2011年9月13日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(14) (20110913)

明治天皇の「五ヵ条の御誓文」も復活させるべきである!

明治天皇の「五箇条の御誓文」は次のとおりである。

一、広く会議を興(おこ)し、万機(ばんき)公論(こうろん)に決すべし。

 一、上下心を一にして、盛んに経綸(けいりん)を行ふべし。

    一、官武(かんぶ)一途(いっと)庶民(しょみん)に至るまで、各(おのおの)其の志(こころざし)を遂げ、人心をして倦まざらしめむことを要す。

 一、旧来(きゅうらい)の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道(こうどう)に基(もとづ)くべし。

 一、知識を世界に求め、大いに皇基(こうき)を振起(しんき)すべし。

我国(わがくに)未曾有(みぞう)の変革(へんかく)を為(なさ)んとし、朕(ちん)躬(み)を以(もっ)て衆(しゅうに先(さきん)じ、天地神明(てんちしんめい)に誓(ちか)ひ、大(おおい)に斯国是(このこくぜ)を定め、万民保全(ばんみんほぜん)の道を立(たて)んとす。衆(しゅう)亦(また)此(この)旨趣(ししゅ)に基(もとづ)き協心(きょうしん)努力せよ。

 明治維新はこの天皇の御誓文により成された。民主党が政権をとったとき鳩山首相(当時)は「平成の維新だ」と意気込んでいた。民主党は初めて政権をとって小躍りしたが、元々寄せ集めの烏合の衆のような体質の政党であるため失策続きである。3.11大災害は与党にも野党にも良い経験をさせた。日本は本来あるべき姿・形に戻るため、一歩前に進んだと思いたい。

日本のあるべき姿・形は、自虐史観から脱却し憲法を改正して正式に国防軍を持つ国になることである。同盟国と双務的関係になることである。その実現のため、今上陛下から上記御誓文に準ずるようなお言葉を頂くことができればと、はかない夢を見る。

 上記五箇条御誓文の口語訳は次のとおりである。

一、広く人材を集めて会議体を設け、重用政務はすべて公正な意見によって決定せよ。

一、身分の上下を問わず、心を一つにして積極的に国策を遂行せよ。

一、朝臣武家の区別なく、さらには庶民の総べてにわたって、各自の志望を達成できるようにはからい、人々を失意の状態に追いやらぬことが肝要である。

一、これまでのような、かたくなな習慣を打破して、普遍性のある道理に基づいて進め。

一、知識を世界の先進国に求めて、天皇の大業を振興せよ。

これにより、わが国では前例のない大変革を行おうとするにあたり、わたしはみずから諸臣の先頭に立ち、天つ神、国つ神に誓い、重大な決意のもとに国政に関するこの基本事項を定め、国民の生活を安定させる大道を確立しようとしているところである。諸臣もまたこの趣旨に基づいて心を合わせ努力せよ。                (続く)

2011年9月12日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(13) (20110912)

「皇国史観」を復活させるべきである!

 戦後「皇国史観」も「教育勅語」も否定されてしまったが、私はこの二つを復活させてもちっともおかしくないと思っている。これを復活させるにあたって、戦意高揚のため「海ゆかば」が利用されたようなことが起きないように、『万葉集』や『日本書紀』などの史料を正しく解釈し、利用するように心がければよい。また、明治天皇の「五ヵ条の御誓文」も復活させるべきである。これは今の時代に適用しても決して軍国主義につながるようなものではない。なぜこれまでこれらが埋もれてしまっていたのかというと、私と同世代の終戦当時まだ子供だった世代や戦後生まれの世代の人たちが、アメリカの政策によって徹底的に民主教育を受け、自虐史観を植え付けられ、洗脳されてしまっていたからである。

 昭和21年(1946年)11日、官報により「年頭、國運振興の詔書」が発布された。その中に次の一節がある。「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。」

 当時の口語文では「爾等」が「お前たち」という風になるが、今の口語文でこの詔書の内容を表現すると「私とあなた方国民の間の絆は、終始相互の信頼と敬愛とに依って結ばれているのであって、その絆は単なる神話と伝説とに依って生じるというものではありません。またその絆は、天皇を現人神とし、日本国民は他の民族より優秀な民族であるので世界を支配すべき運命にあるのだというような架空の観念に基づくものでもありません。」ということである。これがいわゆる「天皇の人間宣言」と言われるものである。

 詔書には御璽印が押される。詔書の制度は平安時代の昔から法律で定められていた。平安時代の昔、天皇が「神の子」のように思われていた時代でも、天皇は自分勝手に詔書を出すことはできなかった。先ずは天皇と公卿(今の内閣総理大臣他各閣僚に当たる人々)が合意し、事務方(中務省の内記という官職の者が草案を作成し、上司3人(大臣、事務次官、課長相当の各役職)が署名し、文書記録・保存の諸手続きを経て事務方が天皇の印(御璽印)を押す。そうするとその文書は非常に大事な文書となるので外記という役職の者が所定の手続きを行い天皇への上奏文とともに太政官会議(閣議のようなもの)にかけ、天皇に報告し、文書記録・保存など所定の手続きを踏んで初めて詔書となる。この仕組みは現憲法下天皇が詔書を発布する手続きに踏襲されている。

 皇国史観を復活させてもちっともおかしくない。『古事記』『日本書紀』の神話の部分は、その神話が天皇家の祖先のことを語るものとしてそのまま単純に理解し、天皇の機能が基本的には平安時代の昔から変わっていない。奈良時代から平安時代の初期にかけて、天皇が自ら政治の表舞台に立っていた時代があったが、天皇は次第に「象徴」のような存在になった。それが今でも続いているのである。             (続く) 

2011年9月11日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(12) (20110911)

 「教育勅語の復活」「皇国史観教育の復活」と言うと極右的な考え方であると非難されるだろう。皆が皆でないにせよおそらく在日の韓国・北朝鮮籍の人たちや韓国人・中国人の非常に多くの方々から敵意を持たれるだろう。自虐史観に凝り固まっている日本人や日本人の反日活動家らは、そのような発言を封殺しようとするだろう。しかし冷静になって「教育勅語」や「皇国史観」のどこが悪いのか考えてみることが必要である。 

