2010年3月15日月曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(52)(20100315)

ある米国籍の友人からメールが来た。わが国の調査捕鯨を違法な行為で妨害しているシーシェパードの活動について「シーシェパードの船長はヒーローと思われていると思う。アメリカの全人種を含めてのほとんどのアメリカ人は、過激な平和運動家や自然運動家を嫌うが、人種をからかう場合は別である。そのように他の人種をからかいたい変な運動家にとって、日本は最高の標的だと思う。妨害しても命の保障はあるとなめられていると思う。」いう内容である。
悲しいかな、人には私自身も含めて「他人を差別したい」心理がある。そのような心理が無ければ競争心は生れない。競争のない社会は活気がない。学校でも会社でもその中で競争がある。そして自分が他人よりも優れていたいと思う。
そのような競争心はグループ同士、学級同士、学校同士、会社同士、社会同士、国同士の間にもある。グループの中で競争し合っていても他のグループと対抗心を燃やす。国同士でもその規模が大きいだけで、対抗心の点では全く同じである。この場合、対抗心は警戒心にもつながる。警戒心だけで収まらず敵対心となり、戦争になる場合もある。
小さな蟻の世界から生物としての人間の世界まで、「他に優越しよう」とする行動は変わらない。それは生き残ろうとするための行動である。自己を保存しようとする行動である。当然その行動は差別を生む。競争に負けて落ちこぼれる者が出てくる。
偽善的博愛主義者は差別をする側の人間、社会での勝者を、自分自身では知ることが出来ない自分自身の深層心理のところでは礼讃していながら、「平等、公平、差別反対」と口にする。しかしそのような偽善的博愛主義者もいなければ社会的弱者は救われない。悪いことをする人間が居なければ善いことをする人間が称賛されないのと同様、社会のあらゆる物事には表と裏の、正と負の、陽と陰の、高と低の二面性がある。
シーシェパードの船長は、世界の人口の何パーセントの人間からヒーローとして称賛される一方で、その行動を厳しく非難する人たちも多いであろう。当の船長自身も日本に連れてこられてそれまで気付かなかったことに気付くだろう。
日本人は心根の優しい国民である。外国人に対して親切な国民である。一時期自存のためにやむを得ず武力を行使し、663年の白村江での敗戦同様の惨憺たる負け方をし、何百万人という犠牲者を出してしまったが、今日世界に冠たる国にまで成長して今や日本一国だけで「自存」のための行動をとる必要はなくなった。しかし、もし今後日本が沈没するような状況にでもなれば、再び日本は自存のため立ち上がらなければならなくなるかもしれない。そのようなことが決して起きないように、われわれは優れた政府を持たなければならない。そのような政府を修行僧と見立てて、「真理のことば」第二十五章「修業僧」;
372 明らかな智慧の無い人には精神の安定統一が無い。精神の安定統一していない人には明らかな智慧が無い。精神の安定統一と明らかな智慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。

2010年3月14日日曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(51)(20100314)

 今日(13日)は気温20℃、これまでになく暖かい。今年は梅の花を見に出かけることは出来なかったが、テレビを見ていたら青梅の里で美しい梅園があり10万人が訪れるという。農家の主婦が軒先を観光客のために開放していて観光客に湯茶のサービスをしており、毎年同じ人が訪れるという。女房は「行きたい!よさそうな人のようなのであの人懇意になりたい。」という。「じゃ明日行く?」と問うと、体調次第で行きたい様子。男は今日は夕方から詩吟なので明日調子がよければ横浜線経由で行くことにした。

 クータン(クーが名前であるがクーたんとかクーちゃんと呼ぶ。)はわが家にすっかり慣れ、一層可愛い。毎朝7時前、午後2時過ぎ、夜10過ぎに散歩に連れ出す。糞を始末するための小さなビニール袋とトイレットペーパーの切れ端を持ってゆく。「クー、行くぞ。」と言えば引き綱を両前足にかけることを心得ていて片方づつ足を上げる。引き綱は背中のところで固定具に固定し背中のほうから引っ張る形である。午後、ソッファのところから食卓の方を見て何か言っている。行ってソッファに横になると早速私の腕の中に入り気持ちよさそうにしている。眠くなったらしく欠伸をしたり目をつぶったり、上向きになって足と手を延ばしたりしている。女房が写真にとって携帯メールに添付し、大阪に行っている嫁に送ってやった。嫁は月曜日に帰ってくる。

 昨日はクータンを散歩させながら河原の道の脇などに散乱しているゴミを拾った。そのきっかけは小学校の児童が先生に連れられてゴミ拾いをしているのを見たからである。たまたま薄汚れた大きなビニール袋が落ちていたのでそれを利用し、ゴミを集めた。いつも誰かがゴミ拾いをして美観を保っている。ジョギングしている人たちも気分が良いであろう。

 これまでブログには自分の個人情報を出すことを局限していた。しかしブログを出す目的がより明確になったので、自分のプロフィールをちょっと詳しく書いた。そうしたらこの地域、横浜市鶴見区のGoogleブロガーを簡単に検索できることが分かった。自分の写真をはっきり出しているブロガーはいないので、こうして自分のプロフィールと顔写真を出した以上、自分もある程度‘公的’な存在となったことになる。公開するブログの記事にはよく注意を払い、責任をもたなければならない。ただ、女房の方は自分が公になるのは嫌であると思っているのでその辺の配慮は十分必要である。

 ブッダ「真理のことば」第二十四章は「愛執」である。ここに書かれている言葉は、殆ど「愛欲」とか「執着」とか「快楽」とか「歓楽」である。人間の性欲に根差す、人間の根源的な欲望をどう克服するかについて説かれている。

 国民新党の亀井氏や沖縄県知事が沖縄にカジノを誘致し、沖縄の経済を潤すことを提案している。カジノは歓楽の場である。そのゆえに精神的な病に陥る人も出てくるので、専門の病院も併設するなど、その対策も考えなければならない。

341 人の快楽ははびこるもので、また愛執で潤される。実に人々は歓楽にふける。楽しみをもとめて、生れと老衰を受ける。

2010年3月13日土曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(50)(20100313)

