだということである。男も10歳の時、母を乳がんで亡くしている。母は33歳の若さであった。生み育ててくれた母に対する思慕の念は、年がいくつになっても変わらないものである。ゆえに、男は蕪村の気持がよく分かる。

  男の母はB市の高等女学校を出てすぐ県北の田舎のある小学校で代用教員になり、幼い妹、つまり男の叔母を引き取り、懸命に生きていた。というのは男の母も若くして両親を亡くしてしまっていたからである。そのとき男の父を知る県の視学が父と母とを引き合わせ、師範学校を出て新進気鋭の教師であった父と結婚し、長男である男が生まれた。男の父は当時朝鮮南部のある道に出向を命じられ、35歳の若さで国民学校(今の小学校)の校長になっていた。終戦の年、1945年の夏の終わりごろ母は男ら三人の子供を連れて引き揚げ、父の実家に身を寄せた。父は事務引き継ぎを終え9月末帰国した。そのときすでに母の胸には乳がんのしこりができていた。母はB市の病院で二度にわたる手術を受け、両乳房を切除してしまったが、がん細胞は全身に転移し、病院から見放され翌年の暮、父の実家で息を引きとった。凍る冬の夜空には浮かぶ二つの星の間に三日月がかかっていた。

  母のやせ細った背中にはがんの小さな塊が沢山あってでこぼこしていた。母は男に「起こしておくれ」と言い、「背中をさすっておくれ」と言うのでそのとおりにしてやっていた。そのことが2、3度あった。ある日また「起こしておくれ」というのでいつものとおり起こしてやったら、今度は「東に向けておくれ」という。そして「お仏壇からお線香をとってきておくれ」という。そのとおりにしてあげたら「お父さんを呼んで来ておくれ」という。高台に10軒ほど並んでいる集落の裏手に男の祖父が所有していた山林があり、男の父はそこに風呂や台所の燃料にする松葉を掻きに行っていた。男が父を裏山まで呼びに行き一緒に戻ってきたとき、母はすでに息を引き取っていた。父は号泣した。

  男の記憶では、母は一度もがんの痛みを口にしなかった。恐らくがんの痛みをじっと堪え、遺して逝く児に耐える勇気を示していたのであろう。米がなかなか入手できない時代、病院の個室で祖母がひそかに送ってくれていた白米で魚の刺身のお茶漬けを男と弟のために作ってくれた。それは遺して逝く子たちに対する母のせめてもの愛情であったのだ。母の祖父は幕末のある藩の藩士で当時の船舶・港湾局長のような職にあった。

2009年7月14日火曜日

BSハイビジョン番組「命よ、ありがとう」(20090714)

 男のところに竹馬の友から電話があった。いまどき ‘竹馬の友’などという関係の友を持っている人は珍しいかもしれないが、その友が「最近ゴルフもいやになったよ。結果が思わしくなく、昔出来ていたことができなくなって若い子に負けてしまう。」と言う。その友はゴルフのハンディが一桁であった。かくいう男はゴルフをしたいなど全く思わない。昔現役のころコースに出たことは何度かあったが、大抵ブービーかびりけつだった。その友が「君はブログを出しているんだね。」と言う。男が自分のブログのPRを兼ねて暑中見舞いを出しから、その友は久しぶりに電話をよこしてきたのである。

 男は毎日ブログを書いているが、そろそろ趣向を変えてテーマを絞ったタイトルごとにブログを出そうと考えている。その理由の一つには時々女房と行く旅行のことがあるからである。ブログを毎日更新するとなると旅行中パソコンを持ち歩かなければならない。勿論予定投稿のシステムはあるが、男の操作方法が悪いのか予め決めた通りに投稿したものが指定した日時に自動的に公開されない。旅行中はパソコンから離れ、旅を楽しむことだけに集中しないと、一緒に旅をする女房も面白くないであろう。

 ブログを書くと言うことは自分の文章力の向上につながる。先日将棋の羽生名人の脳を調べるテレビ番組があった。名人の脳は同じことに集中し、何度も繰り返して行うことにより直観力が増すというのである。ブログを毎日書くということを1カ月以上も続けていると、確かにA4一枚の文章を書くのにそんなに時間を取らなくなった。精神活動も非常に活発になってきたと自分自身でも感じている。

 時間というものは誰にでも平等に与えられているものなので、その時間をどのように使うかは、その人の社会的立場や生活習慣などによって違う。男は社会的諸関係のために自分の貴重な時間を非能率的・非効率的に使いたくないと思っているので、老人会などの組織に加わりたいとは全く思わない。触れ合いも名誉も地位もいらない。男の場合、インターネットを使いこなせるからゴルフに関心がなく、男の竹馬の友のように「勝てなくなった」と嘆くこともない。淡々として自分の人生のゴールを目指して日々を送っている。

 昨夜女房と一緒にBSハイビジョンで「命よ、ありがとう」という1時間半の番組を見た。小児科医・細谷亮太氏が関わった小児がんの子供やそのご両親との日々ことを杉浦アナウンサーが聞いている番組である。一人の医師が子供の命を救いたいと願いながら、救ってあげることができなかった無念さや、健気にも闘病生活を送っていた子供の命が尽きたとき、後日その子供の両親と向かい合って時間を共に過ごしたときのことなどが伝えられた。

 男はこの先生は修行僧のように‘行をしている’と思い、感動した。涙が出なかったかと言えばうそである。タイトルの「命よ、ありがとう」の「ありがとう」の意味がよく伝えられていた。男は仏教信者でもないが昔読んだことのある法華経に、「仏は人々の心に応じて教化されるから仏には無量の方便がある」というようなことが書かれている。この番組自体も仏がこの番組を見ている人々を仏の道に教化する方便の一つであると思う。

 多分この先生は子供のころから両親に人生の生き方をいろいろ教えられていたに違いない。男は自分の母親が乳がんで33歳の若さで死んでしまったとき自分は医者になりたいと思ったことがあったが、その意思は続かなかった。男は母の死により仏から教化されたことが何であったか整理しておきたいと思う。そして竹馬の友にそれを話したいと思う。

2009年7月13日月曜日

界面活性剤と言う物質(20090713)

 これまで気にはなりながら調べていなかったが、あらゆる洗剤に使われている界面活性剤というものは危険な物質であることがわかった。なぜこの危険な物質が使われているものが大量に作られ大量に売られているのかと言えば、それは一般消費者が無知であり、汚れを簡単によく落としたいというニーズがあるからである。食器洗浄機など台所で使われている洗剤には「すすぎをよくおこなうように」と書かれているものもある。しかしよくすすいだつもりでもこの物質は残留し、次にその食器を使うとき人の口に入り、人の血液に取り込まれる。その結果、肝臓障害や腎臓障害を引き起こすことになる。少なくともアレルギー体質の人には皮膚表面が痒くなったりする。