先ず「皇国史観」について考えてみる。

 『古事記』『日本書紀』に書かれている「神代」のことについて、それを学問的に根拠がない「作り話」であるとする立場をとる人々は、例え自分の子供が生まれたときでも、七五三のときでも正月でも、旅行でたまたま立ち寄った場所でも、神社に全く参拝しないし、天皇陛下・皇后陛下が大震災の被災地を訪れ、被災者を慰められたことを少しも有り難いとも思わないだろうか?自分の日常生活において、自分が日本人であるということを幸せであるとちっとも思わないだろうか?そもそも何故日本人なのだろうか?「神話」は「歴史物語」である。しかもそれは万世一系の今の皇室につながる物語である。

「皇国」は「天皇の国」という意味ではない。「天皇が統治する国」の意味である。古代、天皇は自ら政治を行うお立場であった。しかし平安時代摂関政治が始まったときから天皇は現代と同じように「象徴」となられた。それでも戦前までは「御前会議」で外交・国政上のことで天皇のご意思が示される仕組みがあった。現代では天皇は憲法第一章に定められたとおりに国会の指名により内閣総理大臣を任命し、内閣の指名により最高裁判所の長を任命し、内閣の助言と承認により憲法に定められた国事行為を行うという完全な「象徴」であるが、それでも天皇は上述のような形この国を統治している。従って日本人は「皇国史観」の内容は変化したということを承知した上で、神武天皇以来続いてきた「皇国史観」を捨てる必要は全くないのである。

次に「教育勅語」についてである。教育勅語に書かれている「臣民」とは「明治憲法のもとでの日本の人民であり、天皇・皇族以外の者」のことである。また「朕」とは「天子」のことである。「天子」とは「天命を受けて人民を治める者」であり、「国の君主」のことである。「天命」とは「天から与えられた人の宿命」である。「天」とは「大自然の力」のことである。また「君主」とは「世襲による国家の統治者」のことである。正に「象徴」であらせられる天皇陛下が我が国の憲法に基づく君主である。

このように「教育勅語」に書かれている言葉を解釈してこれを読むと、言葉としては文語調で古臭いが現代にそのまま生かせる凝縮されたものであり、日本人の精神の根本が書かれたものであることがわかる。私はこの「教育勅語」の原文と、例えば「我が臣民」を「国民の皆さん」、「朕爾臣民(ちんなんじしんみん)の倶(とも)に」は「私はあなた方国民が共に」と口語文を併記して小中高校で唱和させればよいと考える。そのことを法律できちんと制度化しておけば日本人の「体外遺伝子」は守られるだろう。 (続く)

2011年9月10日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(11) (20110910)

 (前日より続き)

 この即位式のときに神武天皇は「六合(りくごう)を兼ねて都を開き、八紘(はっこう)を掩(おお)いて宇(いえ)となさん。また可(よ)からずや」と述べている。六合とは「国のうち」、八紘とは「天の下」という意味で、ここから「八紘一宇」という言葉が生まれた。

 この言葉は「世界を一つの家とする」という意味を持つが、戦後の東京裁判において「日本が世界を征服するという意味を示したもの」と曲解され、批判された。しかし、当時の弁護団が明快に説明したように、これは神武天皇が即位式に集まったもろもろの氏族や土着の部族に対し、「これからは国じゅう一軒の家のように仲良くしていこう」という願いを述べられたものである。言うなれば長い戦争のあとの平和宣言であり、同時に日本の建国の精神を示したものなのである。

 伝承によれば、神武天皇がこの言葉を述べたのは「二千六百年前の話となっているが、「八紘一宇」はこの前の大戦のときにも生きており、今日もなお吟味すべき価値のある重要な言葉である。

 例えば第二次大戦中、ユダヤ人を迫害したヒトラー政権が、同盟関係にある日本に対してユダヤ人迫害政策への協力を要求してきたことがあった。そのとき日本の陸軍大臣、板垣征四郎は五相会議において「神武天皇がこの国を開かれたとき、天皇は、“八紘(はっこう)を掩(おお)いて宇(いえ)となさん”と仰せられた。ユダヤ人を迫害するのは神武天皇のお言葉に反する」と発言した。その結果、日本はドイツの要請を斥(しりぞ)け、当時の世界で唯一、ユダヤ人を迫害しないと明瞭に打ち出した国となった。

 この例を見てもわかるように、日本には二千六百年前に即位した初代天皇の言葉が現代になっても脈々と生き続けているのである。また「神武東征」のエピソードに登場する橿原神宮などの神社が今も続いている。ここからもわかるように、日本の文化的遺産、つまり古代文化は、エジプトのピラミッドや古代ギリシャの神殿のような単なる「遺跡」ではない。現代もなお「生きている」ところに、その大きな特徴があるのである。”(昨日からの続きはここで一旦終わる。)

 渡部昇一『日本史』の一部を全文引用した。その理由は、私はこの部分が最も重要であると思うからである。日本人の精神文化の大本とすべき部分がこの一文にある。

 私は教育勅語」を復活させるべきである、また「皇国史観」も戦前軍国精神高揚のため利用された部分、特に「海ゆかば」の歌などは、『続日本紀』聖武天皇と『万葉集』4094番に出ている大伴家持の歌を戦意高揚のため利用されたので、その部分などは修正のうえ小中高校教育で教育されるべきであると思っている。それこそが「日本人が日本人である」というアイデンティティを自覚できる最短・最良の道であり、傷ついてしまっている日本人の「体外遺伝子」を修理し、補強する最も良い方法であると思っている。 (続く)

2011年9月9日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(10) (20110909)

 『古事記』を作成した太安万侶(正式には正五位上勲五等太朝臣安萬侶)は実在の人物でその墓所が1979年(昭和54年)123日、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から発見されている。火葬にされた骨など納められた木櫃と共に墓誌が出土している。

 663年、日本が百済を回復させようとして唐の海軍と新羅の陸軍の連合軍と戦った白村江の戦いに先立ち百済に護衛をつけて送還した百済の王子・豊章に娶せたのは、この太安万侶の一族の娘であった。