 花粉症なのか風邪なのかよく分からない。目がかゆかったり、鼻水が出たり、涙が出たりする。ときどきくしゃみもし、薄着していたのに気付き上着を着る。用心のためカネボウの葛根湯を飲む。ついでにビスケット2、3枚食べお湯をのむ。

 食卓の上にはいつも電気ポットにお湯がある。水は三菱の卓上用クリンスイで浄水したものを使う。これにはカウンターがついていて、毎回1リットルづつ浄水するのであるが、その都度カウンターのボタンを押す。すると初め180あった数字がボタンを押すたびに一づつ減る仕掛けになっている。これがゼロになったらフィルターを取り換えるのである。フィルターの値段はこの卓上型だと3千円あまりである。三菱に限らないが、ある製品を買うとその維持のため継続的にコストがかかる仕組みがある商品が結構多い。

 FREEの田中社長は若干33歳ながらフォーチュンでトップから3番目ぐらいのところにランクされた高額所得者である。このFREEは文字どおりタダのゲームである。しかしインターネット上でゲームの成績を競いあうメンバーが160万人も居るという。ゲームを競うため釣り道具とか着せ替えの衣類とかを2、3百円で買わなければならない。このように競いあう人たちがお金を払うから、タダでゲームができる仕組みである。しかしタダで楽しむだけではつまらないから、皆小銭を出す。これが初めタダになるの仕組みである。

 国会で桝添氏が日銀総裁や菅副総理兼財務担当大臣を追求していた。桝添氏の主張はデフレ克服のためもっと思い切った財政出動をすべきであるということである。デフレは中小企業の国際競争力の足を引っ張っている。とにかくモノ作りの中小企業が元気にならないと景気は上がらない。雇用も伸びない。FREEのようなゲーム関係事業者やユニクロのような衣料販売事業者だけが元気であっても、モノ作りの事業体が元気でないと日本の景気はよくならない。雇用が伸びなければ購買意欲も高まらず、景気は決してよくならない。

 鳩山総理は法人所得税が諸外国に比べ高すぎる発言した。子供手当は多くが貯蓄に回り経済効果の期待ができないという懸念が示されている。子供手当よりも保育園を増設すべきである。亀井金融担当大臣は、企業の役員の報酬額を公表すべきであると言い始めた。農家の個別保障制度で減反政策に従わず米を作ろうとする農家を規制しようとしている。なんだか自由経済の方向から国家社会主義の統制経済の方向にこの日本は向かっているように思える。果たしてこの国の活力が増すだろうか?

 日々是(死に)支度をするこのご隠居、自分はぶつぶつ独り言を言っておればよいと思い、後世それが役に立とうと立つまいとどうでもよいと思いつつ「現代の自然観と仏教(仮題)」について考え、一つの思想の元になるようなものを考えてみようとしている。まるでこのご隠居、ドンキホーテのように大真面目である。

333 老いた日に至るまで戒めをたもつことは楽しい。信仰が確立していることは楽しい。明らかな智慧を体得することは楽しい。もろもろの悪事をなさないことは楽しい。
訳注によれば、「信仰」とは「正しいことを信じること。」である。

2010年3月12日金曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(49)(20100312)

 ようやく寒を脱して今日(11日)風がやや強いが暖かな日和である。男は久しぶり近くの行きつけの理髪店にゆく。店主は息子ぐらいの齢で夫婦二人でその店を営んでいる。昨年その御夫婦ともそれぞれの親が他界している。料金は65歳以上は3000円ということで、いつも1000円引きの特別価格でやってもらっている。その気持ちが嬉しく、盆暮れには気持ちだけのプレゼントをしている。昨年は文明堂のカステラを持って行った。

 散髪のしかたについて「どのようにしましょうか?」と聞かれる。「そうですね。もうソフトモヒカンはやめにします。齢ですから。」「脇は刈って上の方を残すようにしましょうか。」「それでお願いします。普段整髪料は使いませんので、ま、ぼっちゃん狩りのようでいいです。」と照れながら答える。

 話題は花見のことに移る。「今年は女房が帯状疱疹になったため梅の花を見にゆくことはできませんでした。桜の花は見に行きます。」「どちら方面に行きますか?」「三ッ池公園にはよく行きます。」「あそこはいいですね。私もよく行きます。野球をやっているものですから、あそこのグラウンドにはよく行きます。」、と話は弾む。彼も奥さんとオフの日には車で花を追いかけてあちこち訪れると言う。花の写真を撮るのが趣味と言う。
話題は潮干狩りのことに移る。「金沢八景の浜の貝は天然ものですか?」「ええ、天然ものですよ。まて貝も獲れます。」「潮干狩りにはもう何十年も行ったことがありません。今年は女房の快気祝いを兼ねて是非行こうと思います。」「それでしたら連休前が良いですよ。」とアドバイスしてくれた。

 女房も以前から潮干狩りに行きたいと言っていた。若い頃木更津に住んでいたことがあった。当時その海岸はまだ製鉄所などなく、ハマグリやアサリをブリキのバケツ両手に一杯獲れていた。小櫃川では釣りもでき、山に行けば山菜も獲れた。あの頃が懐かしい。

 さて新聞やテレビで毎日のように犯罪が報じられている。日本書紀などを読むと昔から犯罪はあり、人口比で相対的に見れば世の中が豊かになっても犯罪は減らないのではないかと考える。犯罪を犯す人には、出来ごころでついやってしまったという人もいるであろうし、見つからないと思ってやる者もいるであろうし、罪に問われないように頭脳的に巧妙に法に触れないことをし、実際は犯罪行為を行う者もいるであろう。

 ヒトの遺伝子に関する研究が進んでいて、ヒトの行為、例えば他者を攻撃するとか、逆に他者に優しいということは遺伝子の中にその情報が組み込まれているらしい。罪を犯すのは先祖から伝わる遺伝子によるものがあるのかもしれない。何か潜在的な因子があって、その人が置かれた環境条件により、その遺伝情報が発動するのかもしれない。家族の中で一人が罪を犯すのはメンデルの法則に従う先天的な要因によるものかもしれない。

