2009年7月10日金曜日


七夕まつり(20090710)

 男はいつものように自動的に録画されている『日めくり万葉集』を再生して女房と観ていたら山上憶良の七夕の歌のことが出ていた。山上憶良が702年第7次遣唐使の一員として唐(その頃則天武后が皇帝になっていて国号を‘周’としていたが、705年則天武后が亡くなって‘唐’に復帰した。)に渡ったとき、唐には彦星と織姫が出会う七夕祭りを盛んに祝っていた。日本の七夕祭りは憶良が当時の中国の風習を日本に持ち帰って、日本で広まったものであるという。男も女房も「へえ、そうなんだ」としきりに感心していた。

 山上憶良の父母等はあきらかではなく、一説に近江(滋賀県)甲賀郡の百済系渡来氏族であるという。日本書紀には663年の白村江敗戦後非常に多くの百済人が倭國(当時まだ日本は自国のことをそう呼んでいた)に引き揚げてきて、朝廷は近江や東国などに田などを与えて居住させている。引揚者の中に王族や貴族など教養が高い人たちが非常に多く含まれていて、彼らがその後のわが国の発展に寄与している。憶良もその一人であるのだろう。

 古代朝鮮半島に政情不安がなければ、日本には有能な人材が渡って来ることはなかったかもしれない。数世代を経て倭人と渡来人は混血を繰り返し、皆日本人になったのである。その日本人がかつて朝鮮人を軽蔑していた時代があった。男は終戦で1945年の秋、母に連れられて日本に引き揚げてきたのであるが、子供のころは朝鮮で暮らしていた。その頃、日本の子供が道端で悪いことをしているのを見たことがあるが、通り過ぎる朝鮮人の大人は見て見ぬふりをしていたことを覚えている。

 男はまだ8歳で小学校1年生のとき、級長をしていた。そのクラスの同級生に12歳の朝鮮人がいた。記憶にはないがクラスには多くの朝鮮人がいたと思う。先生も校長である親父をのぞいて、7、8割の先生は朝鮮人ではなかったかと思う。その12歳の同級生は男の兄貴のようにして男を遊びに連れて行ってくれていた。名前は新井という日本名であった。男はもし機会があれば、その新井さんに会ってみたいと思っている。もう鬼門に入っているかもしれないが・・・。

 在日韓国・朝鮮人は毎年非常に多くの人たちが日本人と結婚しているという。男は明治時代から終戦までの皇国史観を全部が全部悪いとは思わない。日本各地に神社があり、人々が暮らしと切っても切れない祈りの場としての神社と、万世一系の天皇という「平和を祈り、国民の幸せを祈る」存在は、日本人の心のよりどころである。滋賀県には白村江の敗戦で倭國に移住した先人を祀る神社・鬼室神社がある。日本は神代の昔から渡来してきた人も皆、天皇を一家の中心のように考えてきたのである。

 ナチスはアーリアン人だけが優秀で、ドイツを中心としたアーリアン人の帝国を築くため、ポーランドなどからまだ親の元に居なければならない子供たちを引き離し、20万人もの子供たちをドイツ国内の施設でドイツ語はもとよりドイツ帝国の維持に必要な教育を施して人材の育成を図った。倭國、後の日本国はそのような非人道的な酷いことはしていない。天皇は皇帝ではなく、日本の各家の宗家のようなものである。

 もう一度原点に立ち戻り、日本の近現代史の中で悪かったところは謙虚に反省し、良かったところまで否定せず、未来に輝く日本を目指してゆくべきである。男はせめて自分の孫たちに教えておきたいと思い、古代の天皇の事績に関わることを書いた資料を送ったりしている。今はまだ関心がないことであるとは思うがそれでもよい。男は将来の日本を担う人たちに、男の思いを伝えたいのである。