 インターネット上にはこの豊章が天智天皇だったなどと馬鹿げたことを書いて喜んでいる輩がいる。戦前だったらこのような反日活動家を直ちに逮捕して牢獄に送り込むところである。今の日本人が東京裁判によって魂を抜かれてしまったからこういうことが起きる。

その『古事記』に次の一節がある。

ここに天津日子番能邇邇藝命(あめつひこほのににぎのみこと)・・(中略)・・詔りたまひしく、「此地(ここ)は韓國(からくに)に向ひ、笠沙(かささ)の御前(みさき)を真來通(まきとおり)りて、朝日の直刺(たださ)す國、夕日の日照る國なり。故、此地(ここ)は甚吉(いとよ)き地(ところ)」

笠沙は鹿児島県さつま市笠沙町のことである。ニニギノミコトは笠沙町の黒瀬漁港になっているところに上陸したとされ、地元では「神渡海岸」と呼ばれている。その黒瀬海岸に長江流域から海を渡ってやって来た民が我々の先祖の一派である。環境考古学者・安田喜憲著『古代日本のルーツ 長江文明の謎』に「長江文明関連遺跡」の分布の図があり、長江流域の20か所近くの遺跡の場所とともに、日本列島ではこの笠沙、出雲、鳥取県の淀江、福井県の鳥浜貝塚が示されている。渡部昇一『日本史』に戻る。

“この鵜葺草葺不合尊と玉依姫から生まれたのが神武天皇である。これは神話であり厳密には解釈できないが、そのように伝承されていると皇室の起源が明快に語られていることは重要である。

神武天皇は「東征」を行って大和朝廷を打ち立てた人物である。神話の系図の最後に現れるところから、ギリシャ神話でいえばアガメムノンに相当するといえよう。

神武天皇は今の大阪湾のあたりから生駒山を越えて大和のほうに進もうとするが、その土地を支配していた豪族、長髄彦(ながすねひこ)の軍隊と激しい戦いになる。・・(中略)・・

神武天皇が長髄彦(ながすねひこ)と戦ったときの神話に金の鵄(とび)が神武天皇の弓に止まって、その光に恐れて敵が逃げ出したという話だが、この神話は戦前まで生きていた。すなわち金鵄勲章である。これは軍人だけに与えられる最も名誉ある勲章であった。

長髄彦(ながすねひこ)との戦いに勝利した神武天皇は倭を平定し、土着の氏族の降伏を受け入れて橿原宮(かしはらぐう)で即位する。この橿原宮は、橿原神社として今日も尊ばれている。

                                  (続く)

2011年9月8日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(9) (20110908)

 東日本大地震災害で非常に多くの漁民たちの命が失われた。漁民たちの先祖は古代に海部という氏姓を与えられていた人々であろう。律令制度下、海部という氏姓を与えられていた人々は全国各地で漁業や海運に携わっていた。朝廷があった中央で安曇連という伴造が全国の海部を管理していた。被災した漁民たちは日本全国の漁民たちの協力を得て漁船や漁具を集め、復興に向かって立ち上がっている。

日本人がツングース系である騎馬民族の支配下にあったという歴史観はとんでもない話である。その作り話を文化勲章を受けたほどの学者・江上波夫が、皇国史観を真っ向から否定する反日的学者・活動家・作家・マスコミ等の影響を受けて、戦争に負けて打ちひしがれていた日本国民の心をとらえた。

今の民主党国会議員の一部の主要メンバーや日本に帰化した人々を含む民主党の多くの国会議員たちは江上学説をまともに信じていることであろう。そのことを公言したとされる大物もいる。「日本列島は日本人だけのものではない」と公言した人物もいる。「君が代の国歌は変えた方が良い」と公言した人物もいる。民主党国会議員の中に外国人参政権を実現させようとしている連中や夫婦別姓を推進しようとしている連中がいる。民主党を資金的に支援している外国人団体がいる。今の状況を放置しておけば、この日本はやがて日本ではなくなってしまう。一刻も早く売国奴的な民主党を、日本人のための政党に改造してもらわなければならぬ。そのためには、選挙民である日本国民の意識改革が必要である。

“神話では、その後素戔嗚尊(すさのおのみこと)が乱暴を働き高天原(たかまがはら)から追われたことになっている。このときから天照大神の天孫降臨系と素戔嗚尊(すさのおのみこと)の出雲(いずも)系(出雲族)に分かれたと考えられる。そして天照大神が引き取った男の子の子孫が神武(じんむ)天皇へとつながるのである。

素戔嗚尊が引き取った三人の女神は安芸(あき)の宮島にある厳島(いつくしま)神社に祀られ、さらに北九州の宗像(むなかた)神社にも祀られている。特に田霧姫命(たぎりのひめみこと)は朝鮮半島と日本の間に浮かぶ沖つ島に祀られている。この島の祭祀跡からは古墳時代の遺物が多数発見されている。おそらく素戔嗚尊はここから追われて一時は朝鮮半島に行ったのではないかと推測できる、また戻ったという伝承も残っている。・・(中略)・・

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)という天照大神の孫にあたる方が高天原から天孫降臨して日本に来たと伝わっている。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は木花開耶姫(このはなさくやひめ)と結婚する。・・(中略)・・二人の間には三人の男児が生まれるが、その中の二人が後の世に知られる海幸彦(うみさちひこ)・山幸彦(やまさちひこ)である。

この三人のうち山幸彦があとを継ぎ、豊玉姫(とよたまひめ)という海神(わたつみ)の娘と結婚する。そこから生まれた鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)も玉依姫という、」やはり海神の娘をもらったことになっている。”        (続く)

2011年9月7日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(8) (20110907)

 皇室の起源について、渡部昇一『日本史』を括弧(“”)で引用する。(以下同じ)

 “皇室の起源にかんしては、今でも伊勢神宮が尊ばれ、多くの神社が生きていることを見逃すわけにはいかない。これも昔からの伝承を伝えておく必要があるからだろう。

 日本の神話では、最初の神様は男女の別がない。それが伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)から男女神に分かれて、その男女の神が日本列島の島々をつくったことになっている。

