2009年11月13日金曜日

纏向遺跡と耶馬台国(その1)((20091113)

  このところ世間は騒がしい。子供を育てている34歳の女性の結婚詐欺事件、その女性が犯人かもしれない結婚詐欺にあった男性たちの不審死事件、父親が元外科医で母親は元歯科医である30歳になる長男がイギリス人英語講師の女性を殺害して逃亡していたが逮捕された事件などなど連日報道されている。そういう状況の中、俳優森重久弥が96歳で老衰のため他界した。テレビに写った写真はほほ笑んでいる顔をちょっと横にして手をちょっと上げて、「さよなら、さよなら」と言っているらしい姿である。男は、自分もあのようにして逝きたいと思った。その時はあと何年後だろうか。十数年後だろうか。

  さて、男は自分が何処から来て何処に行くのか知りたくて、日本人の起源などについて本を買い、いろいろ調べてこのブログに書き遺した。2000年以上昔の神武天皇の東征のことなど『古事記』に出ていることをよく読んでゆくうちに、自分がその現場に居合わせているように感じる。自分のはるか遠い祖先もその現場にいたのかもしれないと思う。
人も動物も植物もそれぞれの個々のものは皆己の保存と存続を求めて衝突し、安定状態になろうとして動いている。人はその活動の過程で他者を殺すことがある。人は集団を作り他の集団と対抗しようとする。人の集団は他の人の集団と衝突し、集団として安定し状態になろうとする。目的を同じくする集団同志連合し、その連合した集団群は他の集団群と衝突し、集団群として安定した状態になろうとする。この地球上から核兵器を無くそうと日米が共同で取り組もうとしている。交通と情報と通信の発達は生物の体内のエネルギー伝達系と外部からの刺激に対応するセンサーと神経系のようなものである。この発達は留まることはしない。遂には人類は地球上では利害の調節を行って互いの闘争を避け、宇宙に生存の場を拡張し、人類の種の保存と存続を求めている。

  今日11日水曜日、夜11時、たまたまテレビのスイッチを入れたらテレビ朝日で古舘一郎が奈良県の纏向(まきむく)遺跡に卑弥呼の宮殿跡かもしれないところが見つかったと興奮気味に話していた。耶馬台国の所在地について考古学上の成果から、これまでのところ畿内説が優勢であるが学問的には決着がついていない。もし纏向遺跡から金印かそれを押した後が残る遺物が発見されれば耶馬台国は畿内にあったことが決定づけられるが、謎のままのほうがロマンがあってよいと彼は語っていた。

  男は、渡来系弥生人は1000年以上にわたりいろいろなルートでこの日本列島にやってきたと思っている。大和盆地では長江中・下流域から黒潮にのり近畿・中部地域の海岸に辿りついた人々と先住縄文人との間で文化交流と混血の結果生れた民孫がそこで王国を築いていたと推測している。彼らと九州の王国の民、神武天皇もその一人、とは先祖の渡来ルートや時期も違うと推測している。何れにせよ渡来系弥生人たちはこの日本列島の先住者である縄文人たちと文化交流し、混血し、今の日本人になったのだと思う。

  その縄文人はアフリカを旅だった人々が現在のアフリカ人やヨーロッパ人やアジア人に分化する以前の古い形態をもった人々であり、彼らは人類の拡散の早い時期に東アジアに到達した。その後シベリヤで寒冷地に適応した北方系アジア人の南下によって駆逐されたがこの日本列島ではその地理的特性により縄文人と渡来系弥生人とは文化交流し、混血していたのだと思う。古舘一郎が「自分はどこからきたのか知りたい」と言っていたことに男は共感している。(関連記事『日本人の起源とヤマト王権(その1)(20091107)』)(続く)

2009年11月12日木曜日

日本人の起源とヤマト王権(その5(20091112)

  男はカムヤマトイワレビコが大和盆地に侵入したときその地にはすでに長江中・下流域にルーツもつ人々の王国があったと考える。『日本列島の大王たち』(吉田武彦著、朝日文庫)によれば、日本列島の中心域に倭人とは別に東鯷人(とうていじん)が住んでいたらしい。吉田武彦は『漢書』地理誌の記述を引用して、『魏志倭人伝』に書かれている倭人は北九州を中心とした王国の人々であって、鯷人は日本列島中心の日本海側から太平洋側あるいは瀬戸内海側に王国を築いていた人々であり、3世紀まで中国に貢献していたという。

  男は、東鯷人は渡来系弥生人の血が混じる倭人とは別に、長江中・下流域の稲作・漁労の人々が北方の畑作・狩猟の人々の圧迫を受けて、舟で長江を下り海に出て、台湾や日本列島に流れ着いた人々の子孫ではないかと思う。彼らは元々居た縄文人たちと交わりながら故郷の文化・文明を伝えたであろう。その後朝鮮半島経由で、同じ長江中・下流域で稲作・漁労の文化と畑作・狩猟の文化が交流し、人々の間で混血も行われて生れた新しい漢民族が北上して朝鮮半島経由で日本列島に辿りつき、時代を経て北九州に倭人の王国が誕生した。この王国の民は時を経て陸伝い或いは沿岸伝い或いは川をさかのぼりは九州全域に勢力圏を広げた。その過程で先住の縄文人や長江中・下流域からポートピープルとなってやってきた人々の子孫らと文化の交流をし、混血していったであろう。その一つが海童の玉依姫を母とするイツセノミコトとカムヤマトイワレビコ(後の神武天皇)の兄弟である。

  この兄弟が吉備の王国の支援を受け、それまで率いて来た水軍に強大な吉備の水軍を加え、紀伊の熊野周りで大和盆地に入った。その盆地の王国は鯷人の王国でその先祖はやはり長江中・下流域の民の血を引く人々であったのだ。『古事記』を読むとカムヤマトイワレビコの一行が熊野の奥地に入る時八咫烏(やたがらす)が道案内をしたと書いてある。この烏は鳥を神の使いとする信仰に基づくもので、安田喜憲著『日本古代のルーツ 長江文明の謎』によれば、この烏という鳥は中国の苗族のシンボル蘆笙柱の上につけられている鳥の飾りと何か関係がありそうである。

  また『古事記』にはカムヤマトイワレビコが「熊野の山の荒ぶる神、自ら皆切り仆(たふ)さえき」とある。カムヤマトイワレビコには後の大伴連等の祖となるミチノオミノミコト(道臣命)や久米直の祖となる大久米命が従っている。彼らは後の世まで天皇家を支えていった家系である。『古事記』には、カムヤマトイワレビコは大和盆地に入って土雲という土着の民を大刀で撃ち殺したと書いてある。一行は大和盆地に住んでいた民の指導者の娘や妹などと寝て子を作り、カムヤマトイワレビコには後継ぎのカムヌナカハミミノミコト(神沼河耳命)など三人の子が生れ、従者のニギハヤノミコトには物部連、穂積臣らの祖となる子が生まれ、カムヌナカハミミノミコトの他の兄弟にも阿蘇君、筑紫の三家連、伊勢の舟木連、尾張の丹羽連などの祖となる子が生まれている。

  『古事記』には、カムヤマトイワレビコが大和盆地で土地のエシキ(兄師木)とオトシキ(弟師木)の軍と戦闘し、両者を倒したとき疲れて「盾並(たてな)めて 伊那佐(いなさ、大和の国宇陀郡伊那佐村の山)の 山の樹(こ)の間(ま)よも い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢(ゑ)ぬ 島つ鳥(これは鵜の枕詞) 鵜養(うかひ)が伴(とも) 今助(す)けに来(こ)ね」とうたったと書いてある。鵜飼漁は中国の雲南省で行われているので、大和盆地の民との関連がある。(関連記事『日本人の起とヤマト王権(その2)(20091109)

  北九州以外に日本各地に渡来系弥生人や鯷人などの王国があった。大和盆地には強大な鯷人の王国があったのだ。カムヤマトイワレビコ一行は吉備の王国の支援を得て紀伊に回り熊野を経て大和盆地に入り、土着の神を壊し、民を殺し、民の指導者層の家の娘と寝て子孫を作り、ヤマト王権の基礎を作ったのだった。

  九州や中国地方や近畿地方や瀬戸内海の沿岸には、3000前以降前漢、後漢の滅亡時などに中国大陸沿岸や朝鮮半島から多くの人々が日本列島にやってきた。勿論日本海や北海道経由、或いは南から黒潮に乗って島伝いにやってきた人々もいた。我々日本人は何千年という長い時の流れの間に人々の血が混じり合い今の日本人となったのである。