 界面活性剤は食器洗浄後、食器に残留していても「90%以上は8日以内に生分解(JISK3363に準ずる)する」と小さな文字で注意書きしてある食器洗い乾燥機専用洗剤も堂々と売られている。その商品は安いし、よく落ちるので無知な一般消費者はそれを喜んで買う。男は自宅でキッチンボーイをしているので、試しにその商品を買ってみた。開封するとプーンと薬品臭がする。それでも一度使ってみた。

 ところが男の女房は最近ときどき皮膚に痒みが生じ、痒いから掻くとその部分が赤くなる。実は男の女房は10年くらい前から血圧が高くなっていて、最近近くの内科クリニックにかかり「アムロジビン5mg」を処方されていた。血圧降下剤は5種類くらいあるらしくて、それを服用している人の中には皮膚が痒くなる人もいるとのことである。「アムロジビン」は最も安全な薬で長期間服用していても問題が起きない薬のようで、どの医者も初めはそれを処方するらしい。女房の皮膚の痒みの原因は「アムロジビン」の服用によるものではないと考えられるが先生は別の薬「イルベタン50mg」を女房に処方してくれていた。

 それでも痒みは生じる。男は痒みの原因は血圧降下剤によるものではなく、台所用洗剤にあると確信した。というのは女房も台所用洗剤を使ったとき指の間が痒くなるし、台所用洗剤の毒性については「ゴキブリも死んでしまうのよ」と言って、よく男に訴えていたし、内科クリニックの先生も血圧降下剤の処方に当たってはその使用量を最小限度にするなど細心の注意を払ってくれているからである。

 男は女房に洗濯用洗剤の使用量について、メーカーが指定している量の半分以下にするように、そしてすすぎの回数を最大まで増やすように言った。キッチンボーイの作業をするとき、男は洗剤の代わりに重曹と熱湯を使うことにした。自動食器洗い乾燥機を使う場合も汚れた食器は予め熱湯で荒洗いしたあと機械に入れ、洗剤を使わずに洗うことにした。

 消費者が男のように洗剤の使用量を極端に減らすようになると、洗剤メーカーの売り上げが減り、そのメーカーの雇用が減り、経済活動が影響を受けるようになる。だから政府も自民党も洗剤に使われている界面活性剤の規制を躊躇している。消費者庁が発足すればメーカーは消費者とどう向き合うことになるのか。

 消費者も安全や環境について一層賢くなってくるであろう。メーカー側も収益を上げるために一層の努力が必要になって来る。一方、製品に含まれる有害物質は安全の許容の範囲内で使用せざるを得ない。そのことを消費者側も知っていて、それぞれ自分自身の許容の範囲内で製品を取捨選択し使用するという賢さを持たなければならないのだ。男は精一杯女房の健康を守ってやろうと思っている。

2009年7月12日日曜日

マイケル・ジャクソン追悼式(20090712)

 このブログを書いている8日、マイケル・ジャクソン追悼式の様子がテレビに映し出されていた。男は日ごろマイケル・ジャクソンにあまり関心がなかったので、彼がどんな歌を歌っていたのか、なぜ世界中の人たちが彼の死をそんなに悲しむのか理解できなかった。ところが追悼式会場で、男が知らない歌手たちが『To heal The World』という歌を合唱していた。歌詞の内容から、男は初めその歌は日本人が作ったものではないか、聴いたことがあるような歌だなと思っていた。

 ところがこの歌はマイケル・ジャクソンが歌っていたということである。男は何故彼の死があのように惜しまれたのか納得した。人々は自分の理想を実現してくれるスーパースターが必要なのである。人々の思いはマイケル・ジャクソンや、石原裕次郎や、美空ひばりたちが共有してくれるのである。人々には自分を投影するスターが必要なのである。

 男はこれまでの人生の中で、自分自身が好きだという歌手や映画スターは特にいない。女房に聞いてみても同じ答えが返ってくる。女房は若いころ、子育ての頃口ずさんでいた歌を今でも何かしながら口ずさんでいるが、憧れる歌手やスターはいない。気に入った音楽や歌をCDなどでBGMのようにして、何か別の作業をしながら聴いていることが多くても、その音楽の作曲家や作詞家や歌手のことには特に関心がない。

 かつて小泉首相はスターのような人気があった。今、人気をバックに政治家を目指す芸能人も多分何人かはいるであろう。人々はスターを求めているのである。オバマ大統領もスターである。ブッシュのスターであった。暗殺されたケネディは大スターであった。

 昔、670年前ごろまでは、マスメディアも今のように一人一人の個人の時間の中に浸透していなかった。携帯電話システムが世界中に広まり、アメリカや日本や韓国などのように、個人がどこにいても、移動中でも情報に自由にアクセスすることができるようになると、政治家にはスター性が求められるのだと思う。人々の思い、人々の理想、人々が無意識的に願望している共通のもの、集合的無意識、それらを共有し、実現してくれるスターが政治家であることが求められる時代になっているのだ。

 しかし、しかしである。いやしくも政治家を目指すものは、日本の歴史を古代から近現代に至るまでよく知っていて、和歌の一つや二つを作ることができ、合気道や剣道などの武芸も多少心得があり、その上でこの日本をどう導くのかというしっかりとした理念を持っているべきである。一般の民衆はスターを求めているのであるから、大統領的総理大臣を目指す人たちは日本の顔として人々が自慢できるような美しさを備えているべきである。

 スポーツの世界では国際競争に勝つために国が選手の育成強化を行っている。同様に、世界に伍して優れた政治家を育てるために、国が、または国に代わる何かのシステムが全く中立の立場で人材の養成を図るようにすべきである。

 アメリカの大統領選挙のような選挙の仕組みにして、スターのように格好がよく、しかも資質が非常に優れている人物を、国民が選び出せるようにすべきである。議院内閣制ではそのようなスターはなかなか出てこないと思う。

 ところで、マイケル・ジャクソン追悼式の終わりにマイケルの娘・パリスちゃん11歳が、涙ながらに「パパを愛していた」と言っていた。会場にいた人たちもパリスちゃんを見て泣いていたそうである。男はパリスちゃんが立派に成長することを願っている。

2009年7月11日土曜日


ニュートリノ(20090711)

 宇宙空間にはニュートリノという物質が30%ほどあるそうである。これは電子よりも小さく中性であるため形のあるあらゆる物質をするりと通り抜けて、例えば男の体をすり抜け、男が立っている地球の内部を通り抜け反対側の地上に出てまた宇宙空間に出てゆくということである。

 そのニュートリノに質量があることを発見したのは日本人の科学者戸塚洋二という東大の先生である。彼は大腸がんで昨年他界された。彼は小柴昌俊先生に続きノーベル賞候補と目されていた。彼とは月とすっぽんほども違い、日々平凡な暮らしをしている男は岐阜県飛騨市にあるというカミオカンデとかスーパーカミオカンデという東大の研究施設のことを、宇宙から飛来する素粒子を観測する施設であるということぐらいしにか知らなかった。しかし国費を投入したこの施設でノーベル賞受賞科学者小柴先生がスーパーカミオカンデの前身であるカミオカンデで超新星が誕生した時に発生するニュートリノや太陽から来るニュートリノを捕らえ、世界をリードするニュートリノ天文学という学問分野を開拓されたということである。一方の故戸塚先生はそのカミオカンデやスーパーカミオカンデの建設を主導し、ニュートリノに質量があることを発見したということである。