 そして伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)には三人の子供が生まれる。後に天照大神(あまてらすおおみかみ)といわれる大日孁貴(おおひるめのむち)、それから月読尊(つくよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)である。

 このうち月読尊は神話ではほとんど語られることがないが、これが南方から来た民族の系譜だとすれば、再び故郷に戻ったものと考えることもできるだろう。”

 私は、この部分に関してロマンを感じる。月読尊で代表される一族が再び故郷に戻ったというよりは、この一族は奄美・沖縄・八重山を経て台湾・フィリッピン・インドネシアと移動し、その間にアフリカを出発して別のルートで南洋諸島にやってきた人々と交流し、「島生み」神話を伝えた後病気か何かで途絶えたのではないかと。伊弉諾尊・伊弉冉尊(以下、イザナギ・イザナミ両神という)の一族の先祖がはじめ長江流域で高い文化を持った一族であるとすれば、現地人に尊敬されたに違いない。南洋諸島に残る神話が日本の神話に共通している部分があるのはそのためであると私は思う。

 “女神である天照大神と素戔嗚尊(すさのおのみこと)は姉弟の関係だが、「誓約(うけい)」という関係にある。その間に子供が生まれたことが伝えられている点から、この「誓約」とは「結婚」を意味していると考えられる。そして五人の男の子と三人の女の子が生まれる。男の子は天照大神が、女の子は素戔嗚尊(すさのおのみこと)が引き取ったと伝えられる。”

 天照大神と素戔嗚尊の部分について『古事記』にこう書いてある。「然らば汝(いまし)の心の清く明(あか)きは何(いかに)して知らむ。」とのいりたまひき。ここに速須佐之男命答へ白ししく、「各誓(うけ)ひて子生まむ。」とまをしき。故(かれ)ここに各天(あめ)の安(やす)の河(かは)を中に置きて誓(うけ)ふ時に、(以下略)。原文は「然者汝心之清明、何以知。於是速須佐之男命答白、各宇氣比而生子。故爾各中置天安河而、宇氣布時」(『古事記』倉野憲司校注・岩波文庫より)

 『日本書紀』には姉(天照大神)弟(素戔嗚尊、『古事記』では須佐之男命)との結婚についてもっと具体的に書いてある。また姉弟の性交の様子はあからさまには書いていないが、その部分は『古事記』も『日本書紀』も艶っぽい表現で書かれている。

 なお、イザナギ・イザナミ両神が生んだ子に住吉大神あり、これは航海を司る神である。これは全国各地の海部を中央で管理する伴造・安曇連等が祭る神である。  (続く)

2011年9月6日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(7) (20110906)

 “江上波夫「騎馬民族征服王朝説」ははじめから成り立たない”と、『決定版 日本史』渡部昇一先生は言う。東大名誉教授だった江上波夫氏は1948年に「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」と題するシンポジウムで騎馬民族征服王朝説などを発表し、考古学会に一大センセーションを巻き起こした。彼がこの説を唱えたことで文化勲章をもらったとは思わないが、既に故人となっている彼に私は強い憤りを感じている。

 彼の所説の要点は、「大和朝廷は、夫余(ツングース人)騎馬民族によって、4世紀末から5世紀前半ごろに始まった」ということである。日本の大歴史学者、それも東大の学者の所説なので、これに触発された人たちは多い。書店に人目を引くキャッチフレーズで、皇国史観を否定する本や、韓国の学者が書いた本が並べられている。日本人の「外部遺伝子」はこれによって傷つけられたことは間違いない。

 渡部昇一先生は「騎馬民族征服王朝説」を否定する理由として、京都大学原勝郎博士の英文の著書『An Introduction to The History of Japan(日本史入門)』を引用して次のとおり言っている。

 “第一に住宅のつくり方が高床式になっている。・・(中略)・・そこに暮らした人々が明らかに南方系であることを示唆している。

  第二の理由は、日本人の米に対する異常ともいえる執着心である。・・(中略)・・米はご存じのように南方植物であって、これはいわゆる騎馬民族の国に生えるものではない。

  第三に勾玉というものが考古学的には重要である。というのは、勾玉は百済(くだら)と日本にしか発見されていないからである。ここから推測されることは、おそらく南のほうからやってきた民族がやや北の方に逸(そ)れていったのが百済、すなわち朝鮮南部に住み、主力は九州に上陸し、そこから大和地方に行ったのではないか、ということである。(後略)

  第四の理由としては、宗教の儀式で禊(みそぎ)が重要視されていることである。禊とは水をかぶるものだから、これは南方系の儀式と考えて間違いない。”

騎馬民族は稲作文化を持っていない。日本の稲作文化は、安田喜憲著『古代日本のルーツ 長江文明の謎』をもとに多少の推測を加えて言えば、長江流域の民が北回り(北方の狩猟畑作文化をもった漢族の圧迫から逃れて北上し朝鮮半島経由で日本へ回ってきたルート)と南回り(長江河口から船で沖縄・奄美をへて日本へ回ってきたルート)によりもたらされたおのであり、米の種類はジャポニカ種である。

また、ミトコンドリア遺伝子のタイプM7aは日本列島だけではなく朝鮮半島南部に僅かのこっている事実、考古学的発掘品から朝鮮半島南部に縄文人が住んでいた痕跡が見つかったという事実、そして663年に日本が海から漢族の中国と陸からツングース系の新羅の挟み撃ちにあって百済を救うことができず大敗し、敗残兵ととともに非常に多数の百済の民が日本に引き揚げた事実から、江上波夫の説は完全に否定されるものである。 (続く) 

2011年9月5日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(6) (20110905)

縄文人は人類がアフリカを出発した初期の段階で日本列島やってきている。ミトコンドリア遺伝子のタイプM7aは日本列島全域に分布している.。このタイプM7aは朝鮮半島南部及びロシア沿海州に僅か1%ぐらいの分布が見られるが、この日本列島だけに多く分布している。この縄文人は南洋諸島にも広がっていたかもしれないが、中国大陸・朝鮮におけると同様、後発の人々によって駆逐されてしまったのかもしれない。

