2009年10月30日金曜日

死刑制度について考える(20091030)

 男はつい最近まで死刑を容認する立場であった。人を殺めた者は死刑か終身刑か無期懲役刑が当然であると思っていた。ところが、男は今死刑とか厳罰を課す刑が果たして完全に正しいことかどうか疑問に思うようになった。

 犯罪の被害者は加害者が厳罰に処せられることを望む人が多い。確かに最愛の人を犯罪で失った人は悲しみや怒りの気持ちをなんとか収めたいと刑罰に代償を求める傾向がある。最近寺尾聰主演の映画『さまよう刃』が上映されている。男はその映画を観ていないし観たいとも思わないが、その映画の内容は最愛の娘を犯罪で失った父親が犯人を自らの手で殺めて復讐を果たそうとする内容らしい。犯罪者に刑罰を課する目的の一部に「被害者感情や遺族感情を鎮める」というものがある。裁判員裁判では、犯罪被害者や遺族の側の感情も考慮した判決を出す例も見受けられる。

 刑罰には犯罪者に罪を自覚させる、再犯を防止する、犯罪を抑止するなどの目的がある。男は、法律はそのような目的に照らして最善と考えられる刑罰のレベルを設定し、過去の判例も考慮して妥当な判決が行われていると思うが、その中にある意味で昔の「仇討」、今の言葉で言えば「復讐」の部分を国が個人の代わって行うということになれば、ちょっとそれはおかしいのではないかと考えるようになった。

 復讐の行為は法律で禁じられている。そこで国が犯罪被害者・遺族に代わり「被害者感情や遺族感情を鎮める」目的を考慮して ‘仇討’・‘復讐’を行うということにならないかと男は思うようになった。男は今までただ単に一般社会的感情のレベルで、人を殺めるようなことをした人間は最も重い刑で死刑に処せられることがあってもよいと、刑罰の意味をあまり深く考えずに思っていたのである。

 デンマークかどこかヨーロッパのある国では、刑に服している人たちが週末に自宅に帰り家族と一緒に過ごすことがゆるされているらしい。多分それは軽い犯罪者が対象で、性格欠陥者で殺人を再び起こすような人は含まれていないと思う。男はサンディエゴで友人が運転する車の中で、「あの人は服役者で罰として道路の清掃に当たっている人だ」という人を見かけたことがある。見たところ監視人が居ない所で独りの婦人が道端の清掃を行っているようであった。服装は作業服のようであったが恐らくアメリカ人なら誰でも判る受刑者専用の服装であったのだろうと思う。

 性格的に殺人や泥棒を繰り返すおそれがある人、思想信条的なものがあって重罰を課しておかないと再び社会を不安に陥れる可能性があるような人にはそれなりに重い刑罰を課し、刑務所から再び出て来ることが出来ないようにしておくべきである。しかし国がもし被害者の感情や社会一般の感情、それも‘復讐’の要素がある感情を鎮める目的で死刑を課すとなると、それはちょっとどうかなと男は考えるのである。

 男は地下鉄サリン事件や弁護士一家の殺害事件で死刑判決を受けた人たちには、その犯罪の重大さ、そしてもし仮に出所させたと場合、彼らの思想信条的に社会的不安を再び引き起こしかねない危険があると思うので、彼らは一生刑務所から出て来ることができないほどの非常に長い期間の懲役が課せられるような制度があってもよいと考える。そして刑務所の中で強制的に仏道の修行を行わせるような制度があると良いと思う。そうすれば本人に犯した罪の重大さを自覚させ、人間として人生を全うさせることに少しは役だつのではないかと思う。(関連記事「夢窓国師の作詞『修学』(20091002)」)