 その戸塚先生が死の直前まで科学者としての目で自分の体内に巣食うがんの状況を計測し、グラフに描き、毎日ブログで公開していた。ブログには宗教と科学の関係についても自分の思うところを述べていた。その様子を男は女房と一緒に夜遅いテレビ番組で見ていた。

 自分の研究がまだまだ完成しないうちにこの世を去るというのはさぞ無念であったであろうと男は思う。ブログには自分の研究分野のことについて一切触れられていなかったようである。しかし自分の体内に巣食うがんのことを客観的に調べてブログに発表し続け、時には奥様が育てている花の写真を奥さまに撮らせたものも添えたりして人生の最後の日々を送っていた。男は残された日々を送った一人の世界的研究者の心中をあれこれ思った。

 番組の終わりごろ、ニュートリノをスーパーカミオカンデで観測するため戸塚先生の弟子たちが筑波の研究施設でニュートリノを発生させたシーンが紹介されていた。彼がこの世を去ってもカミオカンデ、スーパーカミオカンデの建設を主導し、ニュートリノに質量があることを世界で初めて発見した彼の偉業は永遠に語り継がれてゆくことであろう。

 テレビを見終わって男は、「人生には自分の力ではどうしようもないことがあるものである、しかし名誉は永遠に語り継がれてゆくものだ、女には関心がないことかもしれないが男は名誉に生きがいを見出すものである。」としみじみ思った。一緒にその番組を見ていた女房に男はそのようなことをぽつりと言ったと思うが、女房がその時なんと応えてくれたたはかよく覚えていない。

 名誉には現世だけに通用するものもあるが、後世に語り継がれてゆく名誉もある。後者の方が真の名誉であると男は思う。前者は名誉欲に基づくものであり、後者は無慾に、ただ正義や博愛や真理の探究のためだけに死をもおそれず行動して、結果的に人々から称えられ、後の世まで語り継がれてゆくものである。

 ところでニュートリノには質量がありこれが宇宙の30%を占めているため、137億年前に無から誕生したこの宇宙はいずれ膨張を停止して収縮を始め、何100億年の後には再び無の世界に戻るという。われわれはそのような世界に生きているのである。

2009年7月10日金曜日


七夕まつり(20090710)

 男はいつものように自動的に録画されている『日めくり万葉集』を再生して女房と観ていたら山上憶良の七夕の歌のことが出ていた。山上憶良が702年第7次遣唐使の一員として唐(その頃則天武后が皇帝になっていて国号を‘周’としていたが、705年則天武后が亡くなって‘唐’に復帰した。)に渡ったとき、唐には彦星と織姫が出会う七夕祭りを盛んに祝っていた。日本の七夕祭りは憶良が当時の中国の風習を日本に持ち帰って、日本で広まったものであるという。男も女房も「へえ、そうなんだ」としきりに感心していた。

 山上憶良の父母等はあきらかではなく、一説に近江(滋賀県)甲賀郡の百済系渡来氏族であるという。日本書紀には663年の白村江敗戦後非常に多くの百済人が倭國(当時まだ日本は自国のことをそう呼んでいた)に引き揚げてきて、朝廷は近江や東国などに田などを与えて居住させている。引揚者の中に王族や貴族など教養が高い人たちが非常に多く含まれていて、彼らがその後のわが国の発展に寄与している。憶良もその一人であるのだろう。

 古代朝鮮半島に政情不安がなければ、日本には有能な人材が渡って来ることはなかったかもしれない。数世代を経て倭人と渡来人は混血を繰り返し、皆日本人になったのである。その日本人がかつて朝鮮人を軽蔑していた時代があった。男は終戦で1945年の秋、母に連れられて日本に引き揚げてきたのであるが、子供のころは朝鮮で暮らしていた。その頃、日本の子供が道端で悪いことをしているのを見たことがあるが、通り過ぎる朝鮮人の大人は見て見ぬふりをしていたことを覚えている。

 男はまだ8歳で小学校1年生のとき、級長をしていた。そのクラスの同級生に12歳の朝鮮人がいた。記憶にはないがクラスには多くの朝鮮人がいたと思う。先生も校長である親父をのぞいて、7、8割の先生は朝鮮人ではなかったかと思う。その12歳の同級生は男の兄貴のようにして男を遊びに連れて行ってくれていた。名前は新井という日本名であった。男はもし機会があれば、その新井さんに会ってみたいと思っている。もう鬼門に入っているかもしれないが・・・。

 在日韓国・朝鮮人は毎年非常に多くの人たちが日本人と結婚しているという。男は明治時代から終戦までの皇国史観を全部が全部悪いとは思わない。日本各地に神社があり、人々が暮らしと切っても切れない祈りの場としての神社と、万世一系の天皇という「平和を祈り、国民の幸せを祈る」存在は、日本人の心のよりどころである。滋賀県には白村江の敗戦で倭國に移住した先人を祀る神社・鬼室神社がある。日本は神代の昔から渡来してきた人も皆、天皇を一家の中心のように考えてきたのである。

 ナチスはアーリアン人だけが優秀で、ドイツを中心としたアーリアン人の帝国を築くため、ポーランドなどからまだ親の元に居なければならない子供たちを引き離し、20万人もの子供たちをドイツ国内の施設でドイツ語はもとよりドイツ帝国の維持に必要な教育を施して人材の育成を図った。倭國、後の日本国はそのような非人道的な酷いことはしていない。天皇は皇帝ではなく、日本の各家の宗家のようなものである。

 もう一度原点に立ち戻り、日本の近現代史の中で悪かったところは謙虚に反省し、良かったところまで否定せず、未来に輝く日本を目指してゆくべきである。男はせめて自分の孫たちに教えておきたいと思い、古代の天皇の事績に関わることを書いた資料を送ったりしている。今はまだ関心がないことであるとは思うがそれでもよい。男は将来の日本を担う人たちに、男の思いを伝えたいのである。

2009年7月9日木曜日


郷愁のアメリカ (20090709)