南方諸島には日本と類似した神話を伝承しているという。そのことが、吉田敦彦著『日本神話の源流』に書かれている。しかし渡部昇一著『決定版 日本史』には、佐渡島など地名をあげた国造りの話は今の皇室にもつながる話であり日本独自のものであると書かれている。世界中どこにも、日本のような万世一系の王朝は存在していないのである。

吉田敦彦著『日本神話の源流』によれば、“日向神話と並んで、南洋の伝承との類似性が特にいちじるしいといわれてきたのは、イザナギとイザナミの夫婦神を主人公とする、「国生み神話」の部分である。・・(中略)・・南洋諸島は、太古に神が海底から島を釣り上げたという形で、陸地の起源を説明したもので「島釣り型」として分離されている。・・(中略)・・島が男女の交合の結果、子として生み出されたという、「島生み型」の陸地創造神話も、ポリネシアに広く分布している。・・(中略)・・イザナギの黄泉国訪問の物語とよく似たポリネシアの神話は、ニュージーランドのマオリ族のあいだに伝わる、・・(中略)・・

日本神話と古代ギリシアの神話のあいだに、いくつかの注目すべき類似点が見られるということは、すでに明治以来、内外の研究者によってしばしば注意されてきた。・・(中略)・・イザナミの黄泉の国訪問の神話と、ギリシアの有名なオルペウス伝説のあいだに見られる類似である。”

しかし、私は『日本神話の源流』で著者がいろいろ論証しながら最後に、“「古事記」「日本書紀」に見られる神話体系の成立にあたって、決定的な役割を演じたのは、朝鮮半島を経由した支配者文化の一環として入りこんできたと思われる、印欧系文化に源流を発する神話の影響であった。”と結論付けていることに不快感を覚える。理由は、江上波夫「騎馬民族征服王朝説」同様、彼に日本の歴史に対する「史観」がないと見るからである。

日本人は『古事記』『日本書紀』の記述を「史観」として単純に受けいれ、万世一系の天皇を頂くこの日本の国民であることを誇りに思うべきである。一部の学者たちは、あの手この手で日本人のアイデンティティを否定しようとしている。私は彼らが単に学問の専門馬鹿なのか確信犯なのかはわからないが、彼らの説に韓国の学者が便乗し、万葉集や日本の言語文化の源を古代韓国に無理やりこじつけた本を書いて出している。

日本人は日本人の「体外遺伝子」である日本の精神文化を大事にしなければならない。その精神文化を示す言葉は数えきれないほどあるが、天皇・古事記・日本書紀・神道・仏教・武士道・合気道・茶道・万葉集・和歌・能・狂言などなどである。 

再び渡部昇一『決定版 日本史』に戻る。

2011年9月4日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(5) (20110904)

 『決定版 日本史』に“日本の国の根幹となった人たちは、だいたいは南方系と考えてよいだろう。”と書かれていることについて、私は環境考古学者・安田喜憲著『古代日本のルーツ 長江文明の謎』に書かれている次の一節から、「南方系」は「長江流域系」であるだけではなく、それ以前に縄文人がいて根幹の一つをなしていたと考える。『決定版 日本史』は一先ず休んで、『古代日本のルーツ 長江文明の謎』を引用しながら考える。

 “中国の雲南省から長江流域、そして西日本には多くの文化的共通点がある。たとえば、納豆や餅などネバネバした食べ物が好きであるということ。・・(中略)・・雲南省では、日本の長良川の鵜飼いと同じように、鵜に魚を飲み込ませる漁が行われている。雲南省も日本ももともとは主たるタンパク源は魚であった。この他にもお茶を飲み、味噌、醤油、なれ寿司など発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。”

 “湖南省の彭頭山(ほうとうざん)遺跡は、1万年前から環濠をもった集落を形成していたことがわかっている。水田では稲をつくっていたが、気候が乾燥し干ばつになると稲作は危機を迎える。・・(中略)・・彼らは、城塞をつくったのである。城塞の後ろにため池をつくり、ため池によって水の感慨をコントロールするようになった。”

 “稲作農耕民にとって、太陽の運行は非常に大きな意味を持っていた。このことから推論できるのは、長江文明を築いた人々が太陽に対して特別な思いを抱いていたということである。”この部分は『古事記』の天照大神の話を思い出させる。

 “長江文明を担った人々の末裔だった苗族。なぜ彼らは長江流域から離れなければならなかったのか。・・(中略)・・その原因をつくったのは、北方からの民である。北方の民は、稲作漁労の長江の民と違い、畑作牧畜の民である。・・(中略)・・北方の民にはすでに青銅器が普及していて、彼らは青銅の武器を手にしていた。そして馬に乗っていた。馬と金属器をもった人々と石器しかもたない人々の戦いの結末は見えている。”

 “とくに約3000年前の寒冷・乾燥化は厳しいもので、北方の民は大挙して長江流域に押し寄せた。・・(中略)・・多くの人々は、北方からやってきた人々と一緒に暮らしただろう。しかし、そうでない人々もいた。・・(中略)・・江流域の民が向かったのは、中国の山奥ばかりではない。海を渡り、台湾にも行っている。さらに日本列島にも渡り、日本の弥生文化の成立に大きな影響を与えたと考えられる。”

 私は彼らこそが渡来系弥生人であると考える。彼らはジャポニカ種の稲作を日本にもたらした。私は、彼らはY染色体遺伝子のタイプDをもつ男たちに率いられて、長い年数をかけて海岸伝いに北上し、朝鮮半島を経て北九州にやって来たグループあり、海を渡って沖縄・奄美列島伝いに南九州にやって来たと考える。『古代日本のルーツ 長江文明の謎』には、長江流域と日本の考古学的遺跡からの出土品の類似など、長江文明と日本の関係について様々な例を挙げて説明されている。 (続く)

 

2011年9月3日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(4) (20110903)

 歴史について二つの見方があると渡部先生は言う。

 “一つは考古学的な発掘からはじまるもの、もう一つは文献からはじまるものである。・・(中略)・・日本の国にとって特に重要な文献は神話といわれるものである。ただし、どこの国にも神話は存在するが、他の国にとって、神話と歴史とはほとんど関係ないと考えてよい。なぜならば、神話の時代とその後そこに住んでいる人たちは民族が違っているし、もちろん王朝も違っているからである。・・(中略)・・