330 愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独(ひとり)で歩め。悪いことをするな。求めるところは少なくあれ。林の中にいる象のように。

2010年3月11日木曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(48)(20100311)

今日(10日)は午後よいお天気になった。横浜市陶芸センターの近くの中国から贈られたという庭園の池でキンクロハジロの一群がゆっくり水面上を泳いでいる。紺碧の空の下、カモたちはシベリヤ方面に帰る時期を窺っているのかもしれない。池を見ている私のところに寄ってきて「いつ帰ろうかな」とでも言いたそうな顔をしている。

今日は多目的皿、これはカレーライスを食べるときでも、スパゲッティを食べるときでも、なにかお惣菜を盛るときでも使える楕円形の舟形のお皿であるが、これを先週4枚創って乾かしていた。今日はその内側に蚊帳を置いて刷毛で白化粧をして網目模様を付けた。
先々週、赤土3kgを楕円の形にし、7mmの厚さにスライスしてあった。先週それを舟形の皿の形に創った。そして今日、蚊帳をおいて白化粧した。白化粧はあまり時間をかけずに手早におこなった。何故かと言うと土がまだ半乾きであるため折角の舟形の皿が壊れないようにするためである。再来週は素焼きされたものに釉薬をかけ、本焼きに出す。

今日は赤楽茶碗を自分で窯に入れて焼いた。楽茶碗は850度から900度の低い温度で30分ほど焼く。窯の傍にセンターの職員が付いていて手助けしてくれる。焼き上がった茶碗はなかなか良くできていると思う。昨年、黒楽茶碗を創ったので今回は赤にした。

本焼きに出していた葉っぱ状の香合が完成していた。これはお香を入れる内部にグリーンのガラスの破片を入れて焼いたものである。全体として美しい形に出来あがっていて、多少お茶に心得がある女房に茶碗・香合ともよくできているとの評価である。明日にでもこれらを写真に撮って陶芸のブログに掲載するつもりである。

陶芸の行き帰りに司馬遼太郎の『陸奥のみち、肥薩のみちほか』(朝日文庫)を読む。薩摩の陶土の村であり旧士族の村に、「沈寿官」という朝鮮名をもつ薩摩の中ぐらいの家格の旧士族の家がある。沈寿官氏の祖先は李氏朝鮮の全羅北道の南原城にいた。窯業技術をもっているため薩摩に連れてこられた。沈寿官氏14代目当主であるという。沈寿官は代々襲名する屋号のようなもので戸籍上の姓は大迫氏であるという。島津氏の軍が豊臣秀吉の命令で朝鮮に侵入し、朝鮮から引き揚げる時連れてきた人々は窯業技術を持たない者でも士分に取り立てられた家系が薩摩には幾つかある。それらは薩摩固有の日本姓を名乗ったという。司馬遼太郎は「薩摩藩が近代語でいえば他民族の者を士分にしたというのは驚嘆すべきことである。」とその本に書いている。
在日の人たちは結婚や帰化などで毎年2万人ぐらい減り続けているらしい。沈寿官氏、戸籍上は大迫氏のように、多くの在日の人たちも日本国籍を取って日本人になるだろう。

第二十三章「象」
328 もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、あらゆる危険困難に打ち克って、こころ喜び、念(おもい)をおちつけて、ともに歩め。

2010年3月10日水曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(47)(20100310)

 わが家に昔「タロー」と名付けていたヨークシャーテリヤのオスがいた。14歳余りと言う比較的短命で死んだがその犬を女房はとても可愛がっていた。男は犬があまり好きではなかったがまあ普通に世話はしていた。好きでなかった理由は「犬の臭さ」にあった。

 男が会社の研修でロスアンゼルスに半年と1週間ほど滞在中、友人の家によく遊びに行っていたが、そこでは中型の犬を飼っていた。犬は放し飼い同然で、トイレは自分で勝手に外に出て、どこかで済ませてきていた。帰って来ると陰部は濡れた汚れたままであり、足の裏は土で汚れている。その犬は外から帰って来ると居間のソッファに座っている男の膝に上がって来たりしていた。男はズボンを汚されたが余り気にしていなかった。

 ところが日本に帰ってきて暫くして長男が生後2カ月もしないヨークシャテリヤのオスを貰い受けて来た。血統書つきだったが2万円という安値であった。その子犬はカーペット敷きの床の上や休んでいる私のベッドに上がってきてベッドカバーの上などにおしっこをしていた。当時子犬のしつけ方は知らなかった。アメリカでの生活に比べ、家の中は狭いせいもあって、アメリカに居たときのようにはできなかった。

 そのタローが老衰し、白内障になり、田舎に帰るため犬のホテルにその犬を預けるべく車で連れて行く途中、車内で糞をたれたりして世話が大変になっていた。男のベッドカバーの上におしっこをしたり、車の中で糞をたれたりしたのは、今考えてみれば犬の欲求不満の表現であったのだろうと思う。

 もう犬は飼わないときめていた。今後15年以上犬の寿命があるとすると、自分たちが老いたときの犬の世話が大変であることが一つの理由であった。ところが埼玉に戸建ての家を構えている長男がまたタローと性格も毛並みの色合いも良く似たチワワを飼った。「クータン」と言う名前のオスである。このチワワは性格が大人しい。そして小太りで毛並みは黒と茶色である。目は飛び出していない。まるで「タロー」の生まれ変わりのようである。

 その家族が仕事や旅行など皆それぞれ出かけ家を空けなければならなくなったので、1週間ばかりわが家で世話をすることになった。今時室内犬の世話は楽になっている。排泄で外に連れ出しても陰部など拭い、足の裏を拭うのは手間がかからず楽である。消臭剤もいいものがあり、臭気の元の分子構造を変えてしまうらしい。クータンは私にもよくなつき、夫婦二人、特に女房はクータンから癒されている。家族が増えた感じである。

