2009年11月4日水曜日

宮崎の旅(その1)(20091104)

 男の郷里は九州である。平安時代豊後高田荘と言われた土地、現在の大分市鶴崎地方から高田にかけて摂関家の荘園であったところが男の生れ育った土地である。小学校2年生の夏までの一時期、教師であった父の赴任地・朝鮮慶尚北道で過ごしたが、叔父の結婚記念写真を見ると戦争の最中父母に連れられて父の実家・祖父の家に一時帰ったことがある。父がその土地を離れて福岡・熊本の県境に近い町に本拠を置いたため、男はその土地を訪れることはたまにしかない。しかしその土地には男が小学校、中学校時代の同級生たちが暮らしている。竹馬の友の一人は郷土の歴史研究の会のメンバーとして活動している。

 男と女房は父が本拠をおいた土地に独り暮らしの老母(男の継母・女房実母、但し継母が我が家に後入りに来た以降母娘(8歳)別居)を看るため時々帰ってきているが、故郷の九州のことをよく知っているわけではない。そこで帰ったついでに時々九州の各地を訪れてみることにしている。45年前九州新幹線に乗って鹿児島まで足を伸ばし、男が若い頃住んだことがある串木野や指宿や、特攻基地だった知覧、篤姫の故郷鹿児島などを訪れたことがある。

 母は腰椎の圧迫骨折で腰が曲がっており、5年ほど前がんを患ったため白血球数が健常者の4分の3程度しかないが大変元気である。そこで、男と女房は母が元気なうちに旅行をしておこうと、今回宮崎に2泊の旅をすることにした。

 31日、日曜日九州地方は快晴で温暖である。二人は博多と大分・別府の間を走る観光列車 ‘ゆふいんの森’号に乗って大分まで行き、大分で‘にちりん13号’に乗り換えて宮崎に向かった。ホテルはインターネットで予め予約してあり、翌日観光バスに乗って一日がかりで名所旧跡を回る計画である。この小型パソコン持ち歩くとホテルやツアーの予約などに便利である。これはその‘にちりん号’の中で沿線の風景を楽しみながら書いている。

 ‘ゆふいんの森号’の旅は車窓からの眺めがとても良かった。ゴトンゴトンとのんびりとした音を立てながら谷間に沿ってゆっくり下ってゆく。この列車はレトロ調でユニークなデザインの列車は人気の的でその風景写真を撮ろうと待ち構えている人たちがいた。大分で‘にちりん号’に乗り換えるのに5分間しか余裕がない。大分駅は高架ホームを工事中で‘ゆふいんの森号’はその3階建ての高架ホームに入る。従来のホームでは既に‘にちりん号’が停車している。男と女房はそれぞれ旅行用のトランクを持って大急ぎで1階のホームまで走った。‘にちりん号’に飛び乗ったらまもなく列車は発車した。

 列車は臼杵、佐伯、津久見、延岡と主要な駅で停まりながら快速で走る。男と女房の席は海側なので港の風景を楽しむことができた。車中で女房が購入してあった宮崎観光の雑誌をめくると美々津というところでは、約2700年前神武天皇が水軍を率いて東征の旅に出た所であると書いてある。

 男はこの水軍はそのもっと昔、揚子江中流域の民が漢民族の圧迫を受けて難民となり揚子江河口から逃れて東に進み沖縄を経て鹿児島の笠沙に辿りついた人々の末裔、もしくはその人たちから造船・航海の技術を受け継いだ人たちの末裔ではないかと考えている。

 揚子江中流域の文明はは黄河文明よりも1000年も古いことが判ってきている。古事記にはニニギノミコトが「この地は韓国に向かい、笠沙の岬を通って朝日がさす国、夕日の照る国で、甚だ良い国である」と申されたと言う土地の名前である。(続く)
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