 ところが日本の場合は、神話が今現在も続く王朝(天皇家)に直結している特異な国であり、それゆえ神話は特別の意味を持っている。それを明治の頃までの学者たちは心得ていた。・・(中略)・・

 神話に書かれている内容と歴史とがリンクする部分についてはいろいろな解釈があるが、何よりも重要なのは、そこに書かれた伝承が今の皇室まで一本線でつながっている点なのである。

 では日本の神話についてどう書かれているのか、それはまず日本が島国であったというところからはじまっている。神様がこの島国をつくられたというのであるが、これはどこの国の神話をみても、神のような存在がこの世をつくったという話になっている。その点では似たようなものである。

 ただ、日本の神様は単に「国をつくった」というのではなく、「島国をつくった」と明確に書いてある。そしてつくった島の名前も詳細に書いてあり、そこに佐渡島(さどがしま)まで出ている。そこから、日本の王直を立てた民族は少なくとも船で日本を回った経験があるだろう、という推定ができる。

 すなわち騎馬民族説というのははじめから成り立たないのである。したがって、日本の皇室を中心とする支配民族、後に大和(やまと)朝廷をつくり日本の国の根幹となった人たちは、だいたいは南方系と考えてよいだろう。”

 私は、小中学校教育では、『古事記』をしっかりと教えるべきであると思う。『日本列島の大王たち』(古田武彦著、朝日文庫)という単行本がある。そこに次の一節がある。“江上波夫氏の騎馬民族説は、津田史学の双肩の上に立脚している。・・(中略)・・津田史学の根本たる「記紀説話創造説」、・・(中略)・・逆にいえば、もし本当に騎馬民族の大陸から日本列島への侵入があったとすれば、これほど絵になる光景はまたとないであろう。”

私は日本の教育の現場から東大津田史学史観を徹底排除すべきであると思う。民主党の小沢一郎氏が文化勲章をもらった江上波夫氏の騎馬民族説を信じて、140人もの国会議員を引き連れて中国(王朝)詣でをしたことや、「この日本は日本人だけのものではない」と発言した鳩山由紀夫氏も菅直人氏も、その出自はともかくとして多くの民主党の国会議員たちも、騎馬民族説を信奉している同類であると思い、不愉快に思っている。 (続く)

2011年9月2日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(3) (20110902)

 渡部昇一先生は言う。“育鵬社の歴史教科書『新しい日本の歴史』にも参考意見を述べるように頼まれた。そのとき私は、「国史という美しい虹が見えるようなものを作って下さい」とお願いした。特に取り上げてお願いしたことは、東京裁判の全権所有者で、日本を裁く側の頭目であったマッカーサーが、帰国後、アメリカ上院の軍事外交合同委員会という最も公的な場所で

 「したがって彼ら(日本人)が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障(自衛)の必要に迫られてのことだったのです(Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security)」(小堀桂一郎編『東京裁判日本の弁明』講談社学術文庫より)と証言したことを、コラムのように囲んで教科書に入れてほしいということだった。

 しかし文科省の教科書調査官は、これを許さないのだという。しかし日本を侵略国と公式に断定したのは東京裁判だけである。その裁判をやらせた最高責任者が、「あれは自衛戦だったのだ」と公的な場所で証言してくれたのである。これは「意見」ではなく「史実」、しかも戦後の日本における最重要な史実なのであるからこれを掲載させないのは不思議である。・・(中略)・・すべての日本国民は、今後も日本史の教科書にはマッカーサーのこの証言を入れることを休むことなく要求し続けるべきと思う。”

 これは渡部昇一先生の遺言のようなものである。日本人が自虐史観から脱さない限り、日本人の「体外遺伝子」の傷は癒えず、時間が経つにつれその傷は深くなり、修復不能になってしまうだろう。

 「体外遺伝子」とは、DNAという「体内遺伝子」に対して、日本の文化の特殊性を示す幾つかの言葉である「天皇・古事記・日本書紀・神道・仏教・武士道・剣道・空手・弓道・合気道・茶道・華道・香道・御神輿・神楽・邦楽・万葉集・古今和歌集・俳諧・文楽などなど」日本の精神文化・伝統文化など、DNAがハードウエアとすればソフトウエアに相当するものである。

 今、韓国や中国は、日本のこのソフトウエアを警戒し、これを破壊させることを企んでいるようである。日本は「情報戦」を仕掛けられていて、かなり深刻であると私は思っている。これ対抗するには、日本人自身が自分たちの「体内遺伝子」はもとより、この「体外遺伝子」をよく認識し、自覚することだと思う。それには学校教育が最も重要である。その学校教育をつかさどる文科省に、そんなことは絶対ない、あり得ないと信じるが、もしスパイのように、ウイルスのように、韓国や中国などがいろいろ影響を及ぼすよう訓練した人物がもぐりこんでいるとすれば事態は非常に深刻である。民主党政権は反日活動家を国家公安委員長に据えた。この国の政府内で起きた、もしくは実際に起きつつあるかもしれないことに、私は疑心暗鬼せざるを得ないのである。

 と言うのは官僚たちや政治家たちが受けた戦後の教育というものは、アメリカによって日本人の精神改造を行うような教育であったからである。 (続く)

2011年9月1日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(2) (20110901)

 私は、万物に備わっている「自存力」をキーワードに、日本人が「自存」のため如何に努力して来たかを考えて来た。

私は終戦の年の8月、9歳のとき、32歳の母、7歳の弟、そして母に背負われた2歳の妹と朝鮮から引き揚げて来た。父は教職にあったので9月末に引き揚げて来た。9月の新学期から転校先の小学校に通った。家でも学校でもまだ戦前の気風が残っていた。

