2009年11月10日火曜日

日本人の起源とヤマト王権(その3)(20091110)

  最近の考古学的成果及び遺伝学的成果により、3000年前から徐々に日本列島にやってきた渡来系弥生人のルーツは中国の長江中・下流域にあることがわかってきた。前掲の『Newton 最新版「日本人の起源」』や『日本古代のルーツ 長江文明の謎』には書かれていないが、男は、長江中・下流域の稲作・漁労の民と、北方から来た畑作・狩猟と民とは文化の交流と混血をしながら現在の漢民族となり、寒冷期が過ぎた後再び北方に勢力を広げていったのであろうと考える。その時長江の漁労の民が持っていた船・航海の技術も中国の沿岸伝いに北上しながら改善されていったのではないかと考える。
  長江中・下流の民が北方の民の圧力を逃れて雲南省滇池のほとりに作った滇王国(『日本人の起源とヤマト王権(その2)(20091109) 』参照)は漢民族の圧迫を受け、男性中心の社会となり消滅したが、消滅までの間に彼らの一部は長江を下り、海に出て台湾や日本に流れ着いた。その場所は鹿児島県南さつま市の笠沙や鳥取県淀江町角田など、日本列島の沿岸であったと考えられている。

  男は、彼らポートピープルが日本に流れ着く前に日本列島には渡来系弥生人が各地で王国を作り始めていたと思う。『古事記』によれば、ニギノミコトが日向の高千穂の嶺に下って、詔して「この地は韓国に向かい、笠沙の岬を通って朝日がさす国、夕日の照る国で、甚だ良い国である」と申されたと言う土地、笠沙の御崎でコノハナサクヤヒメ、此花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と出会って一宿(ひとよ)婚姻したことが書かれている。このコノハナサクヤヒメは、現在の鹿児島県南さつま市の笠沙というところの阿多という一族の長の娘であった。コノハナサクヤヒメは見目麗しい美人であった。ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの間に出来た子が、後のカムヤマトイワレビコノミコト(後の神武天皇)の遠祖となる。(関連記事;『日本列島の大王たち(20090826)』、『神が威厳をもって守る国、言霊が幸いをもたらす国(20090908) 』)


  渡来系弥生人たちは稲作農耕及び漁労の文化を持ってきた。この稲作・漁労の文化が日本列島にもともと住んでいた縄文人たちに比べ優れていたため彼らは食料の確保が容易であった。このため縄文人たち比べ圧倒的繁殖力を持っていた。渡来系弥生人たちと縄文人たちとはお互い争うことはなかったが、渡来系弥生人の人口はどんどん増えて縄文人たちはこの列島から次第に駆逐され、或いは渡来系弥生人たちと混血していった。このため縄文人は北海道のアイヌの人々と沖縄の人々の遺伝子の中に縄文人との混血の痕跡を残すだけで、純粋の縄文人はこの日本列島から姿を消してしまった。

  北九州の筑紫に渡来系弥生人の大きな王国があった。男は、カムヤマトイワレビコの祖先は、その王国から分家して宇佐や吉備など各地とのつながりがあったのではないかと思う。(『日本列島の大王たち』(吉田武彦著、(朝日文庫))には、天皇家のルーツ・神武天皇は古事記にあるとおり日向(宮崎県)を出発し、宇佐(大分県)に立ち寄り、そこで宇佐の土地の有力者の厚遇を得、その後筑紫(福岡県)の岡田宮(福岡県遠賀郡芦屋)に詣でた後、安芸(広島県)、吉備(岡山県)を経、淡路島と四国の海峡を経て難波(大阪)の地に入ろうとしたが戦闘に破れ、熊野(和歌山県)を迂回して大和(奈良)に入った、としている。しかし、銅鐸の分布の関係から、天皇家のルーツは北九州地方の大王の分家であるとしている。(続く)