2010年3月5日金曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(42(20100305)

 放送大学から合格通知書が届いた。教養学部(自然と理解コース)、全科履修生、学士入学、東京世田谷学習センター所属である。科目登録は分子生物学(‘09)と生物界の変遷(’06)の2科目である。学費は入学料22,000円、授業料22,000円となっている。このコースは理科系なので高度な数学の素養も必要であるが、そのうち古い書物を取りだして思いだしながら復習することにする。無理しない程度にマイペースで勉強できるところがこの大学の素晴らしいところである。女房は何年か前「社会と経済」に学士入学し、勉強中である。今後は夫婦そろって同じ大学で勉学に励むことになる。

 昨日は陶芸センターでスパゲッティでもカレーライスでもお惣菜入れでも使える楕円形の食器を4個創った。使った粘土は鉄分が含まれる赤土3kgである。来週はこれに蚊帳をかぶせて白化粧し乾燥させた後素焼きに出す。素焼きが出来上がれば器の底の部分にスペーターを塗って其処に釉薬がかからないようしてMIXの釉薬をかける。その後白系の釉薬で太い筆で線条に描き模様をつけ、本焼きに出す。どんなものが出来上がるかは、焼き上がってからの楽しみである。

 放送大学での勉強と陶芸と詩吟とこの随筆と、結構忙しいが充実した日々である。このような日々を送ることができるのは大変幸せなことである。この幸せは自分一人の力だけでは決して得られない。時空を超えた過去からの贈り物もある。夫婦、家族、父母、先生、友人など、それも時空を超えた過去から現在に至るネットワークによるものもある。自分はそのような全体の非可視・可視の総合的なネットワークの球体の中心にあり、時空の動きと共にその球体も動いている。

 心が貧しい間はそのような観念を持ち得ない。幸せを求めてもがき、苦しむ。幸せそうな人を羨む。羨むだけではなく、その幸せを妬み、奪い取ろうとする。しかし、決して幸せは得られない。物事に執着せず、吾只足りることを知って自分自身の心の向上を目指してひたすら努力した方が幸せであると思う。しかしそのことに気付かない。誰も教えてくれない。学ぶ能力もない。それは誰の責任でもない。自分自身の責任である。

 男は親を乳がんで失っている。父親はまだ70歳であったが白血病で他界している。女房も3歳のとき父親を糖尿病で失っている。4歳の時以来母親とは別居の暮らしをしている。それは不幸と言えば不幸である。しかし仏はいろいろな方便を用いて導いて下さっている。物事にはプラスのことばかりではない。マイナスのこともある。人生は良いところ取りをしたくてもそのようにはできないようになっている。マイナスもまた取りようによってはプラスである。それがひとびとを仏の導く方便である。

289 心ある人はこの道理を知って、戒律をまもり、すみやかにニルヴァーナに至る道を  清くせよ。