家では家長の祖父が日常生活すべての面で威厳を示していた。朝、起床後洗面し、神仏を拝した後、挨拶を受けるため火鉢の周りに座している祖父母らに「おじいちゃんお早うございます、おばあちゃんお早うございます、お父さんお早うございます」と個別に相手の名前を言って、両手をついて挨拶していた。食事のとき、祖父は食卓の両側に並ぶ家族の中央に位置していた。祖父の脇には祖父用の小さな御櫃があり、白米のご飯が入っていて祖母が御代りのご飯をついでいた。祖母以下は麦飯だった。

学校でも今時考えられないことであったが、ある日私たち2年生男子生徒10名ばかりが教室内に一列に並ばせられて、教師のH先生からスリッパの端で一人ひとりほっぺたを叩かれたことがあった。何か悪いことをしたためだと思うが、叱られた理由は覚えていない。

私は小学校低学年のとき戦前と戦後の変化を経験したに過ぎず、戦前の「良かった」点については、学習でしか知ることはできていない。その中で、三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監室で益田総監の眼前で作法に則り切腹し、森田某の介錯で見事な最期を遂げ、「檄文」を遺したことに強い衝撃を受けた。母は翌年2112月乳がんで死んだが、その死の間際までの母の毅然とした態度・振る舞いなどからも私は強い影響を受けている。その他、私自身の先祖・家系のことも私の思考の原点にある。

私は渡部昇一先生の著書を幾つか買って読んだ。私より7歳年長の彼の著書は、私にとって最も解りやすいものである。彼は『日本史』にこう書いている。

“個々の歴史的事実について丹念な研究は尊い。しかしそれだけでは国史という虹は生じない。無数の歴史的事実から自分の国の美徳を示すのは史観である。無数の事実を見るための正しい視線の方向と距離が必要なのである。

逆説的になるが、私は日本史の素人であるからそれができたと思う。私はイギリス国学史の重要な分野で、文献資料に関係する研究をやってきたので、日本史の学者の論考を見ても、その方法論や資料の用い方の正しさや不適切さを見抜くことができたと思う。”

人はものごとを見るとき、自分のバックグラウンドでしか見ることはできない。人が人を測るとき、自分の器量の範囲内でしか測ることはできない。菅直人氏が「私は原子力の専門家である」と言っても、人びとは彼が原子力の研究に携わってきているのではなく、市民活動や政治をやってきた人であることを知っているので、彼は原子力の専門家ではないこと知っている。知らないのは彼自身である。彼の出自に関するバックグラウンドを含め彼がこの国の総理になったことは、この国の民にとってよい勉強になった。 (続く)

2011年8月31日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(1) (20110831)

 渡部昇一『決定版 日本史』を読む。この本は非常にわかりやすい。私は多くの日本国民にこの本を読んで欲しいと思っている。というのは、日本が子子孫孫の代まで国体が維持され、平和で安全で繁栄し続けるためには、私は日本人が自国の歴史を正しく知ることが必要であると確信しているからである。

 日本は日本に対して非友好的な国々に囲まれている。表向き友好的であっても尖閣や東シナ海油田の事と言い、竹島の事と言い、拉致の事と言い、北方領土の事と言い、中国、韓国、北朝鮮、ロシア各国は日本に対して牙をむいている。

 日本・日本人とこれらの諸国・人民との間では、どこが似ていて、どこが違っているのだろうか? 私は、日本人は先ず其処のところよく知ることが非常に重要であると思っている。正に「己を知り、敵を知らば、百戦危うからず」である。

 中国・韓国・北朝鮮人は、日本人を見て「同じ北東アジア人である。自分たちと容貌や体つきが似ている」と思っているだろう。日本人自身もそう思っているだろう。先ずそこが重要なポイントである。日本人は、相手(中国人・韓国人・北朝鮮人)の容貌や体つきが似ているから、自分の心情はその相手に通じるだろうと思いがちである。しかし、実際は通じない。そこで日本人はその相手に怒りや不信感を抱く。

 一方、その相手も日本人を見て、「日本人は自分たちと同じ容貌・体つきをしているのに、われわれの国に軍隊を送り込み、国を荒らし、人民を苦しめ、戦争に負けたにも拘わらず国際的にも自分たちより優位に立っている。憎たらしいやつだ」と思っている。むしろ、相手が欧米白人のように容貌・体つきが異なっている方がお互い理解しあえたと思う。

 日本人と中国人・韓国人・北朝鮮人とはDNAが違っている。縄文人はこの日本列島と朝鮮南部およびロシア沿海州にしか残っていなかった。我々日本人は体のどこかに縄文人の痕跡を残している。勿論、ロシア人とは明らかにDNAが違っている。

 次に最も重要なことは、日本人は戦争に負けて重要視しなくなった天皇・古事記・日本書紀・神社・仏教・武士道・和歌・俳句・剣道・合気道・空手・茶道・華道など日本独特の要素を再認識することである。日本人は、上述DNAとともに、これらの要素を認識することが、「自分が日本人である」というアイデンティティを確立する上で非常に重要である。鳩山元首相のように、「この日本は日本人だけのものではない」と馬鹿なことを言い出す日本人は、その様なアイデンティティを持たないか自覚していない日本人である。

私は渡部昇一『決定版 日本史』を読みながら括弧(“”)で引用する。渡部先生はこう書いておられる。“通史には史観が要る。虹を見るには特定の視線が必要なように。私の日本史観の特徴と言えるものは次の二点ではないかと思う。

第一は、王朝の断絶がない日本では、神話の伝承は歴史研究から切り離せない。

第二は、日本の国体(国の体質、英語ではコンスティテューション)は、断絶したことはないが、大きな変化は五回あり、今は六回目の変化を待っている時代である。” (続く)

2011年8月30日火曜日

我が身に照らして国を思う(20110830)

 私のY染色体遺伝子は、私の孫息子に確実に伝わっている。私の孫息子に対する私の思いは、私が書き遺すため作業中のわが家の家伝書と、私がこのブログのために書いたものの中にも詰まっている。私と私の妻がこれまで築き上げてきたわが家の文化は、それを多少なりとも受け継いだ息子によって、私の孫息子にも幾分かは伝わるだろう。