  吉田武彦は、後に神武天皇となったカムヤマトイワレビコはこの北九州の王国の大王と血がつながっていて日向を中心に王国を築いていたという。鴨緑江北岸にある広開土王碑に書かれている「倭」は大和朝廷の倭ではなく筑紫の大王の領地である朝鮮半島南辺にいた倭であると、諸史料をもとに論証している。そして日本書紀に書かれている皇統は九州の王たちを間に挟んで造られたものであり、継体天皇(50724- 53127日)は、皇位継承の戦争の最中、一武将として大和盆地周辺にいて機を観て大和盆地入り、権力を掌握した人物であるとしている。継体天皇以降の皇統を疑う人はいない。

  卑弥呼(ひみこ、175年頃? - 248年頃)の耶馬大国は考古学的には畿内にあったとする説が優勢であるという。それはカムヤマトイワレビコが征服した大和盆地ではないとすると何処だろうか? 耶馬大国は中国との交流をしていたが3世紀にその交流が途絶えた鯷人の国々の一つであったのだろうか? 男はいろいろ空想を逞しくする。

  特に戦後日本では、ヨーロッパ系やアフリカ系の人と結婚する人が増えた。中国人や在日韓国・朝鮮人と結婚する人も多い。一組の男女から子供二人が生れ、その二人がそれぞれ別の組の男女と結婚しそれぞれ子供が生まれて、そのようにして子孫が増えて行くと、1000年後には子孫が1兆人になる。実際は共通の祖先をもつ男女と結婚することになることが起こるから1兆人にはならない。限られた階層の中の結婚では、共通の遺伝子を沢山もつことになる。地方に行けば地域で人々の顔かたちに特色があるのはそのためである。(関連記事『古代筑紫(九州)の大王の話~戦後の歴史教育を憂える~(20090909)』 (終)

2009年11月11日水曜日





日本人の起源とヤマト王権(その4)(20091111)

  安田喜憲は、中国雲南省の苗(ミャオ)族と台湾の少数民族・生番族は滇王国にルーツをもっている。彼らは日本人及び日本の文化との共通点が多いと言う。滇王国の石寨山遺跡、李家山遺跡や羊甫頭遺跡からおびただしい数の青銅製品が発掘されている。その青銅器には大蛇や女王や巫女や生贄にされる上半身裸の女性などが描かれている。

  女王卑弥呼、長江文明による中国四川省龍馬古城宝墩(ほうとん)遺跡の土壇と奈良県石塚纏向(まきむく)古墳の土壇の類似性(土壇の数が三段、墳丘の上に葺石がないこと)、長江文明の稲作漁労民のシンボルである蛇と日本のヤマタノオロチ神話、蛇をご神体とする奈良県桜井市の大神神社や宮城県牡鹿町の金華山神社など滇王国の風習を伝えていると考えられるものが日本に存在している。以上は彼の本に書かれていることを引用した。

  『古事記』や『日本書紀』に書かれている安曇連(あずみのむらじ)は綿津見神(わたつみのかみ)を祖先の神とし、航海を司る神である住吉大神(すみのえのおおかみ)を祭り、全国各地の海部を中央で管理する伴造である。男は、この安曇連の祖先は長江中・下流域から来たのではないかと考える。

  『日本書紀』によれば、カムヤマトイワレビコ(後の神武天皇)の生母は海童(わたつみ)の少女(おとむすめ)・玉依姫(たまよりひめ)である。東征にあたっては「親(みづから)諸(もろもろ)の皇子(みこたち)舟師(みふねいくさ)を師(ひき)いて」出発したとある。豊予海峡か明石海峡を通る時ある漁師に出会い、これを海導者(みちびきのひと)としたとある。男は、カムヤマトイワレビコはその出自からして海洋の航海に長けた集団を率いて、各地の王、多分北九州の大王の親族・縁者の支援を受けながら別の大王がいる畿内地方の制圧を企て、16年という長い年月をかけてようやく成功したのだと思う。東征の船出の時期は紀元前650年頃から紀元前70年頃の間であろうと思う。時期の幅があるのは神武天皇は実在の可能性のある最初の天皇とされる崇神天皇がモデルであるという説があるからである。(関連記事『宮崎の旅(その3(20091106)』)

  北九州の大王が吉野ヶ里遺跡と関係があったどうかわからないが、その遺跡で首のない無数の人骨が見つかっている。これは『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼の時代大きな戦争があったということなのでその犠牲者かもしれない。しかし紀元前400年から紀元後100年くらいまで栄えていたという滇王国の遺跡から首狩りの儀式が造形されている物が出土しており、弥生時代に日本でも首狩りの風習があったという説を唱える学者もいる。(『日本古代のルーツ 長江文明の謎』より引用。)

  男は、首狩りについて台湾にはその風習があったが、『古事記』や『日本書紀』にそのような記述が一切ないので、日向の美々津から東征に出発したカムヤマトイワレビコの一団はそのような風習とは無関係であったと思う。長江中・下流域に故郷がある渡来系弥生人の子孫カムヤマトイワレビコは日向を旅立って以来16年かけて紀伊の方から飛鳥の地に入ることができ、ヤマト王権の基礎を築くことができたのである。

  日本が国として統一されたのは6世紀に隋に使いを送り「日出る国の天子、日没する国の天子に書を致す。恙なきや。」という国書を隋の皇帝に差し出し隋の皇帝を怒らせたが、その当時隋は朝鮮半島の高句麗との緊張関係があって日本に軍を差し向ける余裕がなく、逆に隋は日本(当時‘倭国’)との国交樹立のために使者を送って来ている。(続く)

2009年11月10日火曜日

日本人の起源とヤマト王権(その3)(20091110)

  最近の考古学的成果及び遺伝学的成果により、3000年前から徐々に日本列島にやってきた渡来系弥生人のルーツは中国の長江中・下流域にあることがわかってきた。前掲の『Newton 最新版「日本人の起源」』や『日本古代のルーツ 長江文明の謎』には書かれていないが、男は、長江中・下流域の稲作・漁労の民と、北方から来た畑作・狩猟と民とは文化の交流と混血をしながら現在の漢民族となり、寒冷期が過ぎた後再び北方に勢力を広げていったのであろうと考える。その時長江の漁労の民が持っていた船・航海の技術も中国の沿岸伝いに北上しながら改善されていったのではないかと考える。
  長江中・下流の民が北方の民の圧力を逃れて雲南省滇池のほとりに作った滇王国(『日本人の起源とヤマト王権(その2)(20091109) 』参照)は漢民族の圧迫を受け、男性中心の社会となり消滅したが、消滅までの間に彼らの一部は長江を下り、海に出て台湾や日本に流れ着いた。その場所は鹿児島県南さつま市の笠沙や鳥取県淀江町角田など、日本列島の沿岸であったと考えられている。

  男は、彼らポートピープルが日本に流れ着く前に日本列島には渡来系弥生人が各地で王国を作り始めていたと思う。『古事記』によれば、ニギノミコトが日向の高千穂の嶺に下って、詔して「この地は韓国に向かい、笠沙の岬を通って朝日がさす国、夕日の照る国で、甚だ良い国である」と申されたと言う土地、笠沙の御崎でコノハナサクヤヒメ、此花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と出会って一宿(ひとよ)婚姻したことが書かれている。このコノハナサクヤヒメは、現在の鹿児島県南さつま市の笠沙というところの阿多という一族の長の娘であった。コノハナサクヤヒメは見目麗しい美人であった。ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に出来た子が、後のカムヤマトイワレビコノミコト(後の神武天皇)の遠祖となる。(関連記事;『日本列島の大王たち(20090826)』、『神が威厳をもって守る国、言霊が幸いをもたらす国(20090908) 』)


  渡来系弥生人たちは稲作農耕及び漁労の文化を持ってきた。この稲作・漁労の文化が日本列島にもともと住んでいた縄文人たちに比べ優れていたため彼らは食料の確保が容易であった。このため縄文人たち比べ圧倒的繁殖力を持っていた。渡来系弥生人たちと縄文人たちとはお互い争うことはなかったが、渡来系弥生人の人口はどんどん増えて縄文人たちはこの列島から次第に駆逐され、或いは渡来系弥生人たちと混血していった。このため縄文人は北海道のアイヌの人々と沖縄の人々の遺伝子の中に縄文人との混血の痕跡を残すだけで、純粋の縄文人はこの日本列島から姿を消してしまった。