 テレビのスイッチを入れたら、某俳優が女性と二人でアメリカを旅する映像が映っていた。ミシシッピー川上流アーカンソー州の米作農場地帯を車で訪れる映像である。左ハンドルでどこまでも道が続いている。男は映像から出るアメリカの匂いに心が沸き立った。
男は25年前、ある会社から技術研修生の一人としてロスアンジェルスに送られ、アメリカのある先端技術の会社で半年間研修を受けた。その後何度か出張でシンシナチやデンバーなどに行った。カリフォニアの運転免許を取得し、レンタカー会社に登録されていたので、出張先の同じ系列のレンタカー会社で車を借りれば手続きは至極簡単だった。「ミスターX。ウッデュライクハブセイムタイプカー?」とか何とか聞かれ「イエスプリーズ」とでも答えれば、男がいつも使っていたトヨタのカムリを借りることができた。レストランなどはクレジットカードで簡単に支払うことができたが、家庭用品などを買うときは確認のため身分証明書が必要であった。その時カルフォニアの運転免許証を店員に見せれば万事OKであった。その運転免許証は男が渡米してすぐ現地の試験を受けて取得したものである。

 ノスタルジアと言えばそれまでであるが、男は今にでもアメリカに飛んで行って、そこで暮らしたいと思った。合理主義者の男にはアメリカでの暮らしが性に合っていると思う。トーレンスという比較的安全な町の通りに沿ったところに2LDKのアパートが用意され、同僚と二人で借りて住んでいた。家具や車やアパート代やガソリン代や電話代などは全部会社持ちで、1日何10ドルかの手当てまで支給されていて、おまけに常識の範囲内の交際費や会議費を使うことができた。そのため非常に短い期間でアメリカの文化に慣れることができた。男たちのボスになるアメリカ人ご夫妻もよく面倒を見てくれた。

 ある日、日ごろ良くしてくれていたアパートの管理人の奥さんが病気で倒れ入院したとき、同僚と一緒に入院先の彼女を見舞ったこともあった。その時受付で彼女とどういう関係にあるか問われ、彼女が管理するアパートに入居している友人であるという説明をしてOKを貰い、彼女がいる集中治療室まで案内され見舞ったら、彼女は涙を流して喜んでくれた。

 初めのうちはなかなか慣れず、車を共有していた同僚をはらはらさせたがそのうちすっかり慣れ、2週間ほどあった年末年始休暇中女房が来たときも、その後大学の休みを利用してやってきた息子が来たときも、男が自費で別に借りた車でカリフォニア、ネバダ、アリゾナの3州をまたぐドライブをしたこともあった。この時は長距離なので途中3か所ホテルを予約し、そこで宿泊休養しながら本当に長い道のりを運転した。そのときの風景が、テレビに映った風景と重なり合い、男の心をかき立てたのである。

 しかし老齢となった男は運転免許証も手放し、もし仮に再びアメリカに渡りどこかに住所を登録して運転免許を得ようとしても、高齢なるがゆえ試験を受けることもできないであろう。若き日(?)は遠く過ぎ去って、懐かしい思い出だけが残っているのである。
漢詩に「尽日春を尋ねて春を見ず、杖藜踏破す幾重の雲。帰来試みに梅梢を把って見れば、春は枝頭に在って已に十分。」がある。平安時代の末期頃中国の戴益と言う人が作った詩である。この詩のとおり、幸せは自分のすぐ身近にあって、山の彼方の遠い空にあるのではない。男にはそのような思い出があることが大変幸せなことであると思う。
世の中には悲しい想い出、辛い想い出ばかりが浮かんでくる人のことがテレビに出ていた。本当に悲しい、痛ましいことである。同じ人の子であるのに・・・。

2009年7月8日水曜日

都議選(20090708)

 都議選が始まった。各党は国政選挙の前哨戦とばかりに各党党首が街頭に立って演説をしている。各党の候補もそれぞれ主張を掲げて演説をしている。その中で麻生総理だけが「日本の安全」を訴えている。ほかの党や候補者は民衆に聞こえがいいことだけを並べている。国の安全よりも経済、生活、医療、福祉を強調している。

 男は孤軍奮闘する麻生氏にエールを送りたくなった。ソマリヤ沖でわが国の生命線を守るため頑張っているジャパン・ネイビーのことを軽視している党が革命のつもりでこれまで長年積み重ねてきたものをいっぺんにぶち壊し、そこから出発して国の安全も財政も考えてゆこうと考えているかのようである。一方で、国のありよう、国の安全保障のことは一切言及せず、地方分権のことだけを前面に押し出して一国の総理になろうとする輩も喝采を浴びている。男は腹が立って仕様がない。

 選挙の仕組みが悪いのか、国民の関心が国の安全保障よりも自分たちの日々の暮らしだけに向いているのか、国が国民を啓蒙しようとしないのか、いや啓蒙するころができる人物がいないのか、教育が悪いのか、とにかくフワフワした世情に男はいら立ちを覚える。かといって男は一般から見れば右翼的な主張をする人たちのグループに加わりたいとは思わない。たとえ加わったとしても、陣笠のただヨイショするだけの立場にしか過ぎず、また男も誰かにヨイショされる力など微塵も持っていないし、そうされたいと願望もしていない。男にとって何よりも自分の時間が大切であり、自分の時間を犠牲にしてまでも地位や名誉を求めたいとは一向に思わない。年のせいでもあるが・・・。

 ま、矛盾は時間が経てばおのずと解決されるものである。こうして男が思っているようなことを思っている人は潜在的に沢山いる筈である。いわゆる無党派層とされる人々の中にたくさん存在している筈である。そのような人々の間に形のあるネットワークはまったく存在していないが、‘集合的無意識’という目には見えない、人には認識できないネットワークはあると男は考える。心ある識者の中にはこの‘集合的無意識’を無意識のうちに共有している人もいる筈である。男はそう考えて苛立ちを解消することができている。‘集合的無意識’、これを考えたこともない人は多いかと思うが・・・。

 男は若い頃、よく行動したものである。亡父が男の弟に言ったことがあったそうである。「N(男のニックネーム)は、何をしでかすか分からない」と。男の血を引いているのか、男の息子たちはそれぞれ行動派である。中学校の頃は上級生を差し置いて生徒会長に立候補したり、それぞれ高校や大学の時自ら望んで海外に出て、1年間以上親の元を離れていたりした。女房は「子供は悔いが残らないように育てる、その結果子供が命を失おうとそれはその子の運命である」とよく言っていたが、一人の息子はたまたまテロで爆発した列車に乗っていて、途中で乗る列車を間違えたことに気がつき下車して命が助かったりしている。

 息子たちは仕事で海外を飛び回ったり、利害の異なる会社をまとめて共通目的の仕事を完成させたりしている。息子たちは父親である男が願望していてできなかったことを実現させている。命は代々繋げてゆくものでると考えれば、また、世間にいろいろ言いたいことがあってもすでに行動が伴わない年齢であることを自ら省みれば、年に一、二度、たまに息子たちに会ったとき、ビールでも飲みながら天下国家のことを話題にすることができることを大変幸せであると思わなければならないであろう。

2009年7月7日火曜日

古代奥州黒川への道(20090707)