 かつて男はタローのことで女房に悲しい思いをさせてしまった。その償いの気持ちは勿論ある。しかし男自身も変わった。クータンに顔や手をなめまわされても気にはならない。考えてみれば、男が子供の頃、家に猫が飼われていたが、その猫はざらざらした舌でよく男の手などをなめていたし、冬の寒いとき外から帰って来て汚れたまま男の布団の中にもぐりこんで来ていたものだった。子供の頃の自分に戻ったということである。

314 悪いことをするよりは、何もしないほうがよい。悪いことをすれば、後で悔いる。単に何かの行為をするよりは、善いことをするほうがよい。なしおわって、後で悔いがない。

2010年3月9日火曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(46)(20100309)

 男はいつもながら夜中に一度はトイレに起き、明け方になると腸内にガスがたまり、時には胃の方もガス圧であろうか不快で目がさめても安眠したという気分でない。胃にピロリ菌が巣食っているに違いないと思い、近くの内科クリニックの先生に相談し、ピロリ菌検査用のキットを貰って帰っていた。しかしこのところ忙しく、またその先生から胃の粘膜を修復する薬を処方されていてまだ沢山残っているのでそれを使い切ってから行こうと思っていた。しかし今日こそはピロリ菌の検査をしてもらおうと思う。

 口が卑しいから美味しいものをつい食べ過ぎる。夕食は控えめに、よく消化するように食べるのが良いのであるが、つい多く食べ、よく噛まずに胃に入れてしまう。別に長生きしたいとは思わないが、病気になってまた女房に苦労をかけることはしたくない。男が10数年前前立腺がんで新橋の慈恵医大病院に入院中、女房は1時間半ぐらいかけて毎日見舞いに来てくれた。3年前痔の手術で我孫子の東葛辻中病院に入院中も2時間かけて毎日来てくれていた。

 齢に関係なく健康維持の為最善の摂生をすることが幸せの元である。意志を強固にして、断固摂生第一の日々を送らなければならない。今年73歳になるというのに、まだ若い時のような気持ちでいる。夜更かしはし、朝は遅くまで寝ている。これからは早寝早起きをし、朝は清々しい空気の中散歩をし、小食で良く咀嚼し、指の爪もみや腹式呼吸法を行い、病魔に近づかせないようにしなければならぬ。思い立ったら吉である。今午前6時半、男はこれから物音をたてないようにそおっと着替え、外に出て川の土手に出てみようと思う。

 東葛辻中病院に「つじなかにゅーす」というペーパーが置いてある。そのペーパーの記事に「痔に悩んだ人々」というタイトルで杉田玄白のことが書かれている。玄白は69歳のとき『養生七不可』を書いており「昨日の非は恨悔すべからず。明日の是は慮念すべからず。飲と食とは度を過すべからず。・・・」とある。この「つじなかにゅーす」のその部分を切り取って自分の部屋の中の目にとまる処に貼っておこうと思う。

 玄白は85歳で没しているが、その前年「耄耊(ぼうてつ)独語」で自分の老年の身体状況を冷静に見つめ、眼、鼻、耳、口、次に二つの竅(こう)(大小便の排泄口)、手、足、腰などの不自由さについて述べている。玄白は「厠に居ること長く、寒風の時は其苦しみいはんかたなし」と痔で苦しんでいた。男は自分はまだ玄白より一回り以上若いが日頃の養生に気をつけなければならぬとつくづく思う。

 第二十二章「地獄」続き、

312 その行いがだらしなく、身のいましめが乱れ、清らかな行いなるものも怪しげであるならば、大きな果報はやって来ない。
313 もしも為すべきことであるならば、それを為すべきである。それを断固として実行せよ。行いの乱れた修行者は、いっそう多く塵をまき散らす。

2010年3月8日月曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(45)(20100308)

 今日(7日)はまた冬の寒さが戻った。とは言え気温は7℃ぐらいであるから寒冷地に比べれば暖かい。このところ晴天の日が少なく、たまに4月上旬の暖かさとなる日があるが、周期的にシベリヤ高気圧がやってきて寒く曇天や小雨の日が多い。

 玄関の靴入れの戸棚の上に置いてある60cmの水槽に種類の違う金魚を2匹飼っている。初めは3cmぐらいのそれぞれ種類の違う、皆フナの仲間のような小さな金魚たちであった。初め3匹いたが一昨年1匹が死んで2匹となった。それがますます大きくなり60cmの水槽では窮屈そうである。水もすぐ汚れてしまう。エアを入れ酸欠にならぬようにし、水工作という簡易フィルターを入れているが2、3週間に一度は水槽の清掃が必要である。金魚はどのくらい生きるのか知らないが、彼らの寿命が尽きるまでよく面倒を見てやって後は飼わないことにしている。もうわれわれも齢だから・・。

 居間には60cmの水槽に熱帯魚などを飼っている。こちらの方も手入れが必要である。家の中にこのような生き物を飼っていると癒されるのであるが世話が面倒である。世話のため結構時間も費やしている。しかしこれも熱帯魚たちが皆寿命を終えるまでよく面倒をみてやろうと思っている。そのあとはもう飼わないことにしている。もう齢だから・・。

 男はこれまで「老人が老母を介護する」ためちょくちょく田舎に帰っている。その期間が1週間程度ならまだよいが、それ以上だと金魚も熱帯魚たちも餓死してしまうだろう。女房も花や観葉植物が大好きで、最近まで家の内外に鉢植えが沢山あったが昨年行われたマンションの外壁修理のときかなり整理してしまった。男は老母(男の継母・女房の実母)の介護で田舎に帰るとき、特に夏など折角育てた花や観葉植物を枯らさないようにすることが大変である。ベランダの花壇に一杯咲いていた花の数が減ってしまい外から見たとき淋しくなってしまった。

 男は一層のこと田舎に引っ越したらどうかと、自分自身も否定的な考えながら提案してみたが、住処を変えるのは非常に億劫であると女房も言う。これまで何かと目新しいものに興味をもってそれに飛びついて来たが、結局分かったことは「愚直なまでに保守的であることが一番」ということである。