  北九州の筑紫に渡来系弥生人の大きな王国があった。男は、カムヤマトイワレビコの祖先は、その王国から分家して宇佐や吉備など各地とのつながりがあったのではないかと思う。(『日本列島の大王たち』(吉田武彦著、(朝日文庫))には、天皇家のルーツ・神武天皇は古事記にあるとおり日向(宮崎県)を出発し、宇佐(大分県)に立ち寄り、そこで宇佐の土地の有力者の厚遇を得、その後筑紫(福岡県)の岡田宮(福岡県遠賀郡芦屋)に詣でた後、安芸(広島県)、吉備(岡山県)を経、淡路島と四国の海峡を経て難波(大阪)の地に入ろうとしたが戦闘に破れ、熊野(和歌山県)を迂回して大和(奈良)に入った、としている。しかし、銅鐸の分布の関係から、天皇家のルーツは北九州地方の大王の分家であるとしている。(続く)

2009年11月9日月曜日

日本人の起源とヤマト王権(その2)(20091109)

 日本における旧石器時代について、関連記事「日本人の起源とヤマト王権(その1)(20091107)」に引用した『Newton』及び『日本古代のルーツ 長江文明の謎』から再び引用してこの記事を書いている。

 男は、「自分が何処から来て、何処に行くのか」知りたいと思っている。『日本古代のルーツ 長江文明の謎』には次のように書かれている。

 中国の雲南省から長江流域の地域と西日本との間では多くの文化的共通点がある。例えば納豆や餅などネバネバした食べ物が好きである。雲南省では日本の長良川の鵜飼いと同じ漁が行われている。お茶を飲み、味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べる。

 今から約6300年前に長江中・下流域で稲作農耕が開始され、漁労も行われ長江文明が誕生した。これは黄河文明より1000年も古い文明であった。しかし5700年前に始まった気候の寒冷化によって北方で畑作牧畜を行っていた集団が4200年前に南下し、長江中・下流域にいた集団は雲南省や貴州省の山岳地帯へ追われた。一部の人々はポートピープルとなって海に逃れ、台湾や日本に到達した。稲はジャポニカ種である。畑作牧畜の民の集団は漢民族のルーツとなる集団である。

 彼らが稲作漁労の民の社会に乗り込んできた当初はおそらく争いが起き、殺戮も行われていたであろう。しかしいつしか畑作牧畜の民は稲作漁労の民と融合し、互いの文化が一つに溶け合っていった。そしてそこに階級社会が生じ、都市文明が起こり、王が民を率いるようになった。

 北方の畑作遊牧民の南下によって追われた一部の人々は雲南省に逃れ滇(てん)王国を築いた。一方長江下流域に生活していた人々や漁労民は海に逃れ、台湾や日本列島に流れ着いた。この王国は女王が支配する王国で、蛇信仰や生贄の習慣があり、紀元前400年から紀元後100年くらいまで栄えていた。この王国末期の羊甫頭遺跡の墓からは馬の青銅製品が出土した。これはこの王国の末期には次第に北方の勢力の影響が強くなっていったことを物語っている。この王国は次第に男性中心の社会となり崩壊した。

 長江文明の遺跡から玉壁、玉鉞(ぎょくえつ)、玉琮(ぎょくそう)などの玉器(土器)が見つかっている。長江文明には金属はなかった。長江文明より1000年遅れて起こった黄河文明では金属製の玉器があった。それが長江文明に影響を与え、玉信仰を生み出し礼器まで発展した。そして今度は玉信仰を伴う礼の儀礼が再び北に向かって黄河文明に影響を与え、青銅器の原型となったという。中国の礼の文化の起源は長江文明にある。

 『日本古代のルーツ 長江文明の謎』には、雲南省石寨山遺跡で見つかった青銅器に彫刻されている羽人の絵(羽根飾りを付けた8人の人が櫂で舟を漕いでいる絵)と鳥取県淀江町角田遺跡から見つかった羽人の土器(羽根飾りを付けた4人の人が櫂で舟を漕いでいる絵が描かれている土器)のことや、高床式建物の屋根の千木など、長江流域の古代遺跡で発見された物とわが国の神社の形の類似性のことなどが書かれている。

 前掲『Newton』によれば、中国の春秋・戦国時代(紀元前770年から紀元前222年)の人々の骨が彼ら渡来系弥生人の骨と似ているという。渡来系弥生人は3000年前朝鮮半島経由で稲作文明を持って日本列島にやってきた。彼らは縄文人と混血したりしながら稲作による圧倒的繁殖力で800年の時間をかけて日本列島全体に広がり、各地で王国が生まれた。
次回、その倭人の王国について男がいろいろ空想を交えて考えたこと書くことにする。

2009年11月8日日曜日



沖縄基地問題及び外国人参政権について憂える(20091108)

沖縄の人たちには基地問題で大きな負担を強いられている。その見返りとして沖縄には多大な国家予算が注入されている。しかし、沖縄の一般住民は自分たちの暮らしに直接感じない経済的恩恵は表に出したがらない。これが人々の一般的心情であろうと男は思う。
もし仮に在日米軍航空基地周辺の住民、ただし営利法人は除く住民、の精神的負担の軽減を目的として、それらの地域を特別区として、明確な評価・実行尺度のもとそれらの住民の所得税及び住民税を軽減させるとするならば、それらの人々は経済的恩恵を感じることができるであろうと男は思う。
男は、普天間基地問題は日米両政府間の合意に基づいて速やかに実施すべきであり、在日米軍基地問題は、日米同盟及びわが国独自の防衛力との関係で考えるべきであり、北朝鮮などに対する軍事的打撃力はわが国独自の武力との関係で考えるべきである。国家戦略局の中にそのような軍事的専門の部門を置きわが国の安全保障について総合的に方策を立てるようにすべきであると考える。社民党のように「日米同盟は必要、アメリカの核の傘は必要、しかしわが国の軍隊(男は‘自衛隊’という言葉が嫌いである)を海外に出すのは反対。」というのは、旦那に甘える妾(メカケ)の根性であると指弾したい。
日本人は伝統的な軍隊を持っていないから、アメリカの海軍、陸軍、海兵隊の3軍の間の文化というものについて理解ができない。アメリカの海兵隊は世界中の過酷な環境条件の中で戦い抜くため平常の生活環境も即応体制にあるのだ。兵舎は真夏でもエアコンがない。兵隊は屈強な男たちが殆どである。たとえ女性兵士であっても特別扱いはされない。生き残り、味方を危険な目に晒させないための精神が叩き込まれる。そのような海兵隊を空軍と同じ基地の中に置くことは、両軍間の文化の違いにより絶対できないことなのだ。
次に外国人に対する地方参政権を議員立法で与えようとする動きについて男は非常な不快感を覚える。そういうことを平気で推進しようとしている連中は国家意識が乏しい連中である。国旗国歌に敬意を表しない連中である。戦争のトラウマに引きずられた親に育てられた連中である。日本の歴史について十分な教育も受けておらず、日本の歴史を学んだと言う人が居ても、間違った歴史観を持った学者が書いた本に影響を受けた連中である。
権利は義務を伴う。参政権という権利は当然いろいろな義務を果たすことが担保されてこそ有効な権利となるものである。義務の中には国軍(男は‘自衛隊’と言う言葉が嫌いである)、警察、消防、沿岸警備隊(男は‘海上保安’と言う言葉が嫌いである)など危険な業務に就くことを拒否できないという義務もある。男は外国人参政権を推進しようとする連中は上に言った妾(メカケ)根性を持つ連中であると言いたい。
たかが地方政治に参加するだけだと彼らは言うだろう。地方政治に参加するということは例えば北朝鮮に対する圧力・警戒ネットワークの中にある地方自治体が関わっている場合、その拠点施設を無くすことを目論んで情報公開法に基づいて、容易には知り得ない国家の情報を入手し、その情報を利用するさまざまな活動をし易くなるということである。
そもそもこのような重要な法律を、国会で多数を占めたから民意を得たという理由で通そうとするのはおかしい。第一得票総数において過半数を超えたのか。秘かに国を間違った方向に導こうとしている一部の国会議員たちの活動に騙されていないのか?(関連記事「日本列島は日本人だけのものではない?(20090820)」、「永住外国人の参政権(20090823))

2009年11月7日土曜日



日本人の起源とヤマト王権(その1)(20091107)

 男は神武天皇のご出身地・宮崎を旅して日本人の起源について考えてみた。『Newton 最新版「日本人の起源」』によれば、人類が日本列島にやってきたのは5万~4万年前であるという。以下その資料から引用する。

 最初に日本列島にやってきたルートはマンモスなど大型の哺乳類を追って北海道にやってきただろう。人骨の形態や石器などからそれら旧石器時代の人々は、後に縄文人と言われる14千年前に南方ルートや朝鮮半島経由ルートやシベリヤ経由北方ルートから入ってきた人々と入れ替わりがあった可能性がある。