  男は古代官道(駅路)についていろいろ調べている。東山道は平安京を起点に近江(滋賀県)、美濃(岐阜県)、信濃(長野県)、上野(群馬県)、下野(栃木)、陸奥(福島県、宮城県、岩手県)に伸びる道路である。『古代の道』(吉川弘文館、木下良監修・竹部健一著)によれば、古代官道は現在の高速道路にほぼ沿っていて、ほぼ16kmごとに駅が置かれていて、それは現在の高速道路のインターチェンジの位置とよく一致している例が各所に見られるということである。当時の道路総延長は約6500kmで、これは現在の高速道路計画の北海道を除く総延長距離6500kmと一致しているそうである。

 駅には駅長が置かれ、各駅には道路の規模によって馬が5匹から20匹置かれていて、官用には馬を使って良いと規定されていた。官用でない場合は馬や人足を雇って所要の費用を払っていたのであろう。この古代の道路は律令国家によって7世紀後半から8世紀にかけて建設された。道幅は12mあり道路の両脇に側溝もあったようである。

 男が関心があるのは東山道である。それは男の亡父が遺してくれた系図によると、男の遠い先祖某が弾正という肩書で、何かの役目、例えば摂関家の荘園を管理する荘官のような役目で奥州黒川の繋穴というところに住み、会津の小田というところ、それは繋穴と江戸に向かう武蔵路との分岐点の両方からそこまでの里程が江戸時代の換算によるものと考えられる数字で示され場所に、その先祖の知行所があったとされるからである。距離計算ソフトにより計算してみるとその場所は系図に書かれている里程とおおむね合致している。

 平安京から奥州の黒川まで49か所の駅があったようである。駅の間の平均距離は15.4kmだそうなので、その距離は一日の旅の距離だとすると平安京から黒川まで49日かかったことになる。今の時代なら高速道路で、途中宿泊を取らず走れば1日で行ける距離である。

 男が自分の遠いご先祖であるとする弾正某という人物は1000年前に生きていたとされる人物であるから、仮に1世代25年とし、1世代に二人づつ子供を残してきたとすれば、弾正某の子孫は240乗、つまり1兆人ということになる。住んだ地域が狭い範囲内だとその辺に古くから住んでいる人たちは皆親類縁者ということになる。しかも、自分が誰それの末裔であるといっても、その誰それが偉い人であったのであって、自分が偉いわけではない。従ってルーツ探しなどおよそナンセンスであることは男も重々承知している。

 しかし、男は親父が何も言わずに遺してくれたものをそのままにしておき、いずれ衰えてあの世に逝くにはなにかやり残しがあるようで、男が常々考える「一生懸命生き、一所懸命死ぬ」ことにはならないと思った。今生きてここに在るのは先祖の縁であり、男の息子たちが今在るのもその縁を引きずっているのである。心の奥底にその縁に関わる何かしっかりしたものがあれば、それは人生を正しく生き抜く力となると考えられる。そのような縁を息子たちに繋ぐのは今を生きる父の為すべきことであると男は考える。その為すべきこと為すことが男の生きがいでもある。

 人の命は限りがあるが、人の意識は無限に延伸できる。それゆえ古来、人は死をも恐れず行動することができるのである。人は無限に延伸する意識の先に光を見出して、そこに今とる行動の価値を見出す。このような考え方は一般にロマンティストである男がする考え方であり、現実主義者である女はあまり関心がないことである。

2009年7月6日月曜日

毎日が日曜日の音楽(20090706)

 男は全盲のピアニスト辻井さんが弾くショパンの子守唄を大型のフラットテレビで観賞した。とても素晴らしく、感動した。男は中学校時代の担任の先生が音楽の先生であったこともあって音楽には関心がある。関心があるといってもクラシックの演奏会を聴きに行くとか自分で楽器を奏でるとか、自宅に高音質の音楽再生装置を持っているとか、某タレントのようにパソコンで作曲するとか言ったほど関心が深いわけではない。そういう意味では「関心がある」と言う言葉を発するほどでもない。しかし、もし中学校時代から音楽に親しんでいた、男はもっと情操豊かな性格になっていたかもしれないな、とは思う。

 男はベートーベンとかモーツアルトとかショパンとかチャイコフスキーとかの音楽のCDを持っていて、気まぐれにときたまヘッドセットで聴いたりする。いつかは自分もパソコンで音楽を作曲してみようと思って音楽の基礎知識を勉強しておこうと何冊かの本も買って書棚にしまいこんだままになっている。男はやる気であればそんなに時間をかけなくても音楽の一つや二つ作曲はできると思っている。いや、いつかはやってやろうと思っている。男の部屋には子供用のシンセサイザーの演奏器がある。指を動かせば幼稚ではあるが何とか曲を弾ける。ハーモニカも何本か音程ごと違うものを持っていて、童謡唱歌などある程度の曲目は歌の伴奏ができる。女房は「お父さんならできるよ」と言う。

 男はNHK交響楽団の演奏会とか、生の演奏をまだ聴きに行ったことがない。現役のころ勤めていた会社からチケットをもらって、来日した、多分キエフだったと思う、バレーを女房と一緒に観に行ったことがある。チャイコフスキーの『白鳥の湖』などが上演されていて、踊り子たちが一列に並んで幕内から出てくる情景が深く印象に残っている。現役のころはオペラとか歌舞伎とか大相撲とか、ある意味ではちょっとハイクラスの経験をしたが、それぞれ一度きりで十分で、それ以上の関心はない。

 音楽に関してはまだ一度も生演奏を鑑賞したことがないので、一度チケットを入手して女房と一緒に行ってみたいという気持ちはある。男にKという同年の女友達がいて、Kから「一度生の演奏を聴きに行くべきだ」と言われたことがある。Kは男と中学時代から郡内の弁論大会に出て男が優勝、Kが準優勝、男が生徒会長、Kが副会長という具合に深い縁があった。そのKは東京芸大の大学院を出て音楽の道に進んだ。音楽の道に進んだといっても合唱団の指揮者としてである。Kは団員を連れて海外にも行ったことがある。男は一度都内近郊に住んでいる同級生と一緒にKの演奏会を観にいったことがある。その後何度か演奏会の案内があったが、男はなにかと理由を付けて行っていない。毎日が日曜日になった今、もう白髪も多くなっているかもしれないKに会って、Kがまだ指揮者をしているならその演奏会を、同級生たちを誘って、応援かたがた観にいってやろうと思っている。

 男はいろいろ多趣味で、あれもしたいこれもしたいと思ったことがあった。水彩画も2、3枚描いた。俳句もやった。ガッシュの絵の具や歳時記やHowToの本なども購入した。しかしどれもこれもちょっと端っこかじった程度である。打ち込むほど魅力を感じていないのである。あれもこれもしたくても、あれもこれも出来るほどの時間がない。そうこうしているうちに晩年となり、この世におさらばとなる。男は缶ビールの残りを一気に飲んだ。

2009年7月5日日曜日

今は昔の性(20090705)

