2009年7月12日日曜日

マイケル・ジャクソン追悼式(20090712)

 このブログを書いている8日、マイケル・ジャクソン追悼式の様子がテレビに映し出されていた。男は日ごろマイケル・ジャクソンにあまり関心がなかったので、彼がどんな歌を歌っていたのか、なぜ世界中の人たちが彼の死をそんなに悲しむのか理解できなかった。ところが追悼式会場で、男が知らない歌手たちが『To heal The World』という歌を合唱していた。歌詞の内容から、男は初めその歌は日本人が作ったものではないか、聴いたことがあるような歌だなと思っていた。

 ところがこの歌はマイケル・ジャクソンが歌っていたということである。男は何故彼の死があのように惜しまれたのか納得した。人々は自分の理想を実現してくれるスーパースターが必要なのである。人々の思いはマイケル・ジャクソンや、石原裕次郎や、美空ひばりたちが共有してくれるのである。人々には自分を投影するスターが必要なのである。

 男はこれまでの人生の中で、自分自身が好きだという歌手や映画スターは特にいない。女房に聞いてみても同じ答えが返ってくる。女房は若いころ、子育ての頃口ずさんでいた歌を今でも何かしながら口ずさんでいるが、憧れる歌手やスターはいない。気に入った音楽や歌をCDなどでBGMのようにして、何か別の作業をしながら聴いていることが多くても、その音楽の作曲家や作詞家や歌手のことには特に関心がない。

 かつて小泉首相はスターのような人気があった。今、人気をバックに政治家を目指す芸能人も多分何人かはいるであろう。人々はスターを求めているのである。オバマ大統領もスターである。ブッシュのスターであった。暗殺されたケネディは大スターであった。

 昔、670年前ごろまでは、マスメディアも今のように一人一人の個人の時間の中に浸透していなかった。携帯電話システムが世界中に広まり、アメリカや日本や韓国などのように、個人がどこにいても、移動中でも情報に自由にアクセスすることができるようになると、政治家にはスター性が求められるのだと思う。人々の思い、人々の理想、人々が無意識的に願望している共通のもの、集合的無意識、それらを共有し、実現してくれるスターが政治家であることが求められる時代になっているのだ。

 しかし、しかしである。いやしくも政治家を目指すものは、日本の歴史を古代から近現代に至るまでよく知っていて、和歌の一つや二つを作ることができ、合気道や剣道などの武芸も多少心得があり、その上でこの日本をどう導くのかというしっかりとした理念を持っているべきである。一般の民衆はスターを求めているのであるから、大統領的総理大臣を目指す人たちは日本の顔として人々が自慢できるような美しさを備えているべきである。

 スポーツの世界では国際競争に勝つために国が選手の育成強化を行っている。同様に、世界に伍して優れた政治家を育てるために、国が、または国に代わる何かのシステムが全く中立の立場で人材の養成を図るようにすべきである。

 アメリカの大統領選挙のような選挙の仕組みにして、スターのように格好がよく、しかも資質が非常に優れている人物を、国民が選び出せるようにすべきである。議院内閣制ではそのようなスターはなかなか出てこないと思う。

 ところで、マイケル・ジャクソン追悼式の終わりにマイケルの娘・パリスちゃん11歳が、涙ながらに「パパを愛していた」と言っていた。会場にいた人たちもパリスちゃんを見て泣いていたそうである。男はパリスちゃんが立派に成長することを願っている。