 そんなことを考えていたら日頃女房が懇意にしている近所の人から今日釣ってきたばかりのヒラメとサザエを4個頂き、別の近所の人から御主人が茨城に仕事で行って来たと酒のつまみにもなるちりめんと胡桃と胡麻と砂糖などを主原料にした甘い口当たりのおつまみとわかさぎの甘露煮のおみやげを頂いた。両方の御主人とは自分も親しくしている。愚直なまでに保守的に、この小さなコミュニティに居続ける方が幸せである。

 第二十二章は「地獄」である。釈尊は弟子たちに「来世」のことを説かれた。「来世」は在るのだと思う。子供のような心で「来世」が在ることを「信じる」ことが重要である。

306 いつわりを語る人、あるいは自分がしておきながら「わたしはしませんでした」と言う人、―この両者は死後にひとしくなる、―来世では行いの下劣な業をもった人々なのであるから。

2010年3月7日日曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(44)(20100307)

 何でも興味を持ち、「やってみよう」と意欲的な人はボケないという。道端の草花を見つけ花弁の数を数えたり、楽器を奏でたりする人など脳の活動が活発な人は、実直で几帳面な人よりボケないという。しかしそのように活発に活動してきた人がある時から突然時間を持て余すようになると痴呆になり易いらしい。一方終生芸術的な活動や文筆活動に親しんでいる人が痴呆になったという話は聞いたことがない。

 終生脳の活動を活発に保ち続け、適度な有酸素運動も続け、大腰筋の鍛錬を怠らず、腹式呼吸法で体温の向上に心がけ、薬指以外の爪を揉みも適宜行って副交感神経の活動を適度に保つようにする人は、そのようにしていない人に比べ終生良い人生を送ることができると思う。(爪もみ・腹式呼吸の要領関連記事:「2010年2月8日月曜日、ブッダ「真理のことば」を学ぶ(17)(20100208)」)

 そのように終生元気で生きることができず病気や事故で命を落とす人が多い。その一方で腎臓などの臓器移植を受けて命を延ばしたいと願望している人が全国で12000人余りいるという。その人たちと臓器提供者とをつなぐドナーコーディネーターは全国でたった21人しかいないという。10人増員されるらしいが、コーディネーターの国家資格はない。

 福岡のある男性で自分の臓器提供を申し出ていた人がいた。健康であれば働き盛りであるその男性の両親は「息子が世の中に少しでも役立つようにしてやりたい。」と考え、息子の臓器提供に同意していた。その息子がいよいよ臨終間際になった夜中、待機していたコーディネーターと共に病院にかけつけた。両親がいま正に死んだ息子に面会することができたのは僅か5分間、直ちに腎臓摘出手術が行われ、1時間後に両親は題の上に横たわり白い布に包まれたその息子が運ばれてゆくのを見送った。コーディネーターはその両親の傍に寄り添い、ただひたすらその両親の気持ちを共有していた。提供された腎臓は、その腎臓の提供を待っている二人の男性に移植された。その移植手術は成功し、両親はその二人の男性に会うことも無く、ただその成功の報に接し、息子が世の中のためになったと信じた。しかし、その両親が生きている間、超多忙なそのコーディネーターに会うことは極めて少なく、自分たちより先に逝った最愛の息子のことを忘れられないでいる。

 その息子は両親の心の中で生き続けている。あの世で微笑んでいる。仏壇の前でその両親と息子は語り合っている。「世の中のために役立ったのだ」と。

304 善き人々は遠くにいても輝く、雪を頂く高山のように。
善からぬ人々は近くにいても見えない、夜陰に放たれた矢のように。

最愛の息子があの世に逝ってしまった後そう遠い年月でない時に両親も逝く。独りで。
305 ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身をととのえて、林のなかでひとり楽しめ。

2010年3月6日土曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(43)(20100306)

 埼玉の蕨で両親が5歳児を虐待し死なせた。新藤正美(47歳、無職)・早苗(37歳)が次男に十分な食事も与えていなかった。近所の主婦の話によれば子供が敬語で「水を下さい」と訴えたとき母親がすごい剣幕で「お前にやる水なんかない!」と怒鳴りつけ、ペットボトルで子供を叩く音も聞こえ警察に届けたという。児童相談所が調査に乗り出していたが虐待の実情は確認できなかったという。

 この夫婦は次男が生れたとき路上生活をしており、一時期その次男は2歳まで児童相談所に保護されていたということである。虐待の容疑で逮捕されたときその夫婦は、「逮捕されるようなことはしていなかった。」と白を切ったという。

 最も大きな問題は、児童相談所の対応である。犯人が「自分は犯人です。」と言う筈がない。事は子供の命に関わることである。児童相談所はその夫婦の言うことを信用せずあらゆる方法で虐待の事実をつかむ努力をすべきであった。場合によっては親権を無視してでもその児童を強制的に引き取ることをすべきであった。これは、児童相談所所長ら幹部の保身が招いた不幸である。そういう役人は直ちに左遷されるべきである。子供の命を守るために社会のシステムを変えて行かなければならない。人権が前面に出ると一番大事なことがおろそかにされることがある。この日本では都市化が進み、人口の大半が都市に住むようになり、隣人のことに関心を持たない人たちが増えてしまった。日本人が昔から培っていた助け合いの気風が薄れてしまった。先日「いじめられていた」という遺書を残して自殺した子供がいたが、学校におけるいじめの根本原因はその辺りにあると思う。

 政治活動に走る教員、竹島は韓国の領土であると教える教員、国旗や国歌を大事に思わない教員、そのような教員の組織である日教組は解体されなければならない。集票のためなら、自分の権力基盤を固めるためなら何でもしようと考える小沢氏らも批判されなければならない。民主党は自民党でできなかったことを一生懸命やろうとしているが、何が最も正しい行動なのか、思考なのか、見方なのか考える必要がある。さもないと7月の参院選では敗北を喫するだろう。矛盾はいずれ必ずはじけるものである。

