2011年9月9日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(10) (20110909)

 『古事記』を作成した太安万侶(正式には正五位上勲五等太朝臣安萬侶)は実在の人物でその墓所が1979年(昭和54年)123日、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から発見されている。火葬にされた骨など納められた木櫃と共に墓誌が出土している。

 663年、日本が百済を回復させようとして唐の海軍と新羅の陸軍の連合軍と戦った白村江の戦いに先立ち百済に護衛をつけて送還した百済の王子・豊章に娶せたのは、この太安万侶の一族の娘であった。

 インターネット上にはこの豊章が天智天皇だったなどと馬鹿げたことを書いて喜んでいる輩がいる。戦前だったらこのような反日活動家を直ちに逮捕して牢獄に送り込むところである。今の日本人が東京裁判によって魂を抜かれてしまったからこういうことが起きる。

その『古事記』に次の一節がある。

ここに天津日子番能邇邇藝命(あめつひこほのににぎのみこと)・・(中略)・・詔りたまひしく、「此地(ここ)は韓國(からくに)に向ひ、笠沙(かささ)の御前(みさき)を真來通(まきとおり)りて、朝日の直刺(たださ)す國、夕日の日照る國なり。故、此地(ここ)は甚吉(いとよ)き地(ところ)」

笠沙は鹿児島県さつま市笠沙町のことである。ニニギノミコトは笠沙町の黒瀬漁港になっているところに上陸したとされ、地元では「神渡海岸」と呼ばれている。その黒瀬海岸に長江流域から海を渡ってやって来た民が我々の先祖の一派である。環境考古学者・安田喜憲著『古代日本のルーツ 長江文明の謎』に「長江文明関連遺跡」の分布の図があり、長江流域の20か所近くの遺跡の場所とともに、日本列島ではこの笠沙、出雲、鳥取県の淀江、福井県の鳥浜貝塚が示されている。渡部昇一『日本史』に戻る。

“この鵜葺草葺不合尊と玉依姫から生まれたのが神武天皇である。これは神話であり厳密には解釈できないが、そのように伝承されていると皇室の起源が明快に語られていることは重要である。

神武天皇は「東征」を行って大和朝廷を打ち立てた人物である。神話の系図の最後に現れるところから、ギリシャ神話でいえばアガメムノンに相当するといえよう。

神武天皇は今の大阪湾のあたりから生駒山を越えて大和のほうに進もうとするが、その土地を支配していた豪族、長髄彦(ながすねひこ)の軍隊と激しい戦いになる。・・(中略)・・

神武天皇が長髄彦(ながすねひこ)と戦ったときの神話に金の鵄(とび)が神武天皇の弓に止まって、その光に恐れて敵が逃げ出したという話だが、この神話は戦前まで生きていた。すなわち金鵄勲章である。これは軍人だけに与えられる最も名誉ある勲章であった。

長髄彦(ながすねひこ)との戦いに勝利した神武天皇は倭を平定し、土着の氏族の降伏を受け入れて橿原宮(かしはらぐう)で即位する。この橿原宮は、橿原神社として今日も尊ばれている。

                                  (続く)

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