前者、即ち私のY染色体遺伝子は私の「体内遺伝子」である。そして後者、即ちわが家の家伝書と、ブログに書いた諸々の記事の中から選ぶ幾つかの記事の印刷物と、わが家の文化の一部は私の「体外遺伝子」である。

 こうして私の孫息子には、私の「体内遺伝子」と、私の「体外遺伝子」が伝わる。問題は、「体外遺伝子」である。これは、壊れやすく傷つきやすい。これは意識して遺すようにしなければ残らない。「体外遺伝子」が壊されると、わが家は末代まで続かなくなる。

 日本と言う国でも、「体内遺伝子」と「体外遺伝子」を意識的に残すようにしなければならない。日本は、縄文人と渡来系弥生人のそれぞれ特殊な遺伝子を受け継いできている日本人の国である。何千年という長い年月の間に血が混じり合い合い、顔つきや体つきだけでは縄文人なのか渡来系弥生人なのか、中国人や朝鮮人や欧米白人なのか区別できなくなってしまっているが、遺伝子的に見れば日本人は特殊な人種である。

 日本人の何割かの人に分布しているミトコンドリア遺伝子M7aN9bタイプは縄文人に特有の遺伝子である。Y染色体遺伝子D2タイプは中国人や韓国・北朝鮮人には全くないという。勿論縄文人たちはそれらの遺伝子だけの人たちではなく、それ以外のタイプの遺伝子を持った人もいる。(参考:『Nerwton最新版 日本人の起源』など)

 重要なことは、日本人は、そのような「体内遺伝子」を受け継いできているということである。一方で、日本人は、万世一系の天皇を頂き、日の丸の国旗や「君が代」の国歌を持ち、「武士道」・神道・仏教など精神文化を持ち、剣道・柔道・合気道・古武術などの武道や茶道・華道・香道などの伝統文化、和歌・邦楽などの芸術文化、夏祭りなどの郷土の文化を持っている。日本人はそのような「体外遺伝子」も受け継いできている。

 日本に打ち克ちたいという気持ちが非常に強い韓国人の中には、日本の「体外遺伝子」を壊そうとする人たちがいる。日本の“「体外遺伝子」は韓国にオリジナルがある”と、わざわざ外国で宣伝する者がいる。中国人の中には、中華思想に頃固まっている人たちがいて、日本を「小日本」と侮蔑したり、武力を増強し、軍艦を外洋に進出させで日本との間で緊張を作ったりしている。日本人が意識的に「体外遺伝子」を守り抜こうとしない限り、日本は国として衰退の道をたどることになるだろう。

 「体内遺伝子」は生物学的な要素であるから、日本に非常に多くの外国人が流入して特定の地域に固まって住むようなことがない限り、日本人の「体内遺伝子」は多少薄められるだろうが無くなってしまうことはない。しかし、「体外遺伝子」は、日本人がこれを大切に思い、守ってゆこうとしない限り、そのうち日本は日本でなくなってしまうだろう。

2011年8月29日月曜日

平和への道は「恐怖心」を無くすことから始まる(20110829)

 今日、15日終戦記念日。戦争は何処の国の人々でも避けたいものであると思う。しかし、避けようにも避け得ぬことがあるのも戦争である。集団のリーダー(またはリーダーのグループ)が戦争を決定し、或いは「戦争やむなし」と国民の気持ちを導き、戦争になる。些細な武力衝突が戦争のきっかけになることもある。

 何故、人は殺し合うのか? 私は、それは相手に対する「恐怖心」があるからだと思う。「恐怖心」は人をして「異常な行動」をとらせる。一対一の対決ならば、仲裁者が現れればお互い矛を収めるだろう。しかし、集団対集団、国対国ともなれば仲裁は容易ではない。

 中国は何故我が国の安全を脅かそうとするのだろうか? 一つの理由は、中国のリーダーグループ、つまり中国共産党政府が、統治している中国人民の政府に対する不満のはけ口を作るため、「日本との友好」を口にしながら、一方で「反日」を煽り、或いは容認し、抗日戦争の歴史的事実を捻じ曲げ、或いは事実を極端に誇大化し、中国人民に誤った日本観を植え付けていることがある。南京虐殺記念館はその一つの事例である。

 南京事件について、「虐殺は無かった」という主張から、「16千人ぐらい殺した」という見解や、「20万人、いや30万人虐殺された」「虐殺の事例はかくかくしかじかで日本兵は非常に残虐だった」まで種々ある。多くの中国人は、日本人(田邊 誠元社会党委員長)が総評から提供を受けた3千万円の資金を出し、日本人が設計した南京虐殺記念館(中国では「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」)に、展示されている事実に反する資料やパネルを見て、反日の気持ちと中国への愛国心を高めている。

 中国政府が中国人民に誤った日本観を植え付ければ、中国人民は日本に対して不必要な「恐怖心」を持つことになること必至である。中国が東シナ海で緊張を高めるような行動をすれば、日本も中国に対して必要な行動を取らざるを得ない。

 日本に対する誤った歴史観を植え付けられた中国人は、中国政府の官僚や中国軍の将校になり、日本人に強い警戒心と反発心を与えるような行動に出て得意になっている。菅直人氏に代表される市民活動に熱心な人々は、反戦・平和を唱える。菅氏は反日活動家を国家公安委員長に指名した。菅氏は国会で国歌を別のものに変えるべきだと言った。民主党政権は尖閣列島中国漁船衝突事件を適切に処理せず、事件の全貌が判る映像を日本国民に公開しようとはしなかった。菅氏や民主党政権の国家観は希薄である。

 集団の構成員が抱く「恐怖心」は、増幅されれば、その構成員に「異常な行動」を起こさせる。アメリカで起きた9.11事件で、アメリカ国籍を持っているアラブ系の人々、イスラム教徒たちは「人種プロファイル」に記録され明白な差別を受けた。戦時中日系アメリカ人たちも、白人たちの日本に対する「恐怖心」から不法に強制収容された。

 日中両国間で、国民の間に「恐怖心」がある限り、決して平和はやって来ない。「反戦・平和」を唱えているだけでは決して平和にはならない。現実では相手の脅しに屈しない「武力」が必要である。その上で「恐怖心」を解くようにお互い努力しなければならない。