 件の夫婦は自分たちの子供(=他人)を虐待して快楽を得ていた。政治家が自分権勢維持のためにとる行動も自分の快楽のためである。ブッダ「真理のことば」第二十一章「さまざまなこと」を学ぶ。

291 他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は、怨みの絆(きずな)にまつわられて、怨みから免れることができない。

292 なすべきことを、なおざりにし、なすべからざることをなす、遊びたわむれ放逸なる者どもには、汚れが増す。

293 常に身体(の本性)を思いつづけて、為すべからざることを為さず、為すべきことを常に為して、心がけて、みずから気をつけて人々には、もろもろの汚れがなくなる。

2010年3月5日金曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(42)(20100305)

 放送大学から合格通知書が届いた。教養学部(自然と理解コース)、全科履修生、学士入学、東京世田谷学習センター所属である。科目登録は分子生物学(‘09)と生物界の変遷(’06)の2科目である。学費は入学料22,000円、授業料22,000円となっている。このコースは理科系なので高度な数学の素養も必要であるが、そのうち古い書物を取りだして思いだしながら復習することにする。無理しない程度にマイペースで勉強できるところがこの大学の素晴らしいところである。女房は何年か前「社会と経済」に学士入学し、勉強中である。今後は夫婦そろって同じ大学で勉学に励むことになる。

 昨日は陶芸センターでスパゲッティでもカレーライスでもお惣菜入れでも使える楕円形の食器を4個創った。使った粘土は鉄分が含まれる赤土3kgである。来週はこれに蚊帳をかぶせて白化粧し乾燥させた後素焼きに出す。素焼きが出来上がれば器の底の部分にスペーターを塗って其処に釉薬がかからないようしてMIXの釉薬をかける。その後白系の釉薬で太い筆で線条に描き模様をつけ、本焼きに出す。どんなものが出来上がるかは、焼き上がってからの楽しみである。

 放送大学での勉強と陶芸と詩吟とこの随筆と、結構忙しいが充実した日々である。このような日々を送ることができるのは大変幸せなことである。この幸せは自分一人の力だけでは決して得られない。時空を超えた過去からの贈り物もある。夫婦、家族、父母、先生、友人など、それも時空を超えた過去から現在に至るネットワークによるものもある。自分はそのような全体の非可視・可視の総合的なネットワークの球体の中心にあり、時空の動きと共にその球体も動いている。

 心が貧しい間はそのような観念を持ち得ない。幸せを求めてもがき、苦しむ。幸せそうな人を羨む。羨むだけではなく、その幸せを妬み、奪い取ろうとする。しかし、決して幸せは得られない。物事に執着せず、吾只足りることを知って自分自身の心の向上を目指してひたすら努力した方が幸せであると思う。しかしそのことに気付かない。誰も教えてくれない。学ぶ能力もない。それは誰の責任でもない。自分自身の責任である。

 男は親を乳がんで失っている。父親はまだ70歳であったが白血病で他界している。女房も3歳のとき父親を糖尿病で失っている。4歳の時以来母親とは別居の暮らしをしている。それは不幸と言えば不幸である。しかし仏はいろいろな方便を用いて導いて下さっている。物事にはプラスのことばかりではない。マイナスのこともある。人生は良いところ取りをしたくてもそのようにはできないようになっている。マイナスもまた取りようによってはプラスである。それがひとびとを仏の導く方便である。

289 心ある人はこの道理を知って、戒律をまもり、すみやかにニルヴァーナに至る道を  清くせよ。

2010年3月4日木曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(41)(20100304)

 朝食後NHKのBS放送を見た。番組で岡山県の倉敷の大原美術館のことが紹介されていた。この美術館を建てた倉敷紡績創業家当主・大原孫三郎と画家・小島虎次郎の話に感動した。いつか是非、吉備の国岡山を訪れ、この美術館を訪ね、モネの「睡蓮」を初め名画の数々を見たいと思う。

 同じ岡山県出身の児島虎次郎は一歳年上の大原家当主・大原孫三郎の支援を受けて現在の東京芸術大学を卒業し、ベルギーに渡り、明治42年(1909年)ベルギーのゲント美術アカデミーに入学、明治45年(1912年)には同校を首席で卒業し、大正元年となった同年11月に帰国している。大原孫三郎と児島虎次郎の親交は虎次郎が昭和4年に45歳で没するまで続いた。孫三郎は虎次郎について「君の如く真面目に熱心に尽くしてくれた人はいない。」と言っている。彼が描いた「和服を着たベルギーの少女」という作品が大原美術館の入り口に掲げられているという。この絵はパリの画壇で入賞したものであるという。

 明治時代の吉備の国の二人の男の真心の交友に感動している。この二人によってこの日本には世界にない名画の数々が集められて、今日われわれに感動を与えてくれている。その中の一つ「聖母受胎」はフランス政府が買い戻したがっている名画である。是非一度吉備の国の倉敷を訪れてみたいと思う。

 吉備の国は、昔、神武天皇が東征の折、神武天皇一行を支援した国である。神武天皇の東征について古事記に書かれていることを分かりやすく解説すれば、以下のとおりである。即ち神武天皇は宮崎を出て北上し、大分の宇佐を経て福岡県の遠賀郡芦屋に1年間滞在し、広島に7年間滞在し、岡山に8年間滞在し、その地で水軍の協力を得て大阪に入り、その地で戦闘し兄の五瀬命が戦死している。そこで今度は紀伊半島を回る海路で、熊野経由で奈良盆地に入っている。奈良盆地は戦闘と婚姻関係で平定された。(関連記事:2009年11月12日木曜日「日本人の起源とヤマト王権(その5)(20091112)」参照。)

 人間の歴史は集団同士の闘争の歴史でもある。神武天皇は奈良盆地で土地の女性と婚姻関係をもち、多くの子孫を残した。男として女に対する欲望なしには子孫を残すことはできないであろう。イエスキリストは処女マリヤから生れたとされているが、それは宗教として信じるしかない。生物学的には処女懐胎などあり得ないと思う。