 縄文人に似た人々は今のところ日本以外の東アジアでは確認されておらず、日本では北海道のアイヌの人たちだけが縄文人との類似が指摘されている。ただしアイヌの人々はDNAの形から単純に縄文人の子孫ではないことが判っている。このことから縄文人はアフリカを旅だった人々が現在のアフリカ人やヨーロッパ人やアジア人に分化する以前の古い形態をもった人々であり、彼らは人類の拡散の早い時期に東アジアに到達した。その後シベリヤで寒冷地に適応した北方系アジア人の南下によって駆逐されたようである。なお縄文人に似た人々は日本以外では残っていないが、縄文人の頭蓋骨の形に似た人としては1万2000年前から6800年前のオーストラリアで発見されたキーロー人やアメリカのワシントン州で発見された約8400年前のケネウイックマンがいる。

 3000年前以降大陸から北九州付近にDNA上で縄文人とは明らかに異なる渡来系弥生人がやってきた。彼らは稲作の起源地の可能性が高い長江中・下流域(中国中南部)の人々で、春秋・戦国時代(紀元前770年から紀元前222年)の人々の骨が彼ら渡来系弥生人の骨と似ている。以上が資料『Newton』に書かれていることである。

 長江河口から東に向かうと九州南部に辿りつく。長江中流域には黄河文明より1000年古い文明が栄えていた。その文明は稲作・漁労文明であり、北方漢民族の狩猟・畑作文明の人々の圧迫を受けて両文明が混合しながら一部の人々は戦乱を逃れて日本にやってきて沖縄や九州の南部で縄文人と交流し混血していったのであろう。彼らは造船と航海、それに漁労に長けていたらしい。そういう人たちの一団は後に朝鮮半島経由で九州北部にやってきた渡来系弥生人とも交流し、各地に王が統治する国が誕生したと考えられる。(参考資料:『日本古代のルーツ 長江文明の謎』安田喜憲著、青春出版社及び上記『Newton』)

 男は、カムヤマトイワレビコ(後の神武天皇)は日向に本拠を置く王の一人であり、長江中流域の文明をもつ集団を統治していたのであろうと考える。彼は兄・イツセノミコトと一緒に新天地を求めて水軍を組織し、その力で豊後の宇佐や吉備など畿内に向かう航路の要所の王たちを服従させながら畿内に入りヤマト王権の基礎を作ったのだと思う。

 6世紀ごろまでは各地に王がいてヤマト王権は確立されていなかったが、推古天皇(592年~628年)の御世に隋に使いを送るようになって各地の王国を支配下に収めるようになり、初めてヤマト王権が確立するようになったのだと思う。

 何千年という長い年月の間、日本人の起源の人々の間で混血が進み、皆多かれ少なかれ血がつながっているのだ。そういう中で約2000年前日本にやってきた渡来系弥生人にはDNAの形の上で東北の縄文人や現在の日本人が持っているM7aN9bという遺伝子情報がない。しかし渡来系弥生人の影響が少なかったM7aは北海道のアイヌの人たちと沖縄の人たちにはそれが多く残っているという。しかしDNA上皆血がつながっている同胞であるのだ。

2009年11月6日金曜日

宮崎の旅(その3(20091106)

 初めての土地での観光はその土地の観光バスを利用するのが最も良い方法であると思う。男と女房は宮崎交通が土日しか運航していないという日南海岸、鵜戸神宮、飫肥城などを巡るルートの観光を選択した。生憎1日の日曜日は雨天だったが、ときどき少し激しい雨が降るという状況で、傘を持参していたので余り苦にはならなかった。鵜戸神宮の三つ和荘というところで予めオーダーしておいた昼食をとった。

 大淀川という川を渡るときバスガイドが「この川は日本で一番古い川です」という。男はこの川は、宮崎から神武天皇(カムヤマトイハレビコノミコト、紀元前66011- 紀元前585311日、実在の可能性のある最初の天皇とされる崇神天皇がモデルとなったという説を採れば紀元前97113- 紀元前30125日)が兄君(イツセノミコト)と共に東征に旅立たれたとき、この川に本拠を置いていたことであろう考えられる水軍を率いたのではないかと空想する。ちなみに兄君のイツセノミコトは漢字で「五瀬」と書くが、宮崎県北部高千穂のすぐ近くに五瀬という所がある。

 翌日は飛行機の出発を夜745分の便で予約してあったので、大淀川上流の綾などの観光をした。ホテルを出る時フロントの女性スタッフから二人分のおにぎりとお茶を頂いた。これは空港で飛行機待ちの間に頂いた。大変おいしかった。

 綾へはバスで1時間ばかりかかる。綾の待合というところで下車してタクシーを利用し大吊橋を観た。タクシーの運転手は、この川は四国の四万十川を抜いて清流の度合いが日本一となったと言う。大吊橋を観たあと酒泉の杜まで送ってもらった。費用は5000円だった。女房は「タクシー代を値切るのはちょっと気が引ける。運転手さんもあれで生活しているのだから。」と言う。

 酒泉の杜から宮崎市内に戻るバスは156分の次が526分のものしかない。156分のバスに乗っても酒泉の杜で遊ぶには十分な時間がある。初めに鬼塚さんという人が彫刻や陶芸作品などを展示しているところに立ち寄り2、3の店などを覗いた後レストランに入り昼食をとった。ここはアユが獲れるところのようであるのでちょっと贅沢してフルコースのアユ料理を注文した。レストランの雰囲気もよく、料理は美味しかった。

 その後焼酎製造工場とワイン製造工場を巡り、各種焼酎やワインなどを展示販売しているところで各種焼酎やワインを味わってみた。酒好きのグループがわいわいがやがや言いながら小さなコップになみなみと注いで試飲している。中には赤ら顔で上機嫌な人もいる。

 そこからの帰路宮崎神宮の手前のバス停で下車、護国神社の傍を通って宮崎神社に向かう。宮崎神社に参拝後そこからまたバスに乗り宮崎市内に出る。橘通りと高千穂通りの交差点付近で下車、県庁まで歩く。県庁に観光バス2台が来た。男と女房はそのバスの客の一員のような顔をして県庁内を案内する若い職員による説明を聞く。彼はなかなか上手で皆を笑わせている。東国原知事は大変人気者である。県庁での説明が終わると皆近くの物産館に向かう。館内は宮崎の土産を買う客で大混雑している。男と女房もそれぞれの目的のため多少のみやげを買った。宮崎県の人口は113万人ほどであるが、宮崎県のセールスマンを標榜する彼が知事になったお陰で県の収入は大きく増えたことであろう。

 宮崎市内で感心したのは道路の広さである。橘通りと高千穂通りは車道と歩道と自転車道が分離されている。市内に高い建物はない。フェニックスなど熱帯性の樹木が立ち並び、ブーゲンビリアの花があちこちに美しく咲いている。(終り)

2009年11月5日木曜日

宮崎の旅(その2)(20091105)

 宮崎は男も女房も初めてではない。子供の頃修学旅行で青島などにいったことがある。男自身は若い頃鵜戸神宮にお参りしたことがある。しかし宮崎市内などは初めてである。
JJR宮崎駅に降りてホテルに向かうためタクシーを利用した。タクシーの運転手さんに「明日は神武天皇が東征のため旅立たれたという美々津や日向などを観たい」と話したら、「日向に着いたらタクシーの運転手に1万円でお願いしたいと交渉して下さい。宮崎では交渉しなければ駄目ですよ。」と言う。運転手さんはさらに「今日は一番良い日ですよ。夜は歩行者天国となり神楽や太鼓などのイヴェントが行われますよ。県庁もライトアップされます。是非観て下さい。」などといろいろアドバイスしてくれた。

 男と女房はホテルについて部屋に荷物を置いてすぐ街に出た。ホテルは街の中心部に歩いて5分もかからないほど近いホテルであるが男はそんなことを予め調べもせず、インターネットで調べてブリスベーンというホテルが良さそうだったのでそこを予約していた。
祭りは「神武さま」というお祭りで宮崎県庁前を通る「橘通り」とJR宮崎駅から真っすぐ伸びる「高千穂通り」の交差点付近から県庁前辺りまでを歩行者天国にして、毎年盛大に行われているとのこと。男と女房は幸運にもそのお祭りに参加することが出来たのである。

