2009年11月12日木曜日

日本人の起源とヤマト王権(その5(20091112)

  男はカムヤマトイワレビコが大和盆地に侵入したときその地にはすでに長江中・下流域にルーツもつ人々の王国があったと考える。『日本列島の大王たち』(吉田武彦著、朝日文庫)によれば、日本列島の中心域に倭人とは別に東鯷人(とうていじん)が住んでいたらしい。吉田武彦は『漢書』地理誌の記述を引用して、『魏志倭人伝』に書かれている倭人は北九州を中心とした王国の人々であって、鯷人は日本列島中心の日本海側から太平洋側あるいは瀬戸内海側に王国を築いていた人々であり、3世紀まで中国に貢献していたという。

  男は、東鯷人は渡来系弥生人の血が混じる倭人とは別に、長江中・下流域の稲作・漁労の人々が北方の畑作・狩猟の人々の圧迫を受けて、舟で長江を下り海に出て、台湾や日本列島に流れ着いた人々の子孫ではないかと思う。彼らは元々居た縄文人たちと交わりながら故郷の文化・文明を伝えたであろう。その後朝鮮半島経由で、同じ長江中・下流域で稲作・漁労の文化と畑作・狩猟の文化が交流し、人々の間で混血も行われて生れた新しい漢民族が北上して朝鮮半島経由で日本列島に辿りつき、時代を経て北九州に倭人の王国が誕生した。この王国の民は時を経て陸伝い或いは沿岸伝い或いは川をさかのぼりは九州全域に勢力圏を広げた。その過程で先住の縄文人や長江中・下流域からポートピープルとなってやってきた人々の子孫らと文化の交流をし、混血していったであろう。その一つが海童の玉依姫を母とするイツセノミコトとカムヤマトイワレビコ(後の神武天皇)の兄弟である。

  この兄弟が吉備の王国の支援を受け、それまで率いて来た水軍に強大な吉備の水軍を加え、紀伊の熊野周りで大和盆地に入った。その盆地の王国は鯷人の王国でその先祖はやはり長江中・下流域の民の血を引く人々であったのだ。『古事記』を読むとカムヤマトイワレビコの一行が熊野の奥地に入る時八咫烏(やたがらす)が道案内をしたと書いてある。この烏は鳥を神の使いとする信仰に基づくもので、安田喜憲著『日本古代のルーツ 長江文明の謎』によれば、この烏という鳥は中国の苗族のシンボル蘆笙柱の上につけられている鳥の飾りと何か関係がありそうである。

  また『古事記』にはカムヤマトイワレビコが「熊野の山の荒ぶる神、自ら皆切り仆(たふ)さえき」とある。カムヤマトイワレビコには後の大伴連等の祖となるミチノオミノミコト(道臣命)や久米直の祖となる大久米命が従っている。彼らは後の世まで天皇家を支えていった家系である。『古事記』には、カムヤマトイワレビコは大和盆地に入って土雲という土着の民を大刀で撃ち殺したと書いてある。一行は大和盆地に住んでいた民の指導者の娘や妹などと寝て子を作り、カムヤマトイワレビコには後継ぎのカムヌナカハミミノミコト(神沼河耳命)など三人の子が生れ、従者のニギハヤノミコトには物部連、穂積臣らの祖となる子が生まれ、カムヌナカハミミノミコトの他の兄弟にも阿蘇君、筑紫の三家連、伊勢の舟木連、尾張の丹羽連などの祖となる子が生まれている。

  『古事記』には、カムヤマトイワレビコが大和盆地で土地のエシキ(兄師木)とオトシキ(弟師木)の軍と戦闘し、両者を倒したとき疲れて「盾並(たてな)めて 伊那佐(いなさ、大和の国宇陀郡伊那佐村の山)の 山の樹(こ)の間(ま)よも い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢(ゑ)ぬ 島つ鳥(これは鵜の枕詞) 鵜養(うかひ)が伴(とも) 今助(す)けに来(こ)ね」とうたったと書いてある。鵜飼漁は中国の雲南省で行われているので、大和盆地の民との関連がある。(関連記事『日本人の起とヤマト王権(その2)(20091109)

  北九州以外に日本各地に渡来系弥生人や鯷人などの王国があった。大和盆地には強大な鯷人の王国があったのだ。カムヤマトイワレビコ一行は吉備の王国の支援を得て紀伊に回り熊野を経て大和盆地に入り、土着の神を壊し、民を殺し、民の指導者層の家の娘と寝て子孫を作り、ヤマト王権の基礎を作ったのだった。

  九州や中国地方や近畿地方や瀬戸内海の沿岸には、3000前以降前漢、後漢の滅亡時などに中国大陸沿岸や朝鮮半島から多くの人々が日本列島にやってきた。勿論日本海や北海道経由、或いは南から黒潮に乗って島伝いにやってきた人々もいた。我々日本人は何千年という長い時の流れの間に人々の血が混じり合い今の日本人となったのである。

  吉田武彦は、後に神武天皇となったカムヤマトイワレビコはこの北九州の王国の大王と血がつながっていて日向を中心に王国を築いていたという。鴨緑江北岸にある広開土王碑に書かれている「倭」は大和朝廷の倭ではなく筑紫の大王の領地である朝鮮半島南辺にいた倭であると、諸史料をもとに論証している。そして日本書紀に書かれている皇統は九州の王たちを間に挟んで造られたものであり、継体天皇(50724- 53127日)は、皇位継承の戦争の最中、一武将として大和盆地周辺にいて機を観て大和盆地入り、権力を掌握した人物であるとしている。継体天皇以降の皇統を疑う人はいない。

  卑弥呼(ひみこ、175年頃? - 248年頃)の耶馬大国は考古学的には畿内にあったとする説が優勢であるという。それはカムヤマトイワレビコが征服した大和盆地ではないとすると何処だろうか? 耶馬大国は中国との交流をしていたが3世紀にその交流が途絶えた鯷人の国々の一つであったのだろうか? 男はいろいろ空想を逞しくする。

  特に戦後日本では、ヨーロッパ系やアフリカ系の人と結婚する人が増えた。中国人や在日韓国・朝鮮人と結婚する人も多い。一組の男女から子供二人が生れ、その二人がそれぞれ別の組の男女と結婚しそれぞれ子供が生まれて、そのようにして子孫が増えて行くと、1000年後には子孫が1兆人になる。実際は共通の祖先をもつ男女と結婚することになることが起こるから1兆人にはならない。限られた階層の中の結婚では、共通の遺伝子を沢山もつことになる。地方に行けば地域で人々の顔かたちに特色があるのはそのためである。(関連記事『古代筑紫(九州)の大王の話~戦後の歴史教育を憂える~(20090909)』 (終)