 ブッダの次のことばは、キリスト教の聖書にある「みだらな思いで女を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである。」ということばに通じるものがある。生身の男であれば、時と場合と状況と対象の女性にもよるが、目の前に現れた女の容姿を評価せずに、ただ中性の物体のように見ることはできないであろう。例えば男女同じ稽古衣を着て合気道の稽古をしているときはお互い中性である。その時以外はお互い男と女である。

284 たとい僅かであろうとも、男の女に対する欲望が断たれないあいだは、その男の心は束縛されている。乳を吸う子牛が母牛を恋い慕うように。

2010年3月3日水曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(40)(20100303)

 朝食後NHKの「この人とトキメキ」という番組を観た。二胡奏者チェンミン(陳敏)さんが出演していた。彼女は今29歳、二胡奏者であるお父様・陳龍章さんがチェンミンの演奏指導のためにいろいろアドバイスしてきたノートが紹介された。この親にしてこの子あり、22歳のとき来日し、アルバイトをしながら共立女子大を卒業し、日本語を流暢に話す。

 チェンミンさんによれば、二胡の音を共鳴させる琴筒の部分を丹田に当て自分の身体全体も共鳴させるようにして弾くのだという。そのため満腹状態では良い音が出ないという。番組では父娘の共演もあった。その演奏は素晴らしかった。谷村新司氏は彼女を絶賛していた。女房は「いいわね、異国で親子でこうやってNHKに出て、夢が叶って。」という。

 彼女は中国で教えられていた日本のことと、実際に見聞きする日本のことの落差が余りにも大きいいため、日本のことをよく知りたいと思ったのだそうである。彼女は長江中流域の蘇州の生れである。日本人の起源のことを思えば、彼女と我々日本人とは何千年の昔には血が繋がっていたであろう。(関連記事:2009年11月7日土曜日「日本人の起源とヤマト王権(その1)(20091107)」、2009年11月23日月曜日「縄文人、渡来系弥生人、日本人(20091123)」参照)

 蘇州近辺は漢詩に多くの地名が出て来る。いつか一度は中国を訪れてみたいと思っていたが、これまでいろいろ学んできたことをこの目でみるため、一度長江流域の史跡を訪れてみたいと強く思うようになった。その地域への旅行を真剣に考えてみようと思う。

 その地域の人々に対して旧日本軍が多大な苦しみを与えた。その戦争の惨禍を記念し後世に遺そうと鄧小平氏が上海に「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀館」を建てた。それは一般には「南京大虐殺記念館」と呼ばれているものである。社民党の前身である日本社会党の田辺誠という人物が総評から3000万円の金を得てその建設資金としたものである。中国はこれを反日教育の場にしている。戦争だから無法なことが実際に起こったのは間違いないが、事実が曲げられ、誇張され、宣伝されている。

 チェンミンさんが語ってくれた「落差」はそのようなところにあると思う。チェンミンさんは日中のかけはしになっている。嬉しいことだ。(関連記事:2009年12月9日水曜日「普天間基地問題(20091209)」参照。)

 チェンミンさんはお父様と女優であるお母様の指導がとても良かったのだと思う。22歳で来日し、努力し、今や二胡奏者として世界に羽ばたこうとしている。モンゴルやグルジアやロシアなどからやってきて日本の相撲力士になった方々もそうであるが、皆、若い時に一生懸命頑張ってきて今日がある。オリムピックで活躍した選手たちも同様である。親や学校の先生や先輩などの指導が良く、本人も努力したから今日がある。

ブッダ「真理のことば」第二十章(つづき)
280 起きるべき時に起きないで、若くて力があるのに怠りなまけていて、意志も思考も薄弱で、怠惰でものうい人は、明らかな智慧によって道を見出すことがない。

2010年3月2日火曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(39)(20100302)

 ヴァンクーヴァーオリムピックでは日本は女子選手が輝いた。浅田真央選手は個人フィギュアで銀メダル、パシュートでは小平・田端・穂積ティームがトップと100分の2秒差で銀メダル、その他の選手らも頑張って入賞した。男子選手もスピードスケートやフィギュアスケートで銀と銅メダルを獲得したが女子選手が特に輝いていた。最年少の中学生高木選手はパシュートの補欠として共に頑張り、次のソチに向けて非常に良い経験をした。

 ゴルフでは全米女子オープンで宮里藍選手が二度目の優勝を果たした。自殺者が3万2千人を超えるという暗さが漂う世の中、女性が輝いていることは嬉しい。朝食を取りながら今朝(2日)のNHKの「生活ほっと地域限定ご当地コスメ美肌アップ賢い美容術人気化粧水」という長ったらしい名称の番組を観ていたら、女性たちがスタディオで、また四国など地方で柚子やお茶などを利用した美容術を紹介していた。画面に登場した老婦人も主婦も独身と思われる女性たちも皆明るく生き生きと輝いていた。

 昔、天照大神が天の岩屋戸(アメノイワヤト)に籠ったとき世界が暗くなった。皆心配していろいろ打開策を講じたが、そのとき天宇受賣命(アメノウズメノミコト)が神がかりしてストリップを演じたら居合わせた神々が皆笑い、天照大神があやしく思って天の岩屋戸を初め少し開き、いろいろ問答の後、戸を全部開いて外に出て来た。そうしたら世界がパアっと明るくなったという話が『古事記』に書かれている。

 女性たちが元気でないと世の中は暗い。今朝たまたま見たNHKの番組を見てつくづくそう思った。女房が帯状疱疹でここ1ヵ月近く苦しんでいたがようやく治ってきて一層そう思う。男は本来外向的である。原始時代、男は狩りをし戦闘をし家族・一族を守っていた。男が女のようになるのは良くない。男はあくまで男らしくなくてはならない。しかし、女が明るく元気でないと男は男らしくなれないのだ。

 女は現実主義者であるから哲学や宗教などにはあまり関心がない。今から約2500年前仏の教えを説いたのはシャーキャ族の王子であられたお方である。今から約2000年前神の教えを説いたのはユダヤの王家の末裔・イエスキリストである。