 お神楽を舞う舞台の前に畳敷きがあり、男と女房はその真ん前に陣取って初めから終わりまでたっぷりお神楽舞を観ることができた。沢山写真や動画を撮った。中学3年生の少年が舞ったお神楽の舞は大変上手で感心した。舞った少年が舞台から降りてきて手に持っていた「鬼人棒」(と言っていたと思う)を男の方に投げてくれた。これは棒の一方の端が紅色、もう一方の端が白の房が付いているもので、これを貰った人は幸運だという。

 神武さま祭りは神武天皇を祀る宮崎神宮の大祭で昼の部には御神幸行列があり、シャンシャン馬花嫁花婿行列もあり、盛大に歴史絵巻が繰り広げられるということであるが、今回それは観ることが出来なかった。しかし幸運にも夜の部を楽しむことができた。

 ホテルには泊まり客にとって必要なものは全部揃っているが不要な余計なものは一切なく、最もシンプルにできている。宿泊料の払込も自動化されており、ロビーで受け取る部屋の番号札のようなものをその装置に差し込み所定の料金を入れれば自動的に部屋の鍵がその札のようなものに付くようになっている。部屋には機能的な大きめの浴室があり、手順に従ってボタン押せば暖かな霧(ミスト)が噴出すようになっているので、浴槽に専用の蓋を置き首だけだしておればサウナのように温まって汗をかくことができる。ミストは15分間噴き出すようになっているのでその間汗をかきながらテレビを観ることができる。勿論部屋でブロードバンドのインターネット接続もできるようになっている。朝食はおかゆなど予め注文したものを指定時間に届けてくれる。このように万事コンパクト、機能的にできているだけではなく宿泊料も安く抑えられている。男のような年寄りの客は少ないようであるが、インターネットができる若い人たちがこのホテルよく利用しているようである。このホテルは若い人達向きにできているので男や女房のように年寄り臭くしたくない者にとっては快適である。しかしそれも後4、5年以内までの間だけできることだろう・・・。

 翌日はあいにくの雨だったが観光バスに乗って日南海岸、鵜戸神宮、飫肥など回り、翌々日は駅構内の観光協会で若い女性スタッフのアドバイスを受け、綾の大吊橋や酒泉の杜などをバスとタクシーを利用して回った。(続く)

2009年11月4日水曜日

宮崎の旅(その1)(20091104)

 男の郷里は九州である。平安時代豊後高田荘と言われた土地、現在の大分市鶴崎地方から高田にかけて摂関家の荘園であったところが男の生れ育った土地である。小学校2年生の夏までの一時期、教師であった父の赴任地・朝鮮慶尚北道で過ごしたが、叔父の結婚記念写真を見ると戦争の最中父母に連れられて父の実家・祖父の家に一時帰ったことがある。父がその土地を離れて福岡・熊本の県境に近い町に本拠を置いたため、男はその土地を訪れることはたまにしかない。しかしその土地には男が小学校、中学校時代の同級生たちが暮らしている。竹馬の友の一人は郷土の歴史研究の会のメンバーとして活動している。

 男と女房は父が本拠をおいた土地に独り暮らしの老母(男の継母・女房実母、但し継母が我が家に後入りに来た以降母娘(8歳)別居)を看るため時々帰ってきているが、故郷の九州のことをよく知っているわけではない。そこで帰ったついでに時々九州の各地を訪れてみることにしている。45年前九州新幹線に乗って鹿児島まで足を伸ばし、男が若い頃住んだことがある串木野や指宿や、特攻基地だった知覧、篤姫の故郷鹿児島などを訪れたことがある。

 母は腰椎の圧迫骨折で腰が曲がっており、5年ほど前がんを患ったため白血球数が健常者の4分の3程度しかないが大変元気である。そこで、男と女房は母が元気なうちに旅行をしておこうと、今回宮崎に2泊の旅をすることにした。

 31日、日曜日九州地方は快晴で温暖である。二人は博多と大分・別府の間を走る観光列車 ‘ゆふいんの森’号に乗って大分まで行き、大分で‘にちりん13号’に乗り換えて宮崎に向かった。ホテルはインターネットで予め予約してあり、翌日観光バスに乗って一日がかりで名所旧跡を回る計画である。この小型パソコン持ち歩くとホテルやツアーの予約などに便利である。これはその‘にちりん号’の中で沿線の風景を楽しみながら書いている。

 ‘ゆふいんの森号’の旅は車窓からの眺めがとても良かった。ゴトンゴトンとのんびりとした音を立てながら谷間に沿ってゆっくり下ってゆく。この列車はレトロ調でユニークなデザインの列車は人気の的でその風景写真を撮ろうと待ち構えている人たちがいた。大分で‘にちりん号’に乗り換えるのに5分間しか余裕がない。大分駅は高架ホームを工事中で‘ゆふいんの森号’はその3階建ての高架ホームに入る。従来のホームでは既に‘にちりん号’が停車している。男と女房はそれぞれ旅行用のトランクを持って大急ぎで1階のホームまで走った。‘にちりん号’に飛び乗ったらまもなく列車は発車した。

 列車は臼杵、佐伯、津久見、延岡と主要な駅で停まりながら快速で走る。男と女房の席は海側なので港の風景を楽しむことができた。車中で女房が購入してあった宮崎観光の雑誌をめくると美々津というところでは、約2700年前神武天皇が水軍を率いて東征の旅に出た所であると書いてある。

 男はこの水軍はそのもっと昔、揚子江中流域の民が漢民族の圧迫を受けて難民となり揚子江河口から逃れて東に進み沖縄を経て鹿児島の笠沙に辿りついた人々の末裔、もしくはその人たちから造船・航海の技術を受け継いだ人たちの末裔ではないかと考えている。

 揚子江中流域の文明はは黄河文明よりも1000年も古いことが判ってきている。古事記にはニニギノミコトが「この地は韓国に向かい、笠沙の岬を通って朝日がさす国、夕日の照る国で、甚だ良い国である」と申されたと言う土地の名前である。(続く)
(関連記事「日本列島の大王たち(20090826)

2009年11月3日火曜日

国会討論を聞いて(20091103)

 30日午後、テレビのスイッチを入れたら参議院で自民党改革クラブの松下新平氏が質問に立っていた。彼は徳富蘇峰の国家観を示して国が興隆していないとき政治は民生に目を向ける、というような趣旨のことをいって対テロ対策、インド洋給油の問題について新政府を攻撃していた。


 彼も松下塾出身なのであろうか。男はよくは知らないが、松下政経塾の創始者松下幸之助は、戦後わが国には国家意識がない、国家意識がなければ国は発展しないと考えており、明治大正昭和初期の論客徳富蘇峰の国家観を塾生指導の参考にしていたと思う。

 その徳富蘇峰はもともと平民主義者であって、男は、民主党は徳富蘇峰の平民主義に近い考え方をしていると思う。徳富蘇峰は日清戦争後平民主義から強硬な国権論者・国家膨脹主義者に転じている。わが国が経験した悲惨な戦争を導いた指導者のものの考え方に徳富蘇峰の主義主張が影響を与えたのでないかと、徳富蘇峰を非難する人もいるようである。

 男はその辺の詳しいことは全く判らないし、またものごとを十分な知識・研究の裏付けのもとに考えて判断しているわけではないが、もし松下新平氏の今回の質問の思想的背景に徳富蘇峰の国家観が影響しているとするならば、徳富蘇峰について十分研究した上で質問う行うものでなければ危険であると直感した。何故なら「国家」というものを前面に出すために、わざわざ徳富蘇峰の国家観を引用する必要はないと男は考えるからである。

 松下議員はインド洋での給油活動をアフガニスタン政府からの要請がないとして中止するのは、誤った判断に国民を誘導するものであると声高らかに言った。岡田外相の答弁は、国連でアフガニスタン外相から給油活動の継続を要請されたが、アフガニスタンを訪問したときには一切そのような要請は無かったと答弁した。鳩山首相も給油活動についてその恩恵を受けている国々から感謝されているのは承知している。しかし、新政府は給油活動以外の方法でアフガニスタンを支援してゆくつもりであると言明した。

 松下議員はインド洋における給油活動は、わが国のプレゼンスを示す重要な活動であると主張した。男はそのことについて大いに賛成である。男は、インド洋における給油活動は、わが国が憲法上の制約を隠れ蓑に最も犠牲が少ないやり方で、最大の効果を上げ得る最も善い手段であると考えている。その手段とは、何度も口にするように、「軍事を外交の有力な手段の一つ」とする、正にその手段であると考えている。

