2010年3月7日日曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(44(20100307)

 何でも興味を持ち、「やってみよう」と意欲的な人はボケないという。道端の草花を見つけ花弁の数を数えたり、楽器を奏でたりする人など脳の活動が活発な人は、実直で几帳面な人よりボケないという。しかしそのように活発に活動してきた人がある時から突然時間を持て余すようになると痴呆になり易いらしい。一方終生芸術的な活動や文筆活動に親しんでいる人が痴呆になったという話は聞いたことがない。

 終生脳の活動を活発に保ち続け、適度な有酸素運動も続け、大腰筋の鍛錬を怠らず、腹式呼吸法で体温の向上に心がけ、薬指以外の爪を揉みも適宜行って副交感神経の活動を適度に保つようにする人は、そのようにしていない人に比べ終生良い人生を送ることができると思う。(爪もみ・腹式呼吸の要領関連記事:「201028日月曜日、ブッダ「真理のことば」を学ぶ(17(20100208)」)

 そのように終生元気で生きることができず病気や事故で命を落とす人が多い。その一方で腎臓などの臓器移植を受けて命を延ばしたいと願望している人が全国で12000人余りいるという。その人たちと臓器提供者とをつなぐドナーコーディネーターは全国でたった21人しかいないという。10人増員されるらしいが、コーディネーターの国家資格はない。

 福岡のある男性で自分の臓器提供を申し出ていた人がいた。健康であれば働き盛りであるその男性の両親は「息子が世の中に少しでも役立つようにしてやりたい。」と考え、息子の臓器提供に同意していた。その息子がいよいよ臨終間際になった夜中、待機していたコーディネーターと共に病院にかけつけた。両親がいま正に死んだ息子に面会することができたのは僅か5分間、直ちに腎臓摘出手術が行われ、1時間後に両親は題の上に横たわり白い布に包まれたその息子が運ばれてゆくのを見送った。コーディネーターはその両親の傍に寄り添い、ただひたすらその両親の気持ちを共有していた。提供された腎臓は、その腎臓の提供を待っている二人の男性に移植された。その移植手術は成功し、両親はその二人の男性に会うことも無く、ただその成功の報に接し、息子が世の中のためになったと信じた。しかし、その両親が生きている間、超多忙なそのコーディネーターに会うことは極めて少なく、自分たちより先に逝った最愛の息子のことを忘れられないでいる。

 その息子は両親の心の中で生き続けている。あの世で微笑んでいる。仏壇の前でその両親と息子は語り合っている。「世の中のために役立ったのだ」と。

304 善き人々は遠くにいても輝く、雪を頂く高山のように。
善からぬ人々は近くにいても見えない、夜陰に放たれた矢のように。

最愛の息子があの世に逝ってしまった後そう遠い年月でない時に両親も逝く。独りで。
305 ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身をととのえて、林のなかでひとり楽しめ。