 小学校教諭だった男が27人もの女子児童の裸の写真を撮ってその写真をそれら児童に対する脅迫材料に用い、「ばらしたらこの写真を皆に見せるぞ」と脅し、女子児童に対する淫行の罪を重ね、懲役30年を求刑されたというニュースがあった。とんでもない野郎だ。テレビに映った件の男の写真は薄禿げ頭で、いかにもそのようなことをしそうな顔である。教職にある者としてあるまじきことをしてしまったとその男は反省しているようであるが、大人になるまでに形成された性格というものは決して変わるものではない。行動は変えることができるかもしれないが、その人が置かれた環境によってその人の性格が表に出て、同じ過ちを必ず繰り返すものである。性格は決して変わるものではないのである。

 男は一緒にそのニュースを見ていた女房に「そういう奴は似たような性犯罪を繰り返すに違いないから強制的に去勢したら良い」と言った。事実かどうかはやぶさかではないが、男は実際にどこかの国でそのような手術が行われていると聞いたことがある。少なくともGPSの装着が義務付けられていて、行動が常に監視されるようになっている国はあり、日本でも検討されていると聞いたことがある。

 去勢と言えば、昔中国では宦官といって去勢された男が皇帝に仕えていた。去勢されているから女官たちに何か色ごとをする能力はないし、皇帝が交わる女性との間にできた子を皇帝の実子であると認定することができたであろう。お茶の間テレビで人気のあった『篤姫』では、将軍と寝るときは衝立一つ隔てたすぐ隣に息をひそめている監視役がいたし、ものの本によれば同じ部屋で背中を向けて寝ている監視役がいたそうである。古代日本は中国からいろいろなことを学んだが、この宦官の制度と辮髪だけは真似しなかった。

 人の心や営みは平安時代の昔から変わるものではない。男は田舎に時々帰るが、田舎の亡父の書棚の中から今東光が著した光文社の『今昔物語入門』と言う本を見つけ、持って帰った。それを読むとつい噴き出してくるほど面白い。男はその本があまりにも面白いので、書店に行って角川ソフィア文庫の『今昔物語集 本朝世俗部上・下巻』(佐藤謙三校注)を買ってきた。この本は現代語訳がないが、読むのにさほど苦労はしない。男は平安時代のことを知るために、この本をぼつぼつ読んでゆこうと思っている。

 この本には性に関するよもやま話が書かれている。上は皇族から下は庶民にいたるまで、いろいろな話が出てくる。「今は昔云々」と始まる語り草には人の名前が実名で出てくるから上流階級の人も話題に上っており面白い。男が噴き出した話の一つは、巻第二十六の「東(あずま)の方に行く者、蕪(かぶら)をとつぎて子を生みし語」である。

 この話は要するにある男が京から東国に出張で出かけるとき女体のことを妄想し、どうにもならなくなって通り筋の大根畑に入り、蕪を一つ引っこ抜いて刀で穴を開け、その穴に致した後その畑の中にぽいと捨てたのであるが、後日その畑の持主の娘がそれを拾って食べたらお腹が大きくなり赤子が出来てしまった。心当たりが全くないのに起きたことなので仕方なしに育てていたら、件の男、その畑のわきを通りすぎるとき従者にかつて自分がどうしようもなくて致したことを話しているのを娘の親が聞いていてはたと思い付き、娘にできた子の父親が認知され、めでたしめでたしとなったという話である。

2009年7月4日土曜日

贈答(20090704)

 男の家に昨日田舎から野菜や米を送って来た。男の女房が幼少のころから思春期の頃まで、親代わりになって育ててくれた叔父・叔母からである。男とその叔父とは血の繋がりはないが、多分何百年か遠い昔には血が繋がっていたかもしれない。叔母とは男の祖母の親類筋から嫁に来ているので、男とはそういう意味で血が繋がっている。

 男の家には女房と年は10歳くらいしか離れていず姉のような叔母からも時々野菜や米、時には土地の美味な海産物まで送ってくる。お互い話し合っているのかどうか知らないが交互に送って来るので、男の家では米を買うことは殆どない。もっとも男の家の朝食はパンであり、いつもパンを買う店で新しいパンが焼きあがったときなどもパン食であるし、ご飯もお茶碗に軽く一杯なので、米の消費量は普通の家に比べてかなり少ない。そのため米を買うことが少ないのである。送ってくる米はコシヒカリであり、精米したてのものなので、その辺で古い米とブレンドされていないかどうか疑い深く買う米よりは数段おいしい。野菜は二人で消費しきれないほどなので、女房が日ごろ親しくしている近所におすそ分けに配っている。

 そのご近所からも時々おいしいものを頂いている。釣りが好きな方からはイサキなどの魚や釣り宿からもらったという新鮮な海産物を頂いている。ワカメなどは女房がベランダで干して乾燥したものを小切りにし、みそ汁などに入れる。そのご主人が「これは刺身にして食べて下さい」と食べ方を教えてくれるのでその通りにしていただく。魚やイカなどをさばく仕事は以前は女房に任せきりだったが、最近は男が行うようになった。さばいたものは女房の指示通り小分けにして冷凍しておき、後日何回かに分けて頂いている。
昨日別のお宅から四国の金時芋を頂いた。早速女房が焼き芋器で焼いて出してくれた。ほくほくでおいしいことこの上なしである。田舎が薩摩の方からは薩摩上げなどを頂く。別のかたからは炊き立てのおこわを頂いたりする。

 米が余りそうなときは女房が子たちに他の物をあれこれ買ったものを一緒に梱包して送ってやっている。嫁たちから「助かります」などと感謝の電話が来る。

 真心をこめて品物やお金を贈ったり贈られたりすることは非常に重要なコミュニケーションの手段である。ただ儀礼的にやり取りするだけならしない方がよい。男の家には男の友人などから季節ごとに新茶や果物やそばなどが送られてくる。男も毎年お中元やお歳暮の時期には相手が喜びそうな品をインターネットなどで調べて注文し、贈っている。物を贈ったり贈られたりして、物が届く前とか物が届けられたとき相手と直接電話で話し、お互いの近況などを知る。九州の福岡と横浜に自分の家を持っていて年に何度か往復しているある友人から、「今度九州に帰ったらぜひ立ち寄って下さい」といつも言われているので、男は今度こそ途中下車して寄らせていただこうと考えている。

 男には北九州のある田舎で晴耕雨読の暮らしをしている別の友人からも「是非立ち寄れ」と言われている。男がそれらの友人を訪問するのは女房抜きでなければならない。女房も一緒に行くことを全く望んでいない。

 男は家伝書などの執筆のための取材も含め、ある時期には人生の締めくくりとして、せめて1週間か10日間の独り旅をしたいと考えている。芭蕉は旅をしたが、旅をすることによって何か得るところが多いであろう。芭蕉と違い独り旅であるが・・。

2009年7月3日金曜日

日本と中国・韓国・北朝鮮の関係(20090703)