 この地球上から暴力をもっても自分の目的を達成しようとする勢力が存在する限り、味方も軍を使ってこれを抑圧し続けなければならない。そのような冷静な見方のもと、徹底したシビリアンコントロールのもとに、わが‘国軍’(男はそう呼びたい)を要地に展開させることが、国際社会の名誉ある一員、各国から尊敬される一員として大変重要なのである。質問時間に制約があるせいもあり松下議員も十分意を尽くし得なかったと思うが、新政府側に男が主張しているようなものの考え方を幾分でも持っているかどうか、男は国の現状、行く末を心配しているのである。

 首相は、わが国は低酸素技術が世界のトップレベルにあるので、これを経済の発展を導く手段にすると言っている。それはわが国の技術水準が冷静な科学的、論理的分析のもとに世界のトップを行っていると判断して言っているのかどうか、またはただ単に感じと期待だけでそのように言っているのかどうか、男は批判的な目で見極めたいと思っている。

2009年11月2日月曜日







国を憂える・・(20091102)

 関門海峡で27日、‘海軍’(男はそう呼ぶ)の‘駆逐艦’(汎用護衛艦には「DD」という記号がつくので男はそう呼ぶ)くらまが韓国籍のコンテナー運搬船カタリリナ・スター号と衝突し、乗組員3人が軽いけがをし、くらまの艦首は大きく損傷し、コンテナー船も右舷が損傷した。くらまは相模湾で行われた観艦式の帰路、母港佐世保に向かう途中であった。どちらに操舵ミスがあったか不明であるが、関門海峡では速度の異なる多くの船が往来しており、第七管区関門海峡交通センターが追い越しなどのアドバイスをしているという。

 同センターはカタリナ・スター号の左舷側をのろのろ進んでいる貨物船があり、カタリナ・スター号にその貨物船を追い越すように指示を出した。そのためカタリナ・スター号は左に舵を切ってその貨物船を追い越した。そのとき反対側(下関海側)から定められた航路を直進していたくらまの艦首がカタリナ・スター号の右舷横腹に衝突した。海峡交通センターは追い越しなどのアドバイスは行うが、航行の安全を保つのはあくまで船舶側にあるという。件のカタリナ・スター号はそのアドバイスを「コントロール(管制)」と勘違いした可能性があるという。男は、もしそれがアドバイスというのであるならば指示の言葉の前に「これはアドバイスであり。安全確認の上舵をきれ」という言葉を付すべきではなかったかと思う。これは「プロシージャ(手順)」の制定の問題ではないかと思う。
それとは別に、駆逐艦側に気の緩みはなかったか、と思う。このところ‘軍人’(男はそう呼ぶ)たちの士気を削ぐようなことを‘軍’(男はそう呼ぶ)の最高指揮官らが発言していることとは全く無関係だろうか?

 今日(28日)アフガニスタンの国連関係施設をテロリストたちが襲撃し、外国人職員6名を含む国連職員12人が死亡、9名が負傷したという。幸いその中には日本人職員は含まれていなかったがアメリカ人1名が犠牲になった。岡田外相はインド洋の給油活動を止めてソマリヤ沖で海賊対策を行っている各国の軍艦に対し給油活動を行うことを提案している。その目的は何なのか?給油を受けながら海域を監視しているがテロリストが乗っている船はいなくなって監視する軍艦も減ってきたからだという。しかしフランス海軍やパキスタン海軍には感謝され続けているのだ。しかもその海域はわが国へ石油などを運ぶ船が通るところなのだ。インド洋での給油活動はアフガニスタンからも感謝されている。インド洋からの撤退が「国のため」なのか?また、補給艦をソマリヤ沖で活動させるという考え方も唐突で、遠く故国を離れ国のため一生懸命頑張っているわが‘海軍’(男はそう呼ぶ)の兵たちに大変失礼ではないか、男は怒りを込めてそう思う。

 男は民主党には政官業の癒着問題の解決や教育貧乏者の解消や子育て支援などを期待しているが、どうも軍というもの対するセンスがずれているような民主党の考え方にいらだちを覚えざるを得ない。日本には「軍事は外交の有力な手段である」という基本的な考え方がない。アメリカも中国もロシアも明らかに軍事を外交の有力な手段として行動している。日本はアメリカとの無謀な戦争に負けてすっかり腰ぬけになってしまったのではないか?

 近隣諸国とほほ笑みの友愛精神だけで万事うまくゆくのだろうか? もしそれが一時的にうまくいったとしても、果たして長続きするだろうか?過去の事例はどうだったか?
アメリカは中国と緊密な仲になってゆくことだろう。ロシアも黙って指をくわえて見てはいないだろう。南北朝鮮はいずれ統一されるだろう。所詮世界の国々は国益や権益を目指してぶっつかりあうものなのだ。

 折からアメリカのクリントン国務長官が隠密行動でパキスタンを訪れ、タリバンの襲撃で命を失った非常に多くのパキスタン人のことを悼み、テロリストの撲滅に「shoulder to shoulder」と言明した。先日はアメリカ軍の兵士が多数戦死した。日本の同盟国アメリカは、血を流しながらテロと戦っているのだ。

 アフガニスタンではタリバンのテロリストの手によりアメリカ民間人が命を失った。アメリカはまさに血を流してテロリストたちと戦っている。それにくらべ日本はインド洋での給油活動から手を引き、アフガニスタンへの‘軍(自衛隊)’の派遣も出来ない。

 誰でも皆「日本の若者を戦場に送りたくない」と思っている。男も全く同じ気持ちである。しかしアメリカの核の傘の下で守られたい。そもそも日本は中身が実質‘軍’であっても、‘軍’というものを持ちたくない。そういう言葉は使いたくない。それはどこか変ではないか? 悲しいことであるが、人間を動物と同じレベルで考えるならば、理性はあってもその下の深層に動物の本能がうごめいているのだ。綺麗事ばかり言っていたら「誇りある」自存はできないのだ。勿論、力は武力が最も大きな要素ではない。国のあらゆる力の総合が本当の力である。しかし武力なしではその総合力が発揮できないのだ。総合力は各力の足し算ではなく、掛け算なのだ。相手が軍事力を誇示(ディスプレイ)すれば、当方もそれ以上の軍事力をディスプレイしないと相手を屈服させることはできないのだ。勿論、同盟国が協同でディスプレイすれば一国でそれを行うよりははるかに安価で容易にそれを示すことができる。それこそが同盟なのだ。

 鳩山総理も岡田外相もそのことについてどう考えているのか? 早速北朝鮮は「日米間に亀裂が走っている」と大喜びしている。アメリカは日本のことを「世界でもっとも厄介な同盟国だ」とはっきり言っている。男はそのような政府を持ったことを悲しんでいる。
自民党の谷垣総裁らが代表質問に立ったが、日米同盟の重要性について突っ込んだ質問はなかった。自民党も民主党も、本当に国のことを憂えているのか? 一般の大衆に受けるようなことばかりに熱心なのではないか? こういう状態を憂え国民を正しい方向に導くのが政府の役目であり、その政府の中核は優秀な官僚群であるべきである。自民党も民主党も官僚たたきをしているが、官僚を国の重要な中核に位置付け官僚を正しく育てる理念を持ち合わせていない。どちらも官僚出身国会議員は多数いるが、みな志を欠いている。
男はそのように国を憂えているのであるが悲観しているわけではない。

 歴史は動いている。矛盾が徐々に膨らんでくるとその矛盾を解消する方向に力が動き、正反合、正反合とアウフヘーベンしてゆくのだ。ただかつて途中で止められず悲惨な結果に終わった日本の戦争のようなことが再び起きないような、賢い反省と未来に向けた賢い方策をうち立てることが必要である。政治はただ弱者に目を向けることだけではなく、国家100年の計についてもしかりとした理念をもって行われるべきである。心ある政治家たちはそのことをちゃんと考えてくれてはいると男は思うのであるが・・・。
(関連記事「志ある政治家は少ない(20090923)」)



2009年11月1日日曜日



亡父の思いを思う(20091101)

 男は亡父が生れ育った土地を離れて新たな家を興すべく本拠を置いたこの山間の盆地内の小さな町をこよなく愛している。人口僅か18千人の町である。町の中央に幅が100mほどある石ころだらけの河川敷の中ほどに細い流れがある川があり、何箇所か石積みの堰があるところでは白波を立てて流れている。川の両側にのどかな稲作農地が広がっており、遠くの山々の麓に集落が点在している。川に沿って鉄道が走っており、鉄道に沿って旧道と交差しながら曲がりが少なく幅の広い新道が走っている。

 この盆地の平野部からは見えないが遠くの山々を縫うように高速自動車道が走っており、この新道にアクセスできるように無人のインターチェンジがある。そのインターチェンジに高速バスが立ち寄るので、この町から九州各地へ高速バスを乗り継いで比較的短い時間で行くことができる。勿論バス以外の一般車両も高速道路を利用して目的地の間を簡単に往来することができる。