 そのシャーキャ(釈迦)族の出身の聖者・釈尊のことば、ブッダ「真理のことば」第二十章を続ける。仏教は、誰でも修行すればブッダになれるという教えである。

277 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
279 「一切の事物は我(われ)ならざるものである」(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

2010年3月1日月曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(38)(20100301)

 ブッダ「真理のことば」第二十章は「道」という題である。これを通読すると、われわれ世俗の、もうあの世に近くなっているまで座禅すらしたこともないような凡人にとって、仏道の修行はとてつもなく難しいことのように思える。例えば、下の273番目に釈尊は「情欲を離れることが最も優れている。」と言っておられるし、後で示す284番目には「たとい僅かであろうとも、男の女に対する欲望が断たれないあいだは、その男の心は束縛されている。」と言っておられる。

 釈尊のように若い時に王宮での幸せな生活を断ち、妻子と別れ、修行に励んだお方が悟りを開いてそのようにおっしゃっておられる。しかしわれわれ凡夫にはとてもそのようなことはできない。齢をとっても男は女に対する情欲を断つことはできず、女もまた然りであろう。「然りであろう」というのは、自分は老女でないので分からないのだ。しかし宇野千代というお方だったか、彼女は老女になっても恋をしたという。この世に生を享けて暮らしている間は、普通の人なら法律に触れるような罪は絶対に犯さないことはできるだろうが、自制している内なる心の中に巣食う情欲・情念の火まで消しさることはできないと思う。もしできる人が居れば、その人は‘聖人’に近いと思う。

 人生を長く生きて来た凡夫は、自制している内なる心の中に巣食う情欲・情念の火を無理に消しさることせずに、あるがままに一生懸命に生き、死ぬ時は一生懸命に死ぬように心がけ、藤原道長のように阿弥陀如来の来迎を信じて安らかに生涯を閉じればよいと思う。

 一番大事なことは、自分が棺桶に片足を突っ込むとき、「良い人生だった」と笑顔を見せるような生き方をすることだと思う。自分の人生の目標を見いだせないでもがき苦しんでいる若い人たちが多いが、国として、社会として、この自分自身としても、彼らになにか手助けがでいないものかと思う。スポーツの振興、武道の奨励、子どもたちの遊び場の増設、10代の一時期、自衛隊、警察、消防、海上保安庁などの訓練施設での宿泊訓練、ボーイスカウト、ガールスカウト活動の奨励など国家予算をかけて行うと良いと思う。

 昔は皆貧しく、情報量も少なく、自力で生きて行くことが当たり前のような部分はあったと思うが、今の時代、豊か過ぎて、特に都会では華やかで皆幸せそうに見えて、自分一人だけが取り残されているように思うのかもしれない。しかし、その内実、皆淋しくて誰かに寄り添わないと不安で仕様がないのかもしれない。いくら釈尊が「自分を洲とし、自分を拠りどころとし、他を拠りどころとするな」とおっしゃっても、そのようにできないのが普通一般の人々の状況なのである。

273 もろもろの道のうちでは<八つの部分よりなる正しい道>が最もすぐれている。もろもろの真理のうちでは<四つの句>(=四諦(たい))が最もすぐれている。もろもろの徳のうちでは<情欲を離れること>が最もすぐれている。人々のうちでは<眼(まなこ)>ある人>(=ブッダ)が最もすぐれている。

2010年2月28日日曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(37)(20100228)

どういう人物が働きかけたのかどうか分からないが、国連人権委員会が高等学校の教科書代無償化について朝鮮学校を除外する動きに対して懸念を示した。鳩山総理は朝鮮学校でどのような教育が行われているのか不透明であるし、北朝鮮による拉致問題が未解決な状況下、除外する方向であるという趣旨の発言をしていたが、その後トーンダウンした。
この問題は一部の勢力の言うなりになって解決してはならないと思う。先ず朝鮮学校でどのような教育が行われているのか殆どの日本国民は知らされていない。学校では反日教育が行われているという話を聞いたことがある。朝鮮総連の幹部は北朝鮮の政府高官との間で緊密な連絡を取り合っていると言われている。
国交がない国の民がこの日本国内で自由気ままな活動をすることを許し、人権という美名のもとにこの民に日本の参政権を与えようとする動きがある。勿論人権を尊重することは非常に重要である。しかし権利には義務を伴うのである。権利だけを認め、義務について寛容であることがあってはならない。朝鮮学校における教科書の無償化は、その学校で行われている授業内容を100%公開するという義務が果たされるならば、権利として当然認められるべきである。先ずは義務を果たして貰いたいと思う。

政権や与党の実力者は先ず謙虚であって欲しいと思う。一部の実力者がその他の衆を束ね、わが思いのままに行動をすると、必ず禍根を残す。実力がない故に声を発さない衆の者の内なる声を聞かず、進んで憎まれ役をしている者がいる。彼は‘声を発さない衆の者’の影に怯え、公的なボディーガードに護られている。
一般国民はそのような政権や与党がこの国を支配していることに言いようのない不安を感じている。それでもこれまでよりはましだと思って固唾をのみながら彼らを見守っている。よく考えてみれば、これは異常な状況である。もしここに新たな政党が誕生し、行動を起こしたならば、一般国民の期待は一挙にその新たな政党の方に向けられるだろう。

次のことばは、聖者に関するブッダのことばである。政権や与党の実力者は勿論聖者ではない。しかし、聖者のようにあって欲しいと思う。もし聖者のようにあれば、一般国民の言いようのない不安感は払しょくされ、この政権と与党に対して歓喜の声を上がるだろう。

268、269 ただ沈黙しているからとて、愚かに迷い無智なる人が<聖者>なのではない。秤を手にもっているように、いみじきものを取りもろもろの悪を除く賢者こそ<聖者>なのである。かれはそのゆえに聖者なのである。この世にあって善悪の両者を(秤にかけてはかるように)よく考える人こそ<聖者>とよばれる。

ここで「賢者」について、「ブッダ「真理のことば」を学ぶ(35)(20100226)」参照。