2009年11月9日月曜日

日本人の起源とヤマト王権(その2)(20091109)

 日本における旧石器時代について、関連記事「日本人の起源とヤマト王権(その1)(20091107)」に引用した『Newton』及び『日本古代のルーツ 長江文明の謎』から再び引用してこの記事を書いている。

 男は、「自分が何処から来て、何処に行くのか」知りたいと思っている。『日本古代のルーツ 長江文明の謎』には次のように書かれている。

 中国の雲南省から長江流域の地域と西日本との間では多くの文化的共通点がある。例えば納豆や餅などネバネバした食べ物が好きである。雲南省では日本の長良川の鵜飼いと同じ漁が行われている。お茶を飲み、味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べる。

 今から約6300年前に長江中・下流域で稲作農耕が開始され、漁労も行われ長江文明が誕生した。これは黄河文明より1000年も古い文明であった。しかし5700年前に始まった気候の寒冷化によって北方で畑作牧畜を行っていた集団が4200年前に南下し、長江中・下流域にいた集団は雲南省や貴州省の山岳地帯へ追われた。一部の人々はポートピープルとなって海に逃れ、台湾や日本に到達した。稲はジャポニカ種である。畑作牧畜の民の集団は漢民族のルーツとなる集団である。

 彼らが稲作漁労の民の社会に乗り込んできた当初はおそらく争いが起き、殺戮も行われていたであろう。しかしいつしか畑作牧畜の民は稲作漁労の民と融合し、互いの文化が一つに溶け合っていった。そしてそこに階級社会が生じ、都市文明が起こり、王が民を率いるようになった。

 北方の畑作遊牧民の南下によって追われた一部の人々は雲南省に逃れ滇(てん)王国を築いた。一方長江下流域に生活していた人々や漁労民は海に逃れ、台湾や日本列島に流れ着いた。この王国は女王が支配する王国で、蛇信仰や生贄の習慣があり、紀元前400年から紀元後100年くらいまで栄えていた。この王国末期の羊甫頭遺跡の墓からは馬の青銅製品が出土した。これはこの王国の末期には次第に北方の勢力の影響が強くなっていったことを物語っている。この王国は次第に男性中心の社会となり崩壊した。

 長江文明の遺跡から玉壁、玉鉞(ぎょくえつ)、玉琮(ぎょくそう)などの玉器(土器)が見つかっている。長江文明には金属はなかった。長江文明より1000年遅れて起こった黄河文明では金属製の玉器があった。それが長江文明に影響を与え、玉信仰を生み出し礼器まで発展した。そして今度は玉信仰を伴う礼の儀礼が再び北に向かって黄河文明に影響を与え、青銅器の原型となったという。中国の礼の文化の起源は長江文明にある。

 『日本古代のルーツ 長江文明の謎』には、雲南省石寨山遺跡で見つかった青銅器に彫刻されている羽人の絵(羽根飾りを付けた8人の人が櫂で舟を漕いでいる絵)と鳥取県淀江町角田遺跡から見つかった羽人の土器(羽根飾りを付けた4人の人が櫂で舟を漕いでいる絵が描かれている土器)のことや、高床式建物の屋根の千木など、長江流域の古代遺跡で発見された物とわが国の神社の形の類似性のことなどが書かれている。

 前掲『Newton』によれば、中国の春秋・戦国時代(紀元前770年から紀元前222年)の人々の骨が彼ら渡来系弥生人の骨と似ているという。渡来系弥生人は3000年前朝鮮半島経由で稲作文明を持って日本列島にやってきた。彼らは縄文人と混血したりしながら稲作による圧倒的繁殖力で800年の時間をかけて日本列島全体に広がり、各地で王国が生まれた。
次回、その倭人の王国について男がいろいろ空想を交えて考えたこと書くことにする。