2009年11月11日水曜日





日本人の起源とヤマト王権(その4)(20091111)

  安田喜憲は、中国雲南省の苗(ミャオ)族と台湾の少数民族・生番族は滇王国にルーツをもっている。彼らは日本人及び日本の文化との共通点が多いと言う。滇王国の石寨山遺跡、李家山遺跡や羊甫頭遺跡からおびただしい数の青銅製品が発掘されている。その青銅器には大蛇や女王や巫女や生贄にされる上半身裸の女性などが描かれている。

  女王卑弥呼、長江文明による中国四川省龍馬古城宝墩(ほうとん)遺跡の土壇と奈良県石塚纏向(まきむく)古墳の土壇の類似性(土壇の数が三段、墳丘の上に葺石がないこと)、長江文明の稲作漁労民のシンボルである蛇と日本のヤマタノオロチ神話、蛇をご神体とする奈良県桜井市の大神神社や宮城県牡鹿町の金華山神社など滇王国の風習を伝えていると考えられるものが日本に存在している。以上は彼の本に書かれていることを引用した。

  『古事記』や『日本書紀』に書かれている安曇連(あずみのむらじ)は綿津見神(わたつみのかみ)を祖先の神とし、航海を司る神である住吉大神(すみのえのおおかみ)を祭り、全国各地の海部を中央で管理する伴造である。男は、この安曇連の祖先は長江中・下流域から来たのではないかと考える。

  『日本書紀』によれば、カムヤマトイワレビコ(後の神武天皇)の生母は海童(わたつみ)の少女(おとむすめ)・玉依姫(たまよりひめ)である。東征にあたっては「親(みづから)諸(もろもろ)の皇子(みこたち)舟師(みふねいくさ)を師(ひき)いて」出発したとある。豊予海峡か明石海峡を通る時ある漁師に出会い、これを海導者(みちびきのひと)としたとある。男は、カムヤマトイワレビコはその出自からして海洋の航海に長けた集団を率いて、各地の王、多分北九州の大王の親族・縁者の支援を受けながら別の大王がいる畿内地方の制圧を企て、16年という長い年月をかけてようやく成功したのだと思う。東征の船出の時期は紀元前650年頃から紀元前70年頃の間であろうと思う。時期の幅があるのは神武天皇は実在の可能性のある最初の天皇とされる崇神天皇がモデルであるという説があるからである。(関連記事『宮崎の旅(その3(20091106)』)

  北九州の大王が吉野ヶ里遺跡と関係があったどうかわからないが、その遺跡で首のない無数の人骨が見つかっている。これは『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼の時代大きな戦争があったということなのでその犠牲者かもしれない。しかし紀元前400年から紀元後100年くらいまで栄えていたという滇王国の遺跡から首狩りの儀式が造形されている物が出土しており、弥生時代に日本でも首狩りの風習があったという説を唱える学者もいる。(『日本古代のルーツ 長江文明の謎』より引用。)

  男は、首狩りについて台湾にはその風習があったが、『古事記』や『日本書紀』にそのような記述が一切ないので、日向の美々津から東征に出発したカムヤマトイワレビコの一団はそのような風習とは無関係であったと思う。長江中・下流域に故郷がある渡来系弥生人の子孫カムヤマトイワレビコは日向を旅立って以来16年かけて紀伊の方から飛鳥の地に入ることができ、ヤマト王権の基礎を築くことができたのである。

  日本が国として統一されたのは6世紀に隋に使いを送り「日出る国の天子、日没する国の天子に書を致す。恙なきや。」という国書を隋の皇帝に差し出し隋の皇帝を怒らせたが、その当時隋は朝鮮半島の高句麗との緊張関係があって日本に軍を差し向ける余裕がなく、逆に隋は日本(当時‘倭国’)との国交樹立のために使者を送って来ている。(続く)