某紙に中国の復旦大学国際問題研究院常務副院長沈丁立という方が朝鮮半島の現状についてインタビューに答えている記事が男の目にとまった。折しも、北朝鮮の貨物船が米軍の追跡を受け、ミャンマーに向かっているという報道があった。また、北朝鮮の指令を受けて在日朝鮮人の貿易会社社長が日本からミサイルの機器をミャンマーに輸出しようとして逮捕されたという記事もあった。北朝鮮は過去にミャンマーに武器を輸出し、見返りにミャンマーから米を輸入したということである。
沈氏は、「アメリカは最後に北朝鮮の核兵器を受け入れるのは間違いない、国際社会はこれを阻止する能力はない、核を放棄しない北朝鮮に他国を侵略させてはならない、侵略しようとするなら韓国と日本をさらに刺激し、中国にとって大きな脅威となる、アメリカが台湾に武器を売却する以上、中国が信用できないのはアメリカであり、北朝鮮は在韓米軍への対応で役に立つ、それゆえ中国は北朝鮮に食糧、石油、化学肥料などを提供して北朝鮮を養い、わが方につなぎ留めている。」と言う。
男はこの記事を読んでふと飛鳥・奈良時代の中国(当時、唐)、朝鮮(当時、百済、新羅、高句麗、渤海)と日本(当時、倭国)の関係を思い浮かべ、書物で調べ確認した。日本は百済を救い朝鮮半島における日本の権益を守ろうとして安曇比邏夫を総指揮官に、総勢42千人、軍船約1千隻を朝鮮半島に送り、663年百済の白村江で海(黄海)からの唐軍、陸からの唐・新羅連合軍の挟み撃ちにあい、大敗し、朝鮮半島における権益を一切失った。しかし、その時朝鮮半島(百済)から数千人の有能な人材を難民として受け入れた。
日本はそれ以前もそれ以降も朝鮮半島から半島における政変の度に何万人以上の有能な難民(当時半島を支配していた非常に多くの中国人を含む)を受け入れ、中国に対抗する律令国家建設のため力を発揮してもらった。その後数世紀の間に帰化人と倭人(当時の日本人)との間で混血が進み、皆、日本人となった。『旧皇族が語る天皇の日本史』(PHP新書、竹田恒泰著)は、「現在の日本で在日と呼ばれる人は、日本に来た時期が異なるだけで(飛鳥時代の帰化人たちと)本質的には同じであるまいか。今後混血が進むと、将来の日本人の先祖となるのであり、それは日本人にほかならない。」とおっしゃっている。
白村江の戦い以降、新羅は朝鮮半島から唐を追い出し、高句麗を滅ぼしたが、北方に高句麗などの流れをくむ渤海が興り、727年に日本と渤海が国交を結び、中国(唐)と渤海の関係が緊迫化し、唐と新羅が接近するという状況があった。
明治時代、日本は朝鮮半島から中国(清)を追い出し、中国の遼東半島の領有をねらったロシアを追い出した。モンゴル人が中国の皇帝であった元の時代には朝鮮半島は元に領有されていて、朝鮮半島人の兵や朝鮮半島で調達された軍船による10万人規模の大軍が2度にわたり日本に侵攻してきたが、神風が吹いて日本は救われた。
日本は古代からずっと中国大陸や朝鮮半島との関係で独立と安全を脅かされてきた歴史がある。男は、いつまでも大東亜戦争の敗戦のトラウマに囚われ、平和ボケしている日本人、特に男と年代があまり違わない年寄り世代の人には各界から早々に身を引いてもらい、若い世代の人たちが将来の日本をリードしてゆくようにすべきであると思っている。

2009年7月2日木曜日


ごみの収集(20090702

 ごみの収集についていろいろ問題があるようである。男が古紙を処理している会社の現場でアルバイトをしているAさんから聞いた話によると、現場では紙おむつや食べかすが残っている容器も持ち込まれているそうである。現場ではそれらをいちいち仕分ける暇もなく一緒に処理し、中国に輸出されるそうである。

 なぜそのようなことが起きるかというと、A市が作成したゴミの収集の基準が分かりにくいことに一つの原因があることがわかった。その基準によると、ダンボールなどの古紙は燃えるごみではなく別の日に収集することになっている。ところが、A市の担当部署によれば段ボールの小箱をちぎったものはたとえ少量であってもその古紙などを出す別の日に出し、一般ごみ(燃えるごみ)を収集する日にそのごみ袋の中に混ぜて出してはいけないと言うのである。理由は段ボール箱は資源ごみだからである。

 A市が相当な金をかけて、しかも担当課が何度も会議を重ねて作成したごみの収集基準はわかりやすく作られているようで実はわかりにくい。例えば引っ越す人がいて寝具の毛布を透明な袋に入れて出してあった。市の基準では「汚れている」衣類、毛布、カーテンなどは「燃やすごみ」の収集日に出すように書かれている。男には「汚れている」基準が何なのかわからない。担当の窓口に聞いたら、「‘汚れもの’と紙に書いて出して下さい」と言う。男は出されてあった毛布に水をかけてわざわざ「汚れ」たものにし収集の様子を見ていた。ごみの中には明らかに古紙として別の日に出すものもあったが、男は作業員に「ご苦労さま」と声をかけてお願いして全部持って行ってもらった。

 男は市の担当部署に次のように申し入れた。「ごみの収集の基準を大きく二つに分けて、一つは‘資源ごみ’、一つは‘その他の家庭ごみ’と分ける。その上で、‘資源ごみ’でもリサイクルするものと、リサイクルしないものの二つに分け、リサイクルしない理由を簡単にわかるように説明する。例えば段ボールの小箱を小さくちぎったものは‘資源ごみ’であり、プラスチック類でも‘プラ’の表示のないもの、または判断が難しいものは ‘その他の家庭ごみ’とする。使用済みのサランラップは‘その他の家庭ごみ’であって、‘資源ごみ’ではないと注書きする。30cm未満の小さな金属類は資源ごみ扱いとなっている30cm未満例えばフライパンの柄の部分を含まないと注書きする。30cm未満というのは小さすぎるので45cm未満とする。シンプル・イズ・ザ・ベストである」と。

 男は‘お役所仕事’について考えてみた。役所の職員たちは ‘公僕’であると表向き‘謙遜’するが、実は一般市民を‘統治’する立場である。市の職員は平安時代の‘在庁官人’のようなものである。自ら気がつかない、いや自分自身では決して気づくことができない自分の深層心理は‘統治’される側の一般庶民よりも自分の保身や自己実現のほうが大事であるという心理である。その自分も家に帰れば一般市民なのであるが・・・。

 男は市の担当窓口である実際にごみ収集を行う現場の事務所に電話を入れ、電話に出た女性の職員に「ともかく今日うちのマンションで引っ越す人がいて、毛布を収集してくれるかどうか心配していたので、水をかけて汚れたものにして置くから持って行ってほしい」と要望しておいたところ、収集作業員は黙って持って行ってくれた。毛布などは洗濯すればリサイクルできる。収集車が基準に照らし持って行かなかった古着や毛布は放置され、雨に濡れたら次回持って行ってくれる。全くあほな話である。