 この町には人口の割に医療機関が多い。病院、外科・内科・産婦人科・小児科などの専門医院など全部で10余り、その他眼科、歯科などがある。高度な医療を施す必要がある患者は県内外の大学病院や総合病院に紹介される。この町からそれらの病院に行く場合、交通アクセスが非常に良いので便利である。

 この町の高齢者の人口比はすぐ30%を超えるほど高い。このため介護福祉関係の事業所も多い。新道に沿って大型の小売店や園芸専門店や電気店などもある。1300円、家族風呂は1500円程度で利用できるかけ流しの温泉浴場もあちこちにある。

 ある地区では住民たちが共同で温泉を掘りそれぞれ自宅にお湯を引いている。温泉浴場を利用するときはお互い顔見知りでなくても後から入ってくる人は「今日は」などと挨拶をする。挨拶と言えば、これはよい習慣になっていると思うが、通りを歩いているときすれ違う子供たちは大人に「今日は」とよく挨拶をしている。

 この町は田舎の町とはいえ暮らしやすい町である。ただこの町には工場がないため、若い人たちにとって働く所が少ないのが難点である。そのため若い人達は県内の都市部や県外に移住する人が多い。その一方でUターン組も結構いるようである。ある大型の小売店でレジ係をしている女性は「千葉に住んでいましたが戻ってきました」と言っていた。看護師やホームヘルパーなどはこの町の女性たちにとって魅力ある仕事である。

 男は亡父がこの町に家の本拠を置き、南無阿弥陀仏先祖霊と書いてある和紙に包んだ系図を仏壇に収めていた気持ちを思い、今継母が独り住んでいる家はいずれ継母が他界した後は先祖祭祀の施設として必要な補修を行いながら残したいと考えている。ただ普段は無人状態になってしまうので維持管理のことを考えておかなければならない。男には家屋敷の処分や先祖の祭祀のことについて弟妹や息子たちとよく話し合って決めなければならない責任がある。

 男のこのような責任感について、女房はよく理解できないかもしれない。他家に嫁いだ妹は自分が生まれ育った所についてある種の深い思いはあると思うが、男が思っているほど遠い先祖や自分が死んだ後のことまで考えないと思う。息子たちはこの田舎の家に生まれ育ったわけでもないのだが、一般に男性としての共感を持ってくれるだろう。男は亡父の思いを後世まで遺してゆきたいと思っている。

2009年10月31日土曜日

亡父を懐かしむ(20091031)

 亡父は男の年齢より2歳若い70歳で他界した。男が40代のときであった。亡父は白血病で死んだのであるが死ぬ数日前、男の弟に「N(男のこと)は(育てるのに)失敗した」と言っていたそうである。亡父は男を末は陸軍大将に、弟は海軍大将にと夢をもっていたが日本が戦争に敗れたためその夢は実現しなかった。もっともその夢は日本が戦争に負けていなかったとしても実現は怪しかったと男は思う。

 男の青春時代、男が学生運動か何か社会的な運動で自分の人生を無駄にしてしまうことを亡父は恐れていたという。「Nは放っておくと何をしでかすかわからない」と口癖のように言っていたことを、当時男の家の養女になって後に男と結婚した女房は聞いていた。亡父が当時養女であった女房を男と一緒にさせたのは亡父が男の制御について女房に期待したからであると女房は思っている。亡父は女房にそういうことを言ったらしい。

 その男と女房は、九州の熊本、大分、福岡の県境に近いある田舎の町で独り暮らしをしている91歳の老母、男の亡父の後妻、女房の生母、男にとっては継母を看るため年に45回その町に帰省している。二人はお盆の時期に一度帰り、10月に帰り、何末にまた帰る。今回10月に帰るのは庭の片隅を猫の額ほどの野菜畑や花壇にしているため、今時蒔いても発芽する法連草や金盞花などの種を蒔いておいたり、あれこれ老母の独り暮らしを助けるためである。来月には関西に住む妹たちが帰ってくれる。その妹は男の亡父と今の母の間に生まれた子である。女房はその母と5歳の時以降一緒に暮らしていない。

 男は亡父が昭和31年から33年にかけて、郡内のある小学校の校長をしていた時の写真を見つけた。その中から45枚抜き出して男のファイルに加えることにした。何れも教職員や卒業する子供たちと一緒に写っている写真である。男はコンピュータでこの集合写真の中から亡父の写真だけ切り取って拡大し、今その頃の亡父の齢に近づきつつある男の長男に見せようと思っている。男の長男は容貌が亡父にそっくりである。色黒で精悍で働き者でタバコ好きであることも同じである。男はその長男が幼少の頃のことを思い出している。

 亡父は嫡子であり長男であったから本来家督を継ぐ立場にあった。嫡子・長男である男も当然家督を継いで先祖が代々住んでいた土地に本拠を置く立場になるはずだった。しかし亡父はその父、男の祖父との確執があって家督は末弟に譲り、自らは師範学校を出て以来縁の深い土地に新しい本拠を置いた。その後亡父のその末弟が事業に失敗したため先祖が営々築いてきた土地を手放し、竹藪やちょっとした畑や花壇もあって広かった屋敷と立派な大きな仏壇だけ残った。その屋敷も竹藪が無くなり、その末弟の妻の両親や、その末弟の子供の家、孫の家などが建てられた。男が子供時代過ごした風景は無くなってしまった。

 御霊は音と光と香りを喜ぶと聞く。男は仏壇の前に置かれている台上にろうそくを灯し、線香を炊き、チーンと鐘を叩き、仏壇を見上げて合掌し、亡父に「懐かしく思う」と語りかけた。男は自分もあの世に逝けばその懐かしい父や、また男が10歳の時他界した母や、母を失った男を実の母のように慈しんでくれた祖母、そして祖父や、23歳の若さで子宮外妊娠で他界した妹ら、そのた懐かしい叔父、叔母らに会えると信じている。

 男は長男に男の家に生まれた嫡子として先祖の祭祀を行うことを書面で委ねている。その長男には男子が居ないので、男の家の血筋は二男の子が受け継ぐことになる。そのことについて男はこだわっていない。男は長男を大事にしない家は滅びると思っている。

2009年10月30日金曜日

死刑制度について考える(20091030)

 男はつい最近まで死刑を容認する立場であった。人を殺めた者は死刑か終身刑か無期懲役刑が当然であると思っていた。ところが、男は今死刑とか厳罰を課す刑が果たして完全に正しいことかどうか疑問に思うようになった。

 犯罪の被害者は加害者が厳罰に処せられることを望む人が多い。確かに最愛の人を犯罪で失った人は悲しみや怒りの気持ちをなんとか収めたいと刑罰に代償を求める傾向がある。最近寺尾聰主演の映画『さまよう刃』が上映されている。男はその映画を観ていないし観たいとも思わないが、その映画の内容は最愛の娘を犯罪で失った父親が犯人を自らの手で殺めて復讐を果たそうとする内容らしい。犯罪者に刑罰を課する目的の一部に「被害者感情や遺族感情を鎮める」というものがある。裁判員裁判では、犯罪被害者や遺族の側の感情も考慮した判決を出す例も見受けられる。

 刑罰には犯罪者に罪を自覚させる、再犯を防止する、犯罪を抑止するなどの目的がある。男は、法律はそのような目的に照らして最善と考えられる刑罰のレベルを設定し、過去の判例も考慮して妥当な判決が行われていると思うが、その中にある意味で昔の「仇討」、今の言葉で言えば「復讐」の部分を国が個人の代わって行うということになれば、ちょっとそれはおかしいのではないかと考えるようになった。

 復讐の行為は法律で禁じられている。そこで国が犯罪被害者・遺族に代わり「被害者感情や遺族感情を鎮める」目的を考慮して ‘仇討’・‘復讐’を行うということにならないかと男は思うようになった。男は今までただ単に一般社会的感情のレベルで、人を殺めるようなことをした人間は最も重い刑で死刑に処せられることがあってもよいと、刑罰の意味をあまり深く考えずに思っていたのである。

 デンマークかどこかヨーロッパのある国では、刑に服している人たちが週末に自宅に帰り家族と一緒に過ごすことがゆるされているらしい。多分それは軽い犯罪者が対象で、性格欠陥者で殺人を再び起こすような人は含まれていないと思う。男はサンディエゴで友人が運転する車の中で、「あの人は服役者で罰として道路の清掃に当たっている人だ」という人を見かけたことがある。見たところ監視人が居ない所で独りの婦人が道端の清掃を行っているようであった。服装は作業服のようであったが恐らくアメリカ人なら誰でも判る受刑者専用の服装であったのだろうと思う。

