2009年7月15日水曜日

母への慕情(20090715

  ‘夏河を越すうれしさよ手に草履’という句は、与謝蕪村が亡くした母を慕って作った句であると言われる。蕪村の母は丹後国与謝郡の出身である。美人だったらしい。蕪村はその女性が摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)の庄屋の家(谷口家)に奉公に来ていたとき、その谷口家の初老の当主が与謝郡から来たその女性に手を付け、生まれた子であると言われている。蕪村は生みの母であるその女性が身分の低い出であったにもかかわらず谷口家に世継ぎとなる男子がいなかったため、谷口家の庶子としての扱いを受けていたが、母の実家でなにかあったらしく母は実家がある与謝郡に帰り、そこで何があったのか31歳のとき入水自殺してしまったらしい。それは蕪村が13歳のときであったという。その後父も他界してしまったため、蕪村は若くして両親を失った。

  蕪村は享保元年(1716年)に生まれ、少年時代ニックネームは‘寅’、本名は谷口信章であったという。蕪村は俳号である。蕪村は少年時代淀川でよく遊んでいて、その川辺に母が立っていて楽しそうに遊ぶ寅を優しく見守っていたのであろう。蕪村は42歳ころ冒頭に掲げた句を詠んだということである。男も10歳の時、母を乳がんで亡くしている。母は33歳の若さであった。生み育ててくれた母に対する思慕の念は、年がいくつになっても変わらないものである。ゆえに、男は蕪村の気持がよく分かる。

  男の母はB市の高等女学校を出てすぐ県北の田舎のある小学校で代用教員になり、幼い妹、つまり男の叔母を引き取り、懸命に生きていた。というのは男の母も若くして両親を亡くしてしまっていたからである。そのとき男の父を知る県の視学が父と母とを引き合わせ、師範学校を出て新進気鋭の教師であった父と結婚し、長男である男が生まれた。男の父は当時朝鮮南部のある道に出向を命じられ、35歳の若さで国民学校(今の小学校)の校長になっていた。終戦の年、1945年の夏の終わりごろ母は男ら三人の子供を連れて引き揚げ、父の実家に身を寄せた。父は事務引き継ぎを終え9月末帰国した。そのときすでに母の胸には乳がんのしこりができていた。母はB市の病院で二度にわたる手術を受け、両乳房を切除してしまったが、がん細胞は全身に転移し、病院から見放され翌年の暮、父の実家で息を引きとった。凍る冬の夜空には浮かぶ二つの星の間に三日月がかかっていた。

  母のやせ細った背中にはがんの小さな塊が沢山あってでこぼこしていた。母は男に「起こしておくれ」と言い、「背中をさすっておくれ」と言うのでそのとおりにしてやっていた。そのことが2、3度あった。ある日また「起こしておくれ」というのでいつものとおり起こしてやったら、今度は「東に向けておくれ」という。そして「お仏壇からお線香をとってきておくれ」という。そのとおりにしてあげたら「お父さんを呼んで来ておくれ」という。高台に10軒ほど並んでいる集落の裏手に男の祖父が所有していた山林があり、男の父はそこに風呂や台所の燃料にする松葉を掻きに行っていた。男が父を裏山まで呼びに行き一緒に戻ってきたとき、母はすでに息を引き取っていた。父は号泣した。

  男の記憶では、母は一度もがんの痛みを口にしなかった。恐らくがんの痛みをじっと堪え、遺して逝く児に耐える勇気を示していたのであろう。米がなかなか入手できない時代、病院の個室で祖母がひそかに送ってくれていた白米で魚の刺身のお茶漬けを男と弟のために作ってくれた。それは遺して逝く子たちに対する母のせめてもの愛情であったのだ。母の祖父は幕末のある藩の藩士で当時の船舶・港湾局長のような職にあった。