2009年7月1日水曜日


人生の冬は花盛り(20090701)

テレビで101歳の元気なおばあちゃんのことが紹介された。そのおばあちゃんは元教師で14年前にご主人を亡くし、現在ある特別養護老人ホームで暮らしている。そのおばあちゃんのことを仮にAさんと言っておこう。Aさんはそのホームで余生を非常に生き生きと暮らしている。というのはAさんは和紙にクレヨンで絵を描いているのである。絵だけではなく、その絵に大変達筆でご自分が作った俳句も書き添えているのである。
ある日そのAさんと以前付き合っていたこれも高齢のご婦人が自分の家の庭に咲いていた白い梅の花の枝をもって見舞いに訪れた。Aさんはその梅の花を題材に絵を描いた。絵は何日かかけて完成した。Aさんが描いた絵の梅の花は桃色の花になっていて、ご自分が若かったころの風景が挿入され、ご自分が作った俳句が流麗なくずし字で書き添えられていた。その風景には着物姿の若い女性たちが描かれていた。
Aさんは一枚の絵の中に自分を表現することができてとても楽しい、という。101歳になってもなお毎日生き生きと生きる姿に男は感動した。男もAさんのように生き生きと精神活動し、最期まで命をいと惜しみ、周りの人たちに生きる喜びを与えながら生きたいと思う。何かを表現をして人々に感動してもらうという行為は、いくらそのようにしたくてもすぐできることでもなく、また誰にでも出来ることでもないと男は思う。それには何か基本的な素質が必要である。その第一は自ら物事に感動することができる感性である。美しいものを美しいと感じ、自分のものとしてそれを表現することができる能力であると思う。
男は自分自身を省みてそのような素質には欠けていると思う。男は行動派で、何か感傷に浸るような女々しいことは嫌いである。物事は竹を割ったようにスパッと切れて、後を引かないように処理されるべきであると日ごろ思っている。それに根気よくこまごまと作業を続けることは性に合わないと思っている。それでも男はAさんのようにクレヨンや絵の具など持っていて、絵も近くの川と橋を題材に何枚か描き同好会の展覧会に出展したことも何度かある。男の部屋にはその時の絵が一枚掛けてある。男はAさんのように絵を描きたいと思わないこともない。しかし、男はその時間を惜しんでパソコンと遊んでいる。
男は生きている間にやり遂げたいことは、男の遠い先祖のことを家伝書として完成させること、そしてその家伝書に書いたことを題材に小説を書いて遺すことである。家伝書の草稿はほぼ完成している。男の亡父が遺してくれていた1000年前の系図をもとに、いろいろ調査して、想像も加えて肉付けしたらA4判で100ページほどの分量になった。
小説を書くことについては構想を練っている段階である。参考にする本は、第8次遣唐使船に乗って留学生として唐に渡り、科挙の試験に合格して玄宗皇帝に仕え、出世し、日本に帰国しようとして乗った船が難破して結局帰国を果たせなかった阿部仲麻呂のことを書いた小説や、孔子のことを書いた小説、源氏物語の時代のことを書いた本や『大鏡』『今昔物語』などである。素人が遊び心で書く本であるから、一般の人には笑止ものである。
男はAさんのように一般の人々に感動を与えるような芸術活動は時間もないし、熱心になれない。時間は誰にも平等であるから、自分が熱心になれる意義あることに集中的に使えばよいと男は思っている。それが良い人生であると男は思っている。

2009年6月30日火曜日

男の左脳、女の右脳(20090630

 男脳と女脳とは基本的に違うらしい。男性は一般的に左脳の働き、物事を論理的に処理しようとするが、女性は右脳がよく働くらしい。しかも右脳と左脳との間で情報が行き来しながら物事を処理するらしい。男性の関心事と女性の関心事は違う部分が多い。だから男と女の間ではしばしば衝突が起きるという。戦国大名伊達政宗は、本当にそう言ったかどうか知らないが、「家の中では客人のように振る舞えばうまく行く。」と言ったそうである。

 良く聞く話に、亭主はかみさんから「うちの人はうるさい」と思われているようである。亭主は瞬時に先々のことまで思考が及ぶので、かみさんがまだ理解できていないことを低い声でぼそぼそと言う。かみさんは亭主が言っていることをまだ理解できずにいると亭主は苛立つ。物事に対する男性の理解の仕方と女性の理解の仕方が違うので、女性は男性より劣っていると思われがちである。ところが物事について女性が理解しやすいように言ってやると、女性は男性よりも早く理解できるそうである。しかも物事を正しく理解できるそうである。そういう意味では女性は男性よりも頭が良いと思われる。

 男は10年前お年寄りの家事援助を行う女性だけの団体にかかわったことがある。頭の良い女性たちが男をその団体の代表にし、その団体を特定非営利活動法人(NPO法人)という長ったらしい名前の法人にするための作業を手伝わせた。その団体は看護師である女性がヘルパーの講習会を開いて人を集め設立した団体である。その女性、仮にAさんと言っておこう、彼女が子供時代から友達であったBさんにこう言った。「だって、Mさんを長にしないと彼は動いてくれないから・・・」。Bさんが「なぜMさんを長にするの?」と言ったことに対しての応答である。Mさんとは男のことである。

 男は人生の大半を大きな組織で働いてきて若い時から管理職をしていたので、組織を立ち上げること、人を動かすことについて自分の右に出る者はいないという自負があった。Aさんは男がこの団体に来る前から特定非営利活動法という法律ができることを知っていて、この団体を法人化するための知識や方法を十分熟知していた。Aさんは男を連れて法人化手続きのため役所周りをし、男を教育した。Aさんは理念を最も大切に考えるが男は理念よりも経営を重視する。Aさんは初めの段階で男の言動に眉をひそめた。

 男はともかく経験を生かしてその団体を法人化させ、理事長に座り、仕様書を作ってその使用に合うスタッフを採用し、企業的経営に執心した。NPO法人といえども公益法人として利益が出れば法人税を払わなければならない。利益はその法人で活動する人たち、自分も含め安い報酬で働いて経費を切り詰めた結果生ずるものであってはならず、適正な費用を計上したうえで生じるものでなければならない。NPO法人といっても営利を目的とせず、納税後残った資金は分配しないということだけであって、経営形態は営利企業のそれと大差ない。男は営利企業並みに人事・給与・福利厚生に至る10余りの規程を作った。「規定」と「規程」の違いも女性たちに口酸っぱく説明した。最初の段階から各種社会保険、労働保険、民間の保険に加入し、社会保険事務所でも驚かれたが企業年金や中小企業退職金積立機構にも加入した。

 その団体は確かに女の細腕で稼ぐ団体ではあるが、男は主婦感覚の甘えた考えを嫌った。女ばかりの団体の中でただ一人の男は時々苛立ち声を荒げてスタッフの女性を叱り飛ばすこともあった。男は7年後定時総会で理事長の座をBさんに渡し、そこを去った。