2009年7月7日火曜日

古代奥州黒川への道(20090707)

  男は古代官道(駅路)についていろいろ調べている。東山道は平安京を起点に近江(滋賀県)、美濃(岐阜県)、信濃(長野県)、上野(群馬県)、下野(栃木)、陸奥(福島県、宮城県、岩手県)に伸びる道路である。『古代の道』(吉川弘文館、木下良監修・竹部健一著)によれば、古代官道は現在の高速道路にほぼ沿っていて、ほぼ16kmごとに駅が置かれていて、それは現在の高速道路のインターチェンジの位置とよく一致している例が各所に見られるということである。当時の道路総延長は約6500kmで、これは現在の高速道路計画の北海道を除く総延長距離6500kmと一致しているそうである。

 駅には駅長が置かれ、各駅には道路の規模によって馬が5匹から20匹置かれていて、官用には馬を使って良いと規定されていた。官用でない場合は馬や人足を雇って所要の費用を払っていたのであろう。この古代の道路は律令国家によって7世紀後半から8世紀にかけて建設された。道幅は12mあり道路の両脇に側溝もあったようである。

 男が関心があるのは東山道である。それは男の亡父が遺してくれた系図によると、男の遠い先祖某が弾正という肩書で、何かの役目、例えば摂関家の荘園を管理する荘官のような役目で奥州黒川の繋穴というところに住み、会津の小田というところ、それは繋穴と江戸に向かう武蔵路との分岐点の両方からそこまでの里程が江戸時代の換算によるものと考えられる数字で示され場所に、その先祖の知行所があったとされるからである。距離計算ソフトにより計算してみるとその場所は系図に書かれている里程とおおむね合致している。

 平安京から奥州の黒川まで49か所の駅があったようである。駅の間の平均距離は15.4kmだそうなので、その距離は一日の旅の距離だとすると平安京から黒川まで49日かかったことになる。今の時代なら高速道路で、途中宿泊を取らず走れば1日で行ける距離である。

 男が自分の遠いご先祖であるとする弾正某という人物は1000年前に生きていたとされる人物であるから、仮に1世代25年とし、1世代に二人づつ子供を残してきたとすれば、弾正某の子孫は240乗、つまり1兆人ということになる。住んだ地域が狭い範囲内だとその辺に古くから住んでいる人たちは皆親類縁者ということになる。しかも、自分が誰それの末裔であるといっても、その誰それが偉い人であったのであって、自分が偉いわけではない。従ってルーツ探しなどおよそナンセンスであることは男も重々承知している。

 しかし、男は親父が何も言わずに遺してくれたものをそのままにしておき、いずれ衰えてあの世に逝くにはなにかやり残しがあるようで、男が常々考える「一生懸命生き、一所懸命死ぬ」ことにはならないと思った。今生きてここに在るのは先祖の縁であり、男の息子たちが今在るのもその縁を引きずっているのである。心の奥底にその縁に関わる何かしっかりしたものがあれば、それは人生を正しく生き抜く力となると考えられる。そのような縁を息子たちに繋ぐのは今を生きる父の為すべきことであると男は考える。その為すべきこと為すことが男の生きがいでもある。

 人の命は限りがあるが、人の意識は無限に延伸できる。それゆえ古来、人は死をも恐れず行動することができるのである。人は無限に延伸する意識の先に光を見出して、そこに今とる行動の価値を見出す。このような考え方は一般にロマンティストである男がする考え方であり、現実主義者である女はあまり関心がないことである。