 性格的に殺人や泥棒を繰り返すおそれがある人、思想信条的なものがあって重罰を課しておかないと再び社会を不安に陥れる可能性があるような人にはそれなりに重い刑罰を課し、刑務所から再び出て来ることが出来ないようにしておくべきである。しかし国がもし被害者の感情や社会一般の感情、それも‘復讐’の要素がある感情を鎮める目的で死刑を課すとなると、それはちょっとどうかなと男は考えるのである。

 男は地下鉄サリン事件や弁護士一家の殺害事件で死刑判決を受けた人たちには、その犯罪の重大さ、そしてもし仮に出所させたと場合、彼らの思想信条的に社会的不安を再び引き起こしかねない危険があると思うので、彼らは一生刑務所から出て来ることができないほどの非常に長い期間の懲役が課せられるような制度があってもよいと考える。そして刑務所の中で強制的に仏道の修行を行わせるような制度があると良いと思う。そうすれば本人に犯した罪の重大さを自覚させ、人間として人生を全うさせることに少しは役だつのではないかと思う。(関連記事「夢窓国師の作詞『修学』(20091002)」)

2009年10月29日木曜日

BS受信ができるようにしようとして・・(20091029)

  男が住むマンションで外壁の大修理のためBS受信アンテナを室内に置いた花壇用鉄製ラックに取り付けてみた。電波が弱いため時々画面が乱れる。そこで男はアンテナケーブルにブースターを挟んで信号を増幅してやろうと試みた。ブースターは男が以前自分の部屋でCSを受信するためCSアンテナからの長いケーブルのロスを補償するため使っていたものである。これはコネクターの部分が違うので差し込み式のものにしなければならない。そこで男は近くの電気屋で必要な部品を買ってきて工作した。

 それでも上手く行かない。男というものは問題に直面すると何としてでも解決してしまいたいと思うものである。問題と取り組み四苦八苦して何とか問題を解決するとそれまでの緊張・ストレスが解放され、快感を覚えるものである。

 このマンションは1986年に完成したマンションであるが、BSCSの受信の集合アンテナがなかった。その後光ケーブルなどが入ってきた時住民の間でBSCS集合受信アンテナを設置する話が持ち上がったが、賛成者が少なく各個人でそれぞれ受信アンテナを取り付ける家が増えたため、その話は立ち消えになった。

 マンションの外壁等の大修理が行われるときは各個人ごと取り付けた受信アンテナを取り外さなければならない。NHKに受信料を払っているがアンテナを取り外している間は受信ができない。大修理は2カ月余りかかるがその間BSの受信が出来ないのは困る。そこで男は南向きの部屋の中の窓際にアンテナを設置して、何としてでもBSを受信できるようにしたいと思った。電波が強い時は何とか受信できるのであるが受信状態が良くない。そこで男はブースターを使ってみることにしたのである。しかしなかなか思うようにならない。
ギブアップするのはまだ早いと思うから、男は明日も問題解決に挑戦するつもりである。

 女房が「区役所に行って期日前投票をしてきましょう」と言うので男は気持ちを切り替えてシャワーを浴びたりひげを剃ったりして出かける準備をした。区役所まではバスを利用する。幸い男の家のすぐ近くにバスの停留所があり、バスが頻繁にある。いつだったか男が田舎に帰ったとき、現役の頃東京郊外の住宅地に住んでいた男の親友が「都会ではバスや列車が人に合わせてくれている。田舎では人がバスや列車に合わせなければならない」と言ったことがある。男も女房もバスの時刻表を調べることもせず停留所に向かった。数分もしないうちに始発のバスが停留所の近くにあるバスターミナルから出て来た。

 区役所に着いたら玄関ホールを入ったすぐ前で期日前投票の受付をしていた。本人確認の手続きを済ませ指示された場所に並べてある椅子に座って待っていると名前を呼ばれた。投票用紙を貰い候補者の名前を書いて投票箱に入れ、立ち会っている人たちに「御苦労さま」と言ってとその場所から出た。出たところに広報などいろいろな資料が置かれている。その中に「ご存知ですか?平成22518日から[憲法改正国民投票法]が施行されます。」というパンフレットがあったので男はそれを手にした。パンフレットには「投票権は成年被後見人を除く年齢満18歳以上の日本国民が有することとされています。」と書いてある。

 男は後数年もすれば憲法が改正されることになるだろう。矛盾のある現行憲法第9条は当然改正されることになるだろう。軍事は外交の有力な手段の一つである。軍は国の要、国の背骨である。わが国は世界の恒久平和の実現のために、抜けば必ず斬って相手を倒すことが出来るが、最後の最後まで決して抜かぬ氷刀を腰に差さねばならぬ。

2009年10月28日水曜日

子育てで苦悩している母親たち(20091028)

 テレビで不登校の子供を持つ母親の苦悩を報道する番組があった。社会の片隅で独り悩んでいる母親たちが意外に多いことを男は知った。男が若い頃は周りの人たちも皆豊かではなく、女房も周りの人たちとの触れ合いのなかで子育てをしていたが、今の母親たちは周りに自分を理解してくれる人もなく、独りで悩んでいるようである。そんな中ある一人の男性が母子集える場所、親と子供の居場所ともいうべき施設を開設し運営している。件の母親たちはそこに集い、自分の悩みをきいてくれるスタッフがいて救われている。

 今の世の中は、テレビゲームなど独りで楽しむ遊びが非常に発達していて、子供同士の触れ合いも昔に比べて少ないのではないかと思う。男が子供であったころは、村のがきどもが集まって山野や田圃や家の蔵や庭の木など遊ぶところが沢山あった。柿の木に昇って落ち大けがをしたり、いろいろ危険なことも多かったが、親たちは無頓着だった。男は小学校の高学年か中学校の1年生のときだったと思うが、友達同士でお互いに鉄橋の上を走る列車の客車のデッキから隣の客車のデッキに足を伸ばして移動しスリルを味わったことがあった。今なら大目玉を食らうところだった。裏の山で敵味方に分かれて小石を投げ合い、戦争ごっこをしたこともあった。もし投げた石が当たればけがをしたことだろう。木に当たった石が跳ね返って飛んでくることもあった。男の眉間に小さな凹みがあるが、これは山を駆け下りていて竹の根っこにぶつかり転んで竹の切り株で打ったときできた傷である。幸い防寒帽をかぶっていたので大きなけがにはならずに済んだ。

 今から178年前だったと思うが男が前立腺がんの手術を受ける前に、がんが骨に転移しているかどうか全身のレントゲン写真を撮られたことがある。そのとき肋骨に黒い影があって、主治医は「以前肋骨の骨折をしたことがありましたか?」と聞かれたことがあった。そのとき思い当たったのは、男が小学校3年生のとき教室の中で暴れまわっていて壁から突き出ている木材の突起にぶつかりしこたま胸を強打したことがある。痛さを我慢して授業を受け、下校時間になって家に帰ってから一層痛みがひどくなり、祖母に治療してもらったことがある。母は数か月前(12月)に乳がんで他界していた。祖母は母親を失った10歳の男の子を憐れんでいたに違いない。治療と言っても祖母は小麦粉を酢で練ってそれを油紙に伸ばし、それを男の胸の痛む所に貼ってくれただけであった。その日は夜寝付かれないほど痛みを感じていたがじっとしていた。そしたら翌日にはもう痛みが引いて、普通どおり学校に通った。その時の痛みは肋骨の骨折が原因であったのだ。今なら親はあわてて医者に連れて行くことであろう。その当時町に医者は少なく、医者といっても整形外科医ではなかったと思う。祖母は痛がる男の子の胸をさすり、最良の治療をしてくれたのである。祖母は子供時代の男が目にゴミが入り痛がっていたとき、自分の舌でそのゴミを取り除いてくれたこともあった。男は子供時代相当腕白であったと思う。

 今の時代、子供は過保護なほど大事にされている。その一方で親同志のコミュニケーションは薄く、付き合っても心から打ち解けることはなく表面的で、母親たちは皆孤独なのだと思う。それだけに、親も子供も居場所が十分でないのだと思う。居場所がないと欲求不満がつのり、自分が一番安らかに感じる場所に閉じこもったり、居場所がない者たちが群れを作って、その中で安らぐようになる。これは社会的問題である。男は、鳩山新政権は次代を担う若者や子供たちの居場所に深い関心を